瀧という男

 平日のバイトは、きちんと給料が出る仕事であり、つまり普通の生徒に勉強を教える仕事である。今日は塾に行くとすでに瀧さんが教室で準備をしていた。


「こんにちは、瀧先生。今日もよろしくお願いします。」

「こんにちは、朔夜さん。こちらこそ、よろしくお願いします。」


 挨拶をして私も塾の準備にとりかかる。西園寺さんに聞かされた佐藤さんのことが頭から離れずに無言で教室内の掃除をしていると、それを見かねた瀧さんが話しかけてきた。


「今日はなんだか元気がないようですね。大学で何かあったのですか。」


 瀧さんは私が落ち込んでいるのに気が付いたようだ。そんなに元気がなかっただろうか。別にいつもと変わらずに仕事をしていると思うのだが。


「電源が入っていない掃除機で掃除をしてもきれいにならないと思いますが。」


 続けて瀧さんが私の行動を指摘した。いつもと変わらずに仕事をしていると思ったが、どうやら相当おかしな行動をしていたらしい。さっきから掃除機を動かしていたが、道理で掃除機がごみを吸い取る音がしないし、床の埃が取れないと思った。


「すいません。大学でちょっと気になることを聞いたものですから。別に心配するようなことではないのですが、大学の知り合いが授業を欠席していて、たぶん風邪だと思うのですが、なんだか気になってしまって。突然休むような子ではなかったと思うので余計に心配で。」


 嘘は言っていない。佐藤さんには友達だと言われたが、私はそれに了承していない。西園寺さんの話が本当ならば、犯人に殺されているということになるが、私はそれを信じていない。


「そうですか。それは心配ですね。ですが、生徒の前では明るくふるまってくださいね。仕事中ですから、それくらいはできますよね。」


 確かに今は仕事中であり、きちんと給料が発生する。私は気を引き締めて塾に生徒が来るのを待った。


 今日は普通の生徒たちで頭に動物の耳も生えていなければ、尻尾も生えていない。自分の記憶は持っている。私は生徒たちに勉強を教えながら、幽霊となっても塾に通っている生徒たちを思い出す。そして、唐突に私の前にこの塾で働いていた先生のことを思い出す。そして、どのような理由で辞めてしまったのか気になってしまった。


「先生、この数学の文章問題ややこしくてわからないからどうやって解くか教えてよ。」


「ここはこの数式を使って解くといいよ。そういえば、ここの先生が何人かすぐにやめたって聞いたけど、前の先生はどんな先生だったのかな。」


 勉強を教えながら、気になったことを生徒に聞いてみる。今質問をしてきた生徒は中学1年生の男の3つ子の一人である。初めて3つ子という存在に出会ったが、この3人は本当によく似ていて、まだ塾に来て間もない私には見分けがつかない。本人たちも自分たちが他人にとって見分けがつかないことはすでに知っていることなので、間違えても笑って許してくれる。早く覚えてしっかりと彼らの名前を呼んでやりたいのだが、なかなか覚えられない。彼らはこの塾に通っている年数が長いようなので、私の前にいた先生がなぜやめたのか理由を知っているかもしれない。


「前の先生は、宇佐美翼先生といって、背は高かったけど全体的にウサギっぽい先生だったよ。男のくせに色白で、弱そうな先生だった。ウサギ先生というと怒られるから、誰も面と向かって呼んでなかったけど、陰ではウサギと呼んでいたよ。」


 私の質問に答えたのは別の机で勉強していた3つ子の一人である。さらに別の机からも声が聞こえてきた。


「それより先生。あの先生は突然やめたんだ。また明日といって挨拶したのに次塾に行ったらやめていたんだ。あんな無責任な先生のことなんかいいから、朔夜先生の話を聞かせてよ。」


 3人は前の先生の話には興味がないようで、これ以上は前の先生について聞くことはできなかった。私の話を聞きたがっていたので、答えられる範囲で質問に答えていった。

 それにしても、翼という名前にウサギに似た先生。その名前と特徴を持った人物を最近どこかで見たような気がする。もう少しで思い出せそうなのだが、残念ながら思い出すことはできなかった。



 塾に来た生徒が全員帰り、片付けを早めに終わらせた私たちは机に向かい合わせになっていすに座る。


「さて、今日は早く片付けが終わったので、少し雑談でもしましょうか。まずは私がなぜ幽霊たちに勉強を教えることにしたかという話をしましょう。朔夜さんも興味があるでしょう。」


 夜中に男女が二人きりで話をする状況になったが、私は特に気にすることはなかった。瀧さんは見た目だけは良いけれど、私のタイプではない。それに性格が残念系である。一緒に働いているが、ただのバイトの上司である。ここで何か恋愛感情が芽生えるということはないだろう。


 瀧さんは自分の生い立ちと初めて幽霊と会話した時のことを話し出した。彼はお寺の息子で、昔から幽霊を見ることができたらしい。ただ、自分には見ることができて、他人には見えないのでいろいろ苦労していたようだ。





 ある日、子供の幽霊が瀧さんのそばに寄ってきた。


「僕は病気で死んだけれども、もしもっと生きることができていたなら、勉強をたくさんしてお医者さんになりたかったな。まあ、もう死んでしまっているし、かなわぬ願いなのだけど。」


 そして、子供の幽霊は自分のことについて話してくれた。その子供は小学校高学年くらいの男の子、かれこれ10年くらいこの世に幽霊としてとどまっているらしい。成仏したいけれど、どうしても出来ないという。彼の他にも成仏したいけれど成仏できない幽霊が何人かいたようだ。彼らはそろって『もっと勉強がしたかった』としきりに言っていた。『死んでしまった今では無理だとは思うけど』と残念そうにつぶやく。


 あるとき、ふと思いついた。こんなに勉強したいと言っている子供の幽霊がいるのなら、塾でも開いて勉強を教えてあげるのはどうだろうか。この時の瀧さんは高校3年生で、ちょうど進路を決める大事な時期であった。親の家業であるお寺を継いで、お寺の住職になるか、企業に就職して、会社員になるか悩んでいた。両親からはお寺を継がなくてもいいから、自分がやりたいことをしなさいと言われていた。


 高校3年生になるころにはたくさんの幽霊たちと知り合いになった。お寺にはたくさんの幽霊がいて、いろいろなことを相談してきた。幽霊たちの悩みを聞いているうちに彼はある決心をした。


 結局、彼は大学に進学することに決めた。そして、教育学部がある大学を受験することにした。自分が幽霊である子供たちに何ができるか考えた結果である。それが勉強を教えてあげることだった。子供たちに勉強を教えられるような立派な人間になるためにも教師の免許を取らなければと考えたのだ。

 大学は無事に第一志望に合格した。大学では4年間必死に勉強を重ねて教師の免許を取得した。もともと、人に教えることが好きだったようで、さらに人前で話すことにも抵抗はなかったらしい。大学卒業後は、お寺を継がずに塾の講師になろうと決めた。学校の先生になろうかとも考えたが、そうすると、学校の生きている生徒にかかりきりになってしまい、肝心の子供の幽霊たちに勉強を教えることができない。それでは本末転倒だと思ったようだ。


 こうして、瀧さんは塾の講師になった。夜は生きている生徒に勉強を教え、空いている土曜日の午前中に幽霊たちを塾に集めて勉強を教える。その生活に瀧さんは満足していた。

 彼は、土曜日以外にも休みの日には子供の幽霊たちを自分の部屋に集めて勉強を教えた。これまで何年も成仏できなかった幽霊たちが次々に成仏していった。最初に相談してきた男の子も勉強を教えて1年ほどで満足したのか成仏していった。

成仏できると聞いて、たくさんの子供の幽霊が瀧さんのもとに集まってきた。最近では、生前自分は能力者であったという子供の幽霊も塾に勉強に来るようになった。そんなことをいう子供たちには大抵頭に猫や犬などの動物の耳が生えていて、お尻には尻尾がついていた。

 最初は驚いたが、すでに幽霊という普通ではないものに慣れているせいで、特に気にすることなく、普通の幽霊たちと同じように勉強を教えた。

 ちなみに幽霊は基本的に実体がないので、ものに触ることはできないらしいが、勉強用具にだけは触ることができるらしい。


 

 瀧さんの話はこれで終わりである。瀧さんと幽霊の関係は理解できたが、今塾に通っている幽霊たちには記憶がない。これはどういうことだろうか。



「記憶がないのは最近の幽霊の特徴です。自分が自殺してしまったとして、それを覚えていたいと思うでしょうか。生前の人生が嫌で嫌でたまらずに忘れてしまっている生徒も多いのですよ。事故も病気もそうです。最近の子供たちは嫌なことについての耐性があまりに弱い。我慢ができずにいるので、きっと幽霊になってまで覚えていたい記憶なんてない子供が多いのではないのでしょうか。」


 瀧さんに疑問に思ったことを聞いてみると、このように言われた。確かに嫌な記憶は忘れてしまいたくなる。ただそれだけで塾にいる生徒全員が自分の生前の記憶を忘れてしまうものだろうか。瀧さんの答えに納得はできなかったが、これ以上追及することはあきらめた。追及したところで真実にたどりつけるとは限らない。



 瀧さんの話を聞き終えて、家に帰る途中で寺の前を通り過ぎた。そして立ち止まって寺の境内を覗いてみる。いつもは通り過ぎるだけで寺の前で立ち止まったりはしない。しかし瀧さんがお寺の息子だということを思い出した。とはいえ、時間はすでに夜の10時過ぎである。いくらなんでも寺の境内にまで入る勇気はなかったので境内を遠くから覗くだけにして、そのまま家に帰った。

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