茶川陽菜

 河邑先輩の指示で、私と団さんが体育祭のブログラムの原稿に誤字脱字が無いかチェックしていた時のことである。


「大変だ大変だ!」


 今津会長と一緒に体育祭実行委員会との打ち合わせに行っていたはずの古川さんが血相を変えて生徒会室に飛び込んできたものだから、河邑先輩が睨みつけた。


「ちょっと、ノックぐらいしなさい!」

「ああ、ごめ……すんません」

「で、何が大変なの?」

「茶川のやつが道具の点検中に怪我しました!」


 ドキン、と私の心臓が跳ね上がった。


「え!? それでどうしたの!?」

「保健室で応急処置したんですけど、念のため病院に行けって御大の指示で下校しました」

「一体何があったのよ」

「ハンマーで指を叩いて……」


 想像するだけで手が痛くなってくるようである。それにしても手先の器用な茶川さんがそんなありがちな事故で怪我をするなんて。私同様、団さん動揺を隠せない様子でいる。


「とりあえず、病院に行ったのね。わかった、ありがとう。自分の仕事に戻っていいわ」

「は、はい」

「あなたたちも今は自分の仕事に集中しなさい。お医者さん以上のことはできないんだから」


 河邑先輩のお言葉は全くもって正しい。だけどそれで簡単に心配ごとが消えるのであれば苦労はしないわけで、河邑先輩もこの後顔を出すはずだった、郷土研究会の文化祭の出し物の打ち合わせを危うくすっぽかしかけたのである。


 下校時刻の前、どうにか今日の分の仕事を終わらせたところで茶川さんからLINEでグループメッセージが届いた。


『みんな心配かけてごめんなさい。大した怪我ではないです』


 丁寧語で書かれたメッセージがホッ、とさせた。


 古川さんが禿げたオッサン(何かの漫画のキャラクターだったと思うが名前を忘れた)が親指立てて「いいね!」と言っているスタンプを連投すると、茶川さんが『しね』と身も蓋もないメッセージ返してきた。それが無事という何よりの証拠に他ならなかったから、古川さんも私も生徒会のみんなも大笑いした。


 高倉美和先輩が『指どんな感じなの?』と送信すると、包帯が巻かれた人差し指の写真が返信された。こんな状態でも病院では打撲と診断されて、体育祭や生徒会の仕事はできないというわけではないという。


「ふー、今あいつに抜けられたらヤバいからな。良かった良かった」


 LINEでのやり取りを傍から見ていた今津会長は安堵のため息を漏らした。茶川さんには体育祭に使う器材の保守点検、管理というを重要な仕事をしてもらっている最中だったから、リタイアとなれば大ごとになっていただろう。


 *


 翌日、私は会長から茶川さんに補佐として付き添うようにと指示を受けて一緒に中庭に向かい、そこで注意事項を記した立て看板の組み立てを行うことになった。


 木枠を作るために、まず茶川さんが木にドリルで下穴を開ける。手を痛めているとは思えない手際の良さだった。そうして開けられた穴に私が釘を打つ。ハンマーを使うのは初めてだが、茶川さんのアドバイスを受けつつ指を打たないように慎重にやった。


「……最初は少しずつ。ある程度打ったら力を入れる」

「お、真っ直ぐ入った」

「……そんな感じで」


 あまり口上手ではない茶川さんだけど、説明に一切の無駄がなくかえってわかりやすかった。


 釘打ちはやってみると以外と楽しいもので、まるで大工さんになった気分である。


「……なかなか筋がいいな」

「あっ」


 まさかのお褒めの言葉に、私は手元を狂わせてしまって釘の頭が斜めにぐにゃりと曲がってしまった。


 茶川さんが包帯を撒いた左手人差し指を突き出す


「……集中する。でないと私みたいにこうなる」

「うん」


 茶川さんは釘抜きで曲がった釘を抜いてもらう最中、私はワンテンポもツーテンポも遅れる形になったが、彼女に聞いてみた。


「じゃあ、昨日は集中できてなかったってこと?」

「……」


 茶川さんが手を止めた。


「あ、悪い意味に取らないで。この前言ってたよね。『何かを作っている時の方が余計なこと考えなくて済む』って。茶川さんが怪我するって余程のことだし、何かあったのかなって単純に疑問に思っただけなんだ」

「……うん、まあ」


 茶川さんは認めた。だけど再び手を動かしだした彼女は目線を合わせようとせず、「これ以上深く聞かないでくれ」という雰囲気が出ていて、私はそれ以上何も言えなかった。


「……さあ、やり直し」


 茶川さんが新しい釘を渡してきた。ここはとりあえず置いておいて、集中だ。私だって怪我をしたくない。


 *


 十月一日、日曜日。東京では都民の日という記念日に当たるが、住民票を移して東京都民でなくなった私にはもう関係がない一日である。だけどこの日は特別な一日だった。


「千秋ちゃん、明日温泉に行くわよ」


 母さんがそう誘ってきてくれたのは昨日の晩のことだった。珍しく日曜日に母さんがシフト休となったため、親子水入らずでどこかに出かけようというのだ。もっとも、父さんは学会に顔を出さなくてはならず母子二人きりになってしまったのは残念だったけれど、体育祭直前にリフレッシュできる機会に私は二つ返事で応じた。


 行き先は八坂市という県北部の小都市である。ここは県内屈指の温泉街でカクちゃんと古徳さんの故郷であり、以前に心霊ツアーで紫雲山トンネルまで向かった時に通り過ぎた場所でもあった。私は母さんの運転する軽自動車に揺られて、そこの一角にある日帰り温泉にたどり着いた。


 タオルは家から持参してきたから券売機で入浴券だけを買い、下駄箱のカギと一緒にフロントに渡して脱衣所のロッカーキーと引き換えてもらった。あとは女湯に向かって一直線。


「へー、ここも外国の人がよく来るのね」


 母さんは脱衣所に掲げられていた入浴マナーの注意書きを見ながら言った。そこには英語と中国語とハングルが併記されていた。近年は来日する外国人観光客の増加が著しいが、この小都市にも足を運んでくれているようだ。ただ、今日は周りを見る限りでは年配の日本人女性が多く、十代は私一人しかいない。


 服を脱いで浴場に入ると、見ているだけでも開放感溢れるぐらいに広々とした浴槽がそこにあった。注意書き通り、かけ湯をしっかりしてからゆっくりと入ると、程よい熱さだった。


「あ~すんごい気持ちいいわ~……」

「もー、母さんたらおばさん臭いこと言っちゃってー」

「あら、『おばさん臭い』ってことはまだ『おばさんじゃない』ってこと? 母さん嬉しいわあ」


 そういうつもりじゃなかったんだけど、本当に嬉しそうだったからそういうことにしておこう。でも母さん、四十半ばなのにほうれい線が全く見えないから見た目の年齢は非常に若々しい。


 二学期に入ってちょうど一ヶ月程度だけれど、この一ヶ月は一日一日が非常に濃厚で、疲れもそれなりに溜まっていた。それが全部温泉に溶かされて流し出されていくようである。まさに極楽気分というものだ。


 おばちゃん三人組が浴場から出ていって、入れ替わりに入ってきた二人連れを見て、私はつい「あっ」と声を出してしまった。


「急にどうしたの、千秋ちゃん?」 

「先週遊んだ友達とそのお母さんがいるの」


 そう、二人連れの正体は茶川さんとそのお母さんの百合子さんだった。向こうも私の姿を見つけたようだ。


「わあ、菅原さんじゃない。奇遇だね!」


 百合子さんの声は浴場に響くぐらい大きい。母さんが浴槽に浸かったまま挨拶した。


「はじめまして。この前は私の娘がお世話になりました」

「あ、お母様ですか。はじめまして。こちらこそ遊びに来てもらってありがとうございました」


 茶川さんは母親に促されて、私の母さんにぎこちない動作で挨拶した。


 二人とも浴槽に入ってきて、二対二で向き合う形になる。親どうしの間では最近は天気が良い日が続くとか他愛もない世間話を交わし、私は茶川さんに現在の指の様子を尋ねた。包帯はもうとっくに取れていた。


「……これ」


 左手の人差し指を見せてきたので私はじっくり眺めた。血豆は残っているが結構小さくなっている。


「痛みはどう?」

「……もうない」


 この調子だと体育祭本番までには完治しそうである。良かった良かった。


「ミストサウナがあるみたいですよ。行ってみませんか?」


 母さんが百合子さんにそう言い、それから私に「千秋ちゃん、あっちに露天風呂あるわよ」と言いながら意味ありげな視線を送ってきた。その意図は百合子さんにも伝わったようで、「行きましょう」と快く応じたのだった。


「私たちは露天風呂の方に行こっか?」

「……うん」


 母さんの配慮を、茶川さんはちゃんと受け取ってくれた。


 露天風呂といっても絶景が眺められるわけでなく、高い壁の中に囲まれて空が見えるだけというものだったけれど、それだけでも開放感が断然違ってくる。客は中と違い疎らで、洗面器のカコーンという音や流れ出る湯のザバーという音も聞こえないからもっと落ち着けそうだ。


 私たちはゆっくりと湯に浸かり、岩を背もたれにした。全身の力がすーっと抜けていく、これまた極楽極楽、である。


「お父さんとお爺さんはどうしたの?」

「……業者の会合」


 私と似たようなもんか。


「じゃあお母さんから誘ってきたんだ」

「……うん。お母さん温泉好きだし、指の怪我にも効くからって」

「なるほど」


 それからしばらく無言で湯を堪能しているうちに、茶川さんの心の壁が湯の力でふやけてしまったのかどうかはわからないが、彼女は急にこう切り出した。


「……私のお母さん、緑葉女学館に通ってたけど中退したんだ」

「えっ?」


 私は姿勢を正して茶川さんの方に向いた。


「中退って……あっ、まさか」

「……そう。私を身ごもったから」


 私には、もう一つ思い出したことがあった。入学してすぐの頃、カクちゃんから「昔、男と付き合ったがために子供ができちゃって中退しなきゃいけなくなった先輩がいた」と教えられたことだ。


 カクちゃんの言っていた先輩というのは百合子さん本人かどうかは確証がない。長年、何人もの女子を受け入れてきた緑葉であれば同じ境遇におかれた生徒が複数いてもおかしくない。


 だけど茶川さんは面と向かってウソをつくような性格ではないから、百合子さんの過去が本当なのは間違いないだろう。


 茶川さんは続けた。いつものようにボソっとでも、はっきりとした声で。


「……旧高等部から編入で、猛勉強して入った点は菅原と同じ。だけど一年で中退してしまったから、緑葉に対して引け目を感じている。だから体育祭は一度も観に来たことが無いし、そもそも中退して以来学校に近寄ったことすらない」

「茶川さんは、体育祭を観に来て欲しいと思っているの?」


 彼女は大きくうなずいた。


「……だけど私が中退の原因となったんだし、そんな私なんかが声をかける資格なんてないとも思っている。で、悩んだ結果がこれ」


 茶川さんは血豆のできた指を湯の中から出して、表情を崩さないままフンと鼻を鳴らした。


「……お母さんが勉強しきれなかった分、私が代わりに緑葉で頑張ろうとした。だけどお母さんが私を産んだ年に近づくにつれて、申し訳ない気持ちが募るばかりで……」


 きっと茶川さんは、物心ついた時からずっと悩んでいたんじゃないかと思った。だからこそ「余計なことを考えないようにするため」にものづくりに没頭し続けてきたに違いなかった。何でも作れて何でも直せる茶川陽菜という人間は、彼女自身悩みが作り上げたのだ。


「……ごめん、こんなの友達相手でもペラペラと話すもんじゃないな。柄にもなく話しすぎた」


 友達。


 茶川さんにすれば何気なく言ったつもりかもしれない。だけどその一言に私はグッ、と来た。


「ねえ、気を悪くしたらごめんだけど、親に虐められたりはしてないよね?」

「……それは無い、絶対に無い。だったら体にアザの一つでもできているだろ」


 茶川さんの肌は綺麗そのものだった。


「そうだよね。でもそれだったらもう答えは出ているんじゃないかな。お母さんは絶対、茶川さんを産んだことを後悔なんかしていないよ。だから『私がお母さんの分まで頑張るから』って口に出して言ってあげれば良いと思う。親子の間でもちゃんと話さないとわからないことだってあるからね。私にもいろいろ覚えはあるし」

「……例えば?」

「んーと、東京を離れる前。私の父さん、前の職場を辞めようとしていた時に今の職場からオファーが来て引き受けたんだよね。そこが東京から遥か西の桃川市と知った時の母さん、怒りに怒って怖かったよ。そんな遠いところに単身赴任したら浮気が怖いからだめだ、私もついていくって言い出して。そしたら父さんも、中学三年という大事な時期なのに千秋はどうするんだって。菅原家崩壊の危機と言ったら大げさだけど、そんな大喧嘩があったの。そこで、三人で話し合いをした」

「……で、どうなった」

「私は元々田舎暮らしに憧れてたから、田舎の方に住めるんだったら私も一緒についていくよって言ったの。友達とも別れるし受験計画もリセットしなきゃいけないからなかなかウン、って言ってもらえなかったけど、お互い納得できる形で落ち着いた」

「……菅原がここで折れてたら私と知り合うことも無かったわけだ」

「そういうこと。茶川さんも勇気を出して話し合いしてみたら? お父さんやお爺さんとも一緒にさ」

「……」


 茶川さんは口元が見えない程度まで湯に深く浸かった。一分ほどその状態で黙りこくった後、再び湯から口を出して言った。


「……わかった。話してみる」

「頑張れ!」


 私もそれだけ、だけど心を込めてエールを送った。


 *


 温泉に入った後、茶川さん親子と一緒に軽く食事をして別れた。その夜、明日からの体育祭ラスト一週間の追い込みに備えて早く寝ようとして、その前に睡眠導入剤代わりに漫画を読んでベッドの上でゴロゴロしていると、スマートフォンが鳴った。茶川さんが個別でLINEメッセージを送ってきたのだ。


『菅原がアドバイスしてくれた件』


 その一文に続いて送られてきたのは、無料スタンプについている親指を立てている白い丸頭のキャラクター(これも名前は忘れた)だった。


 茶川さんは普段LINEしていてもスタンプを全く使わない。しかしこうして送られてきたということは、テンションが上がるぐらい喜んでいるのだろう。


 メッセージはさらに続く。


『両親とおじいちゃん、体育祭に来てくれるって』


 私はウサギのキャラクターが「やったね!」と万歳しているスタンプを送った。実際に「やったね!」と口に出して。


 それから一分も経たないうちに返信された。


『私はちゃんと頑張った。次は体育祭に向けて頑張っていく。ありがとう。菅原も頑張れ!』


 エクスクラメーションマークつきのメッセージを見た私は、胸がカーッと熱くなってしまった。明日は寝不足確定だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る