黒木彩奈


こんな夢を見た。


腕組みをして座っていると、仰向きに寝た女が、静かな声で「もう死にます」と言う。女は長い髪を布団から畳へ広げて、やや肉付きの良い顔をその中に横たえている。そばかすの浮いた頬には黄色い肌を通して血の気が窺え、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。


しかし女は静かな声で、「もう死にます」とはっきり言った。どうにも女の眼の色が分からないので、はて、それはまことかと疑念して、「そうかね、もう死ぬのかね」と上から覗き込むようにして聞いてみた。「死にますとも」と言いながら、女はパッチリと目を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫毛に包まれた中は、よく見ると茶の色を含んでいる。瞳の奥から、歪に縮んだ自分がこちらを見ている。パチリ、パチリと瞬きをするごとに、自分が尻をモゾモゾとさせるせいか、眼が光の受け方を変えて同じくモゾモゾと見える。それがまるで生き物の如くで、それを眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、今度は這うようにして女の枕元に口を寄せて、「まさか死ぬまいね、大丈夫だろうね」とまた聞き返した。すると今度は、女は潤んだ眼を眠そうに半分閉じて、やっぱり静かな声で、「でも、死ぬんですもの、しかたがないわ」と言った。そこで女の眼に自分が映らなくなって、初めて、これは女の言う通りかもしれないと考えた。思案にくれながら、「それでお前、私はどうすればいいんだい」と尋ねると、「そりゃ、貴方、物事には手順があるでしょう」と、女はもうだいぶ眠いのか、投げやりな答えをする。睫毛がピクピクと痙攣している。自分も、うん、その通りだろうと考えて、死に際の水を取ってやろうなどと考えては早くも目尻を濡らす。そのうちに夜も更けて、静かに尻を上げた。


そういうことが何日か続いて、女も日に日にやつれていった。血の気が失せ

、そばかすの目立つのがいやに気になった。唇は枯れ、指は何かを探すように畳へ投げ出された。女の変わっていくさまに胸を突かれる思いで、腰を上げてはまた下ろし、無闇に女の髪をまとめたり指を撫でさすったりした。一方で、ああ、これは女の言った通りだった、やはり自分の死に際は自分が一番わかるものなのだと、頭のカァンと冷えた部分で冷静に感心したりしていた。女はもう話すことはなかったが、眼を大きく開いて、行く末を見逃すまいとしているようだった。一度かつてしたように上から覗き込んでみたが、不思議に自分の姿は映らず、以前よりどこか黒々としたような眼がポッカリと空いていて、なんだか恐ろしい気持ちでそれ以来覗き込むことはしていない。


さて、さて、と思う気持ちとは裏腹に、女はなかなか死ななかった。どこか痛みでもあるのか、顔が歪み、指は畳に食い込んだ。はて、この歯はこうも尖っていたかしらと思うにも、死にますと言われた時の唇と舌ばかりが思い出されて、どうにも歯の様相は思い出せない。たまらず「おい、お前」と呼ぶと、微かな呼吸音だけは返ってくる。それが耳に首にまとわりつく錯覚がして、自分の耳に指を突っ込んだり首を掻きむしったりした。髪は未だに伸びていると見える。襖を開けて、いつもの拍子でヒョイと足を踏み入れたら、足の下でブチリと嫌な音がした。気色の悪い感触に後ずさると、女の髪が踏まれたところからブツリとちぎれていた。これはもう死んでいるのだろう。しかし女は生きているのだ。生きてしまっていることには、見捨てるわけにもいかぬ。しまいには頭にぐるりとほっかむりをして、やたら着込んで女の部屋へ向かうようになった。別の襖から入るようにした。千切れた髪は黒々と放置されている。


般若だ。これは般若だ。女はまさに般若の様相だった。かつてふくよかだった面立ちは細り、尖った歯を見せて、眼を爛々とさせている。生きているうちに鬼に身をやつすならまだしも、死ぬ間際で鬼へ転じるとは何事か。はたまた女は気付かぬ間にもう死んでいて、良からぬものに身体を取られたか。なぜ死ぬと言ったときに死ななかった。死ぬのか、死ぬのかと問い続けた心は、今や願望へと形を変えていた。恐怖と嫌悪の中に残った道徳がそれを非難して、女の部屋に踏み入らないようにした。考えるのをやめた。ただやはり道徳が非難を続けるので、よく知った女中に言いつけて、毎日女の部屋へ通わせた。道徳は一日いくらかのアルコールを寄越せば簡単に目を瞑った。


しばらくして、馴染みの女中から「亡くなりました」と報せが来た。「そうか、面影も無かろう」と尋ねると、「いえ、まるで眠っているようで」と答える。信じられぬ気持ちで部屋へ向かう。女の死体はすでに片付けられていた。長い間伏せていた割に畳は綺麗な色のままで、女の細い爪痕も見て分かることはなかった。般若の痕跡はどこにもなかった。ただ、いつか自分が踏み千切った髪だけが落ちていた。襖を開けてよく見てみると、なるほど漆黒ではない、女の眼と似た色をしていた。女はいつから死んでいたのだろう。死に際の水は取っていない。

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黒木彩奈 @kurodada

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