街の底のそこの君の底のそこの嘘。

枕くま。

街のそこの君。

「犬が天国に行けないなんてひどすぎる」とフランクが言う。

(くそったれ! 少年時代/チャールズ・ブコウスキー/中川五郎 訳)




 なんか付き合ってる系の男に耳元で「愛しているよ」と囁かれたので、じゃあたとえ私が犬だったとしても愛してるって云える? と訊いたらにべもなくYESときたので、ホイっと犬に化けたら「うぎゃあ!」だって。死ね。その「うぎゃあ!」がたとえ愛してるよと云う意味だったとしても死ね。だって、伝わらない言葉に意味なんてないから!


 こんなこと云ってると「そんなことないよ」って云う系の人が腰の曲がった老婆心をはちゃめちゃに鞭打って、本人的にはそれとなさと何気なさと糸井重里的な言葉の魔術でありがたぁいご忠告頂く向きもあるけど、はっきり云わせて頂くとFUCKだった。死ね。なによりもお前の心の傲慢さにこそ怖ぞ気立つ。

 あーあ、地球の男なんてこんなもんねなんて、オジサンが聞いたらもはや苦笑しそうなピンクレディー的な言葉が簡単に思い浮かぶ私だって傲慢だ。少数を見てすべてを知った気になるのは紛れもない傲慢。人間失格だけ読んで太宰を知った気になるようなもんだ。ごーまんごーまん。傲慢が二つ並ぶと真ん中にマンゴーが現れる。なんかすてきね。マンゴーなんか、食べたことないけど。

 で、マンゴーも食べたことない私っていったいなんだろうって考える。明らかに普通じゃないのは誰に訊かないでもマルっと判っているつもりだ。だって、今の私は犬なんだから。さっきまで十代後半っぽかった女の子が、今この瞬間は犬に変わってる。そんなこと、普通はあり得ないでしょ? でも、私はそうだった。で、人間か犬かどちらが本当の私かって云うと、これもまたややこしくて、別に私は蛇だろうが猫だろうが鼠だろうが、男以外ならなんにでもなることができる。と、ここまで云うとなんだかアイデンティティの定まらない可哀そうな存在みたいだけど、私は別にそこを悲観しているわけでもない。アイデンティティのついでに云うと、私は親も家もないしどこから産まれたのか誰に産み出されたのかも判んない。気が付いたら犬の姿で街の裏通りにぽつんと立っていた。それまでの記憶も当然なし。都合がいいのか悪いのか、私は今日も気楽に生きている。普通に生きてる。普通ってなんぞやって訊かれたら、当然FUCKで返す。


 そんなもん、知ったこっちゃないんです。


 で、姿はどうあれ、人間の言語で思考しているせいかもしんないけど、やっぱり人間と関わることがめちゃんこ多い。そう云うのもあって、人間の女の子に化けて男と付き合ったりなんなりするわけだ。ご飯もタダで食べられるし。そうすると、だんだん本当に愛し合ってるような気分にどうしてもなっちゃって、そうするともうわけ判んなくなるわけだ。

 本当の自分を知って欲しくなっちゃうし、それはもうお別れと直結してて涙が出そうになってしまう。心臓の辺りが痛くなっちゃう。悲しいし寂しいし、上辺だけの関係だったんだ! って思うのは私に姿の頓着がないからか。

 だって、なんにでもなれるのだ。すべては思うがままなのだ。

 今までずっとそうだったから、今さら姿形について真面目に考えることなんて出来ない。うん、じゃあもういっか。と、形だけでも納得して諦める。うん。


 うん。


 私は犬の姿のまま、きらびやかな街の表通りを離れて、カビ臭い裏通りって云うかビルとビルの隙間に入る。裏路地? 路地裏? わかんない。まぁそんなとこにいる。

 生臭さで鼻が曲がりそうだけど、あんまり気にしないことにする。だって、今からその異臭の原因たる生ゴミを漁るんだもの。なぜって、そりゃあ食べるから。私は今は犬なんだし、ゴミを漁るのって倫理的にOKでしょ? 人の姿でゴミを漁るのは倫理的にまずいのは判るし、そうしなければいけない人がいるのも知ってる。倫理はあってもいいけど、視野を狭めてしまうからあんまり好きくない。こう云う生活してると、ホームをレスした人達と仲良くなる機会が多くて、なおさらその人達の立場に立って考えちゃうからそうなっちゃう。

 区別とか差別とか、分別を弁えている気でいる人だって、ホームレスの方々が目の前に現れると一様に倫理って云うフィルターを通してよそよそしくなっちゃうから、悲しい。 

 と、そんなことを考えていたら背後に気配。でも、勝手知ったる気配の主は食事中の私を気遣ってか、話しかけてはこなかった。ただ、傍にあるドデカいポリバケツを開けて、黒く変色した両手を突っ込んで無心に漁っている。私はその薄汚いって云うか極度に汚い汚物のような大柄な男の姿を横目に見ながら、チキンの骨を舐め回していた。

 話しかけようかなと思ったけど、向こうが初めに示した気遣いを察して、代わりに空を見上げた。

 

 今は夜だし、季節は冬だった。


 街はクリスマスとか云う、髭もじゃの不審な笑顔のジジイを偶像視して催される行事の名残か、あちこちのイルミネーションがけっこう点けっ放しになっていて、目に見えて喧しいのでいやだった。まぁ今はほとんど見えないんだけど。だって、犬だから。犬の姿はどこでも目立たないから、楽ちんだけど、観光するのにはどうも向かないのだ。

 犬は目が悪くって、赤と緑が一緒くたに見えている。ここに夜の暗闇があわさるとほぼ白黒。そのために嗅覚があって、動体視力があるんだけど。

 で、まぁ街ですよ! この街! ただでさえ明るくて喧しくて、立ち止まることもできない街なのに、さらに明るくする向きが私には判んない。どれだけ不安なんだろって思う。きっと、照らしたいのは目に見えない暗闇なのに。


 そいで、夜空。暗い方が星がよく見えるってことを、私は誰に教わるでもなく知っていた。誰でも勝手に気付くもんだけど。明るい物を見ようとするなら、こっちは暗いところにいた方がいい。当たり前のことだ。で、私もそんなら明るいものをみたいのかってなんか気付いてしまう。私も、目に見えない暗闇が不安なんだろうか?

 そんな、私の疑心暗鬼って云うの? それとも自問自答? 暗中模索? なんか、そんなのを無視して夜空は今日も真っ暗。あーあ、ままならないものだなぁとか、たそがれオジサンみたいなことを思う。明るい物に囲まれた故に、希望の糸口みたいな遠くの輝きを失うなんて。あれ? これってなんか詩的じゃね? とか思っても、今の世の中、詩はポエムと呼ばれて、しかも(笑)が付随する。侮蔑語として成立してるのがとても悲しい。なんでこんなに悲しいことばっかりなんだろう。いい加減、怒ってしまいそうだ。


「……ずいぶんと喧しいんだな、相変わらず。まるで人間みたいだ」


 感情のないガラガラ声でおまけにすっごい聞き取りづらいけど、犬の聴覚でカバー。地獄の口みたいな夜空から視線を地上に移す。こっちもけっこう地獄くさい。やんなるぜ。


「何事もシロクロではっきり別れていると期待するなよ、馬鹿みたいだぜ、そっちのが」


 この妙な男の名前を私は知らない。だから、夜にしか会わないので夜男って呼んでる。安直だけど。酷く安直だけど。初めてあった時、犬のふりをしていた私をじぃっと見つめて、「お前は何者だ?」ってドラマみたいな台詞を云った。私はびっくりしたけど、あまりにも率直な眼差しだったもので、至極正直に「わ、わかんない!」と答えた。そしたら無愛想だった夜男は、がはは! と笑ったのだ。そのときの笑顔は、今でも頭の中に思い描くことができる。

 それから、私たちは引力でも発生しているのか、裏路地に入る度に出会っている気がする。どうも、ロマンスの神様はクソ意地が悪いらしい。あーあ、どうせならもっといい男と出会いたいもんだ。あーあ。まぁでもそんな感じで顔も姿も知らないのに、【神様】と名付けてそいつのせいにしたいんだけど、これもやっぱり傲慢だよね。難しいな。私たちの行いはどうしたって傲慢と呼べてしまう。でも、言葉は悪くないよね。そんなふうに簡単に答えを欲して、関連付けてしまう、心が汚いのよ。

「やっぱり、人間みたいな奴だ」

 夜男はせせら笑う感じでそんなことを云う。

 あーもー! こいつったら!

 夜男は夜にしか現れない。夜男は大柄で極度に汚い。夜男には家がない。そして、夜男は心を読める。もう一回云います。夜男は心が読めます。……嘘じゃないよ?

 なぜかはわかんないし、訊こうとも思わない。私も私がなんなのかわかんないのに、夜男は夜男がなんなのかわかっていると思うほど自惚れてないつもり。で、私はいつもと同じくむかっ腹。

「当たり前に人の心を晒さないで!」

 グルグル唸ると、夜男は無感情な眼差しで私を見下ろしてきてドキッとする。

「犬が当たり前に人語を話すんじゃない。お前は今、犬だ」

 夜男は食事を終えたばかりで、口の周りをドス黒い粘性の何かで汚していた。こいつは腐った物でも躊躇なく食べる。人間のくせに、倫理も衛生もへったくれもない。まぁ、私と似たようなものだってことにしておいてやる。人が人である限り、心なんて読めない方がいい。それを便利だと云う人は例外なく孤独だから。云わない夜男も、きっとそうだから。私の手前勝手な想像を厭うように、夜男は「くしゃん!」とくしゃみした。でも、私のこれはぜんぜん憐れみではないのだ! って読まれる前提で考えておく。それはだって真実だから。


「……その、どうだ? 最近、巧いこと生きてるか?」

「そうね、まぁぼちぼちね」


 バツの悪そうに切り出した夜男だった。なんからしくない。で、私は素っ気なく応じつつ、なんだか得意になってた。なんでだろう、わかんないけど。


「酷い目にあったりしてないか?」

「平気よ。だって、私は何者でもあるんだから」


 決まった形のない私は、何者でもないが、云い換えれば何者でもある。そんな私が酷い目にあうことなんて、そうそうあって堪るもんですか! そう思ってると、夜男はなんだか気まずそうにもじもじし始めた。え? なに? 促すように視線を送ると、すっと逸らした。そして、「うーむ」と短く思考するように唸ってみせた。

「え? なに?」

 あんまり見てられないので質したら、また「うーむ」ときた。なにをそんなに云い難そうにしてるんだろって思ったけど、すぐに思い付く。はっはーん?

「はいはい。そうですそうです、そうですよ、私ったらまた男に逃げられたの」

「そうか、またか」

 気まずそうにするかな、嬉しそうにするかな、どうするかな? って思ったけど、痛そうな顔をしていたので、なんだか面白くなかった。

「またとんだ腰抜けだったわ。脊椎動物であることを不思議に思うくらい」

「俺はお前の方がずいぶんと不思議だし、相手が驚いて逃げたことには同情以外できない」

 至極当たり前のように云う。

 なにそれ? 少しぐらいの温情ってもんがないのか、こいつは!

 夜男は呆れたように溜息を吐いた。


「初めから剥き出しで臨まないから、そうなる。それで嫌われるのが怖いのか? 信じてくれないのが怖いのか? でも、それでも言葉がある。言葉があるなら、ただ理解されるように辛抱強く説得することだ。自分の言葉の力を信じることだ。言葉があるのにそうしないのなら、それは宝の持ち腐れと云うんだ」

「お説教なら結構!」

 私はぴしゃりとはねのける。ふんだ。知ったようなこと云っちゃってさ!

「平気よ、別に。慣れたもんだもん」

 へんっ! と鼻息一つ。でも、犬の姿で、人間の色恋を語るのって、酷く嫌な感じ。ちょっとそう思った。私はふさふさふかふかの茶色いはずの毛を間に、冷たく汚らしい地面に腰を落ち着ける。座りが悪くて、お尻を地面にぐりぐり。落ち着く頃には、お尻の毛は真っ黒け。でも、嫌な気持ちになる前に、夜男が隣にボスっと腰を落したのでその感情はうやむやになった。

 相変わらず強烈な臭い。でも私は俯いたまま、表通りの喧騒に耳を澄ませた。騒々しい人間達。私や夜男、空を覆う暗闇やその裏側の星々までいないものみたいにして、自分達だけ明るく取り繕ったりして、ずるいんだ。ホント、なんかそんなことを考えた。人間はずるいよ。

「慣れることほど悲しいこともない」

 夜男がぼそっとそう云った。

「ん? なんだって?」

 わざと明るく聞き返したら、「なんでもない」と云われて、肩透かし。それから、今日最初にあった時みたいな沈黙が、ずぅーんと私達の間に降りて来て、抗うこともしないで、飲まれっ放しになった。飲まれっ放しになっていられるのが、なんだか良かった。冬って季節が際立って感じられる気がした。空気が刺々しくて、肌が痛みを覚悟したみたいにぎゅっと引き締まる。真っ黒くてギトギトしたビルの壁面を、犬の私と人の夜男の白い呼気がなぞるように昇って、無残にも吹き消されてしまう。その行く末を、じっと見ていられるのが不思議だった。こんな暇な奴いないよなって思いながら、まぁでも私は人間じゃないからなって思うとちょっと変な気分。なんだろう、わかんない。

 で、相変わらず空はのっぺりと黒一色。染めたての真新しい布地みたい。私はそこに白くて愛らしい穴をひたすらに開けて回りたかった。簡単な話、星が見たかったし、そんなこと考えちゃうくらいぼけーっとしていた。

「……私でも、死んだら星になれるのかしら」

 と、これまた不用意な言葉が飛び出して、驚いたのは私だけ。焦ったのも私だけ。今時、そう云うこと口走ったらどう云う憂き目にあうかって、そんなのわかりきってる。ポエムは嘲笑の的なのだ。侮蔑の対象なのだ。沈黙の時代なのだ。効率と各々の確信めいたでも数の力で揺れる他ない現実こそ必要なのだ。で、毛で見えないけど顔真っ赤にして隣を見たけど、夜男は平然としてる。まぁでも、これこの葛藤っつか慌てっぷりも筒抜けなんだよなぁって思うと、なんだか馬鹿みたい、私。ちくしょ~。しょげてるけどしょげっぷりも筒抜けだ!

「俺は死んでも星になるのなんかごめんだ」


 ビクッとした、私。


「人が死んだら星になるってことは、あの星々はみんな人間で、だったらあのひかりはきっと戦火だよ。誰が一番輝いて死ねるか、競ってやがるのさ。それが生きてる人間だったら俺はなんとも思わないけど、もう死にようがない奴等がいい気になってそう云うことを気楽に楽しんでいるとしたら、話しは別なんだ」


 夜男は空を眺めたまんまで、そんなことを云う。私は夜男の臭いをもっとよく覚えておかなくちゃって気分になった。不用意な言葉に不用意な言葉で返事できるのって、なんだろう、なんだかね。バレないように、犬の鼻からすぅーっと吸う。くさい、ヘドロとか垢とか、色んな汚い臭いが極まってる。あと、なんか嗅ぎ慣れた臭い。でもなんだか他の臭いが強烈すぎてよくわかんない。うん。でも、その色んな臭さが夜男なのだ。誰が受け止めきれるだろう? ホームレスを救う気でいる役所とか、善行を積みたいボランティアの人達の、誰が夜男を受け止められると云うのだろう? 夜男はこれでいい。救う救わないは、そいつの傲慢さでしかない。助けを求めてきた奴を、どうか助けてやっていろよって、思う。

「でも、それは夜男の想像でしょ?」

「人が死んだら星になると云う話も、顔も知らない誰かの想像だ」

「だったら、私は私の想像を信じてもいいんだね?」

 夜男が私を見下した。なんか息が荒い気がするけど、どうしたんだろう? でもその眼差しはいつになく熱いような、いつもの平熱のような。なんだろう。

「いいとも」

 そして、夜男はもう一度、はっきりと云った。

「いいとも」


「じゃあ、私も星になんないでいいよ。そん変わり、そうだなぁ、うん、ちょっと恥ずかしいんだけど……うん、私、人間になりたいなぁ」


 それを聞いた夜男は、がはは! と笑った。あ、懐かしいなって思った。普段は仏頂面のくせに、笑う時は顔を全力でくしゃくしゃにするんだ。妙に愛嬌のある風情になるんだ。私はちょっとだけそれを可愛らしく思っていたりしたんです。笑わないのなんて、もったいないなって。嘘なんかじゃないよ? 本当だよ? 私の思いは、それはそれは真実なんです。


「私はねぇ、十代の女の子になりたいんだ。普通の家庭の中に産まれて、両親とおばあちゃんとおじいちゃんがいて、みんなは今の季節、今の時間、居間の炬燵に集まってテレビを見てる。私は、勉強とかそう云うののせいにして、一人になろうと部屋にこもってるの。で、ちょっと寂しくなって部屋を出るんだ。薄暗くて冷たい廊下で身震いするんだろうな。

 それで、意味もなくトイレに行こうとして、居間の傍を通る。聞き慣れたテレビの音がいつもよりくっきり聞こえて、なんとも思わないまま薄暗い廊下を歩いてくと、居間に続く引き戸がちょっとだけ開いてるんだ。そこからはテレビの音とか居間の灯が漏れ出てて、でも誰も気付いてない。そんな隙間を、薄暗くて冷たい廊下から、そっと閉じてあげたい」


 湿気た風が私達の鼻先を削るような勢いで吹き荒ぶ。ただ不愉快な悪臭が私達の鼻や口を当たり前に冒していく。夜空に戦火はない。道行く人の足音や、タイヤの擦れる音、焦るような、褪せた会話の断片、枯れた気持ちの優越、荒れた感情への冷笑、そんな色々が幅を利かせて、我が物顔で表通りを闊歩している。裏腹に、空白に怯えながら、歩いている、そんなふうに考えてしまうのは、決め付けでしかないのかな。それとも、空虚なことにも気が付いていないのかな。それは、なんだかとても幸福に思える。


「で。でね? 私は翌日のよく晴れた朝に、昨夜のことをぼんやりと思い返しながら起きるの。家族にはそんなこと話せないから、普通にのろのろトーストを食べて、早く食べちゃってよ! ってお母さんに……お母さんに、怒られて……」


 なぜだか喉がつかえて、声が出なかった。

 えほん、と小さく空咳を打つ。毛玉でも絡んだかな? と思うと何かが苦しかった。苦しみの所在がわかんない。苦しいのに、言葉はとめどなくあふれる。


「……で! でね? それから制服に着替えて、なんと学校に行くんです、私! それで、友達と待ち合わせて、落ち合って、それで私はそこでようやく昨夜のことを得意になって話すの。私はこんなにいい子だぜ? って。それで、友達はちょっと呆れた顔して、でもそんなの普通じゃんとか云われて、私、きょとんとしてさ。あー、よく考えなくてもそらそうだって思って、そう、思えて……」


 目の前がゆらゆらしてるなぁとか思ってたらなんと私は泣いていた。ぐずぐずと鼻を鳴らして泣いていた。おかしいな。夢や希望を語ってるのに、涙なんか似合わない。あぁ、あぁ! これだから不用意なことって嫌だ! せっかく誤魔化してきた嘘を、自分からぽろっと崩しちゃうんだもの。見ないようにしてたのに。平気なふりをしていたのに。……だって、そんなさぁ。そんな幸福がさぁ、私に手に入るわけないじゃん! だって、さぁ……。


 大きさも幅も肌触りも自由自在な胸がぎゅーっと縮こまっていく感じがして、呼吸が苦しくなって、むせた。なんとか元通りにしようとしても、ぜんぜん巧くいかない。げほげほむせる。なんだよ。すべては思うままって、それも嘘なんだ。嘘ばっかり、私。


「素晴らしい夢だ」


 夜男は無様な私を嗤いもせずに、その黒い手で頭をぐっと撫でてくれた。胸の修復が途端に上手にできて、私はちょっと頬が熱くなった。その熱い手が、なんだかべとっと濡れている気がしたけど、気にもならない。俯いたまま、私は自然と人の姿に化けていた。思い描いた通りの、健全で、傷付きやすくて、寂しがり屋で、可愛らしい十代の女の子に。


「きっと叶う、叶えるんだ。それを忘れるな、悲観するな。誰かがお前を見付けてくれる、それを期待しながら、お前も探すんだよ。動き続けるんだよ。今度は騙すような真似は止めるんだ。そして、きちんとした目で見極めるんだ。簡単に心を許してはいけないよ。感情は、簡単に嘘をつく。嘘も本当に錯覚させる。それを、それを忘れないでいてくれ」


 最後は振り絞るような声だった。切れ切れの呼吸。嗅ぎ慣れた臭いの正体を悟る。はっとして視線を上げようとしたけど、夜男の手がそれを許さなかった。俯いていても、夜男のお腹の辺りが見えてしまう。真っ赤。赤い。血。血だ! 


「俺にとって、お前は犬の姿だからなぁ。お前は犬がいいよ、俺の前では」


 そうだ、犬に変わると赤色が判んなくなるんだ。じゃあ、あの口元のドス黒いのも血だったんだ! 頭に乗ってる黒い手の濡れた感じも血だったんだ!

「……夜男っ!」

「なにも云うなよ」

 喉がぎゅぎゅっとつまった感じになる。云われなくとも声が出ない。胸もぎゅーっと縮こまって、あぁ、つらい。つらいのに、私。

「最後に、お前に謝りに来たんだ、なのに、なかなか切り出せなくてな、へっ……俺、お前の正体を知ってる、俺、そのために造られたんだ、俺、逃げたお前を捕獲するためにさ」

「……っ、喋らないで!」


 押さえつける手から逃れられないのは、押さえつけようとする力が、もう少しも残っていないことを理解してしまったから。夜男はもう死ぬ。死ぬ。


「初めてお前にあった時、聞いていたのと様子が違って驚いたさ。感情のない化け物だって、聞いてたのに、お前は人間みたいになっていた、俺も触れたことのない、暖かくて柔らかで、壊れやすい心を持っていた、あぁ、助けてやろうって、思ったんだ」


 夜男の声は、掠れて震えて弱弱しかった。その声で、あまりに多くのことを語った。私が秘密裏に行われていた、ある研究で生みだされた被検体だってこと。研究所の中で酷い扱いを受けていたこと。ある日、急に暴れ出して、いやみったらしいアホ職員だけを皆殺しにして飛び出したこと。夜男の知ってる私の話。私の知らない私の話。でも、嘘には思えなかった。思いたくなかった。とてもじゃないけど思えなかった。

 私の鼻先に香ったのは、一抹の懐かしさ。そして死にゆく夜男のあの臭い。それだけで、真実とみて間違いなんかない。

「心が読めるから、初めは巧いこといったもんだ、でも、向こうも本気になってきたら、俺じゃあどうしようもなかった。数が多いってのは、本当にずるいもんだなぁ」

「……うん」

「俺が動かなくなったら、お前、この街から逃げ出せよ」

「いや」


 私は頭に乗った手がずり落ちないように、小さく首を振った。


「……殺してやる。夜男をこんな目にあわせた奴ら、みんな殺してやる! 生きたまま内臓を掻き出してやる! 何日もかけて正気のまま手足を短く刻んでやる! 目玉を抉り抜いてやる! 殺してやる! 殺してやる!」


「ありがとう、」


 夜男の手が、頭からすとん、と落ちた。


 驚いて、ようやく血塗れの顔を仰ぎ見た。死に際のその顔は、見たこともない幸福な微笑を浮かべていて、私、涙と感情が止まらなくなった。こぼれ落ちた夜男の手が震えながら力なく持ち上がり、私の薄い胸を触った。


「……その気持ちが欲しかった、それだけが、」


 私の胸元に、真っ赤な手形を残して、その手はまた呆気なく地面に転がる。


「俺、俺は、……雨になる。街の雑踏の中で、人間の群れの中で、内と外、二つの耳をそばだてて、佇んでいると、真夏の豪雨みたいだなって思っていたんだ。俺、雨になりたいなぁ」

「……うん」

「……最後に、これを聞いたら行きなさい」

 夜男は何度も息を整えながら、一息に話してしまおうとした。その覚悟が、私は怖い。

「……お前の身体の元になったのは、お前のなりたい人間だったんだよ、身寄りのない、可愛らしい女の子だった、だから、お前も、」


 言葉の続きはなかった。夜男は目を薄ぅく開けたまま、どこか遠くを見つめて、か細い呼吸をくり返していた。私は、夜男にぎゅっと抱きついた。その、もじゃもじゃの頭を抱きしめた。しばらくそうしていると、表通りから明らかに他とは違う慌ただしい足音が聞こえて、私は、夜男の血の染み付いた衣服を噛みちぎった。それから、たぶん、初めて鳥に化けた。サギに。白い胸には、夜男の赤い手形がくっきりと残っている。くちばしに、しっかり形見をくわえた。


 無事に飛び立てるか、不安だったけど、化けた傍から飛び方を理解したみたい。

 大きな白い羽を広げて、思い切り羽ばたいて反対の通りから飛び出した。数人の人間が「うわぁ!」って驚いて仰け反った。私は気にもかけずに、空へ、戦火のない空へ。


 冷たい風が吹き荒れて、私は羽根を巧みに操って利用する。上空から見降ろすと、街の灯が無数に敵意をばら撒きながら花開いていて、天の川みたいに国道沿いに並んでいる。私は冷たい目で見降ろす。夜男の云ったのは、正しい。頭上の星々が死んだ人間なら、そのひかりは戦火なんだ。

 私の眼下の、これも戦火。

 武器のない戦場を睥睨しながら、私は飛ぶ。

 どこまで行こう? 仇は討とうか? それは一先ず、考えないようにしよう。戦火から遠く離れた今は、まだ。

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街の底のそこの君の底のそこの嘘。 枕くま。 @makurakumother2

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