外伝1話 継承
1536年8月某日。
春日山の山頂に築かれた春日山城。姫路城や熊本城など天守閣が存在するような現代日本人が想像する城とは打って変わって、城というよりは屋敷と言った方がいいくらいの大きさの建物にある広間ではとある評定が行われていた。
上座となる上段に座るのは50よりも少し手前の壮年ほどの口髭を生やした男。瞳は何処までも鋭く深い
荒々しさを表している様で内に秘める野望を隠そうともしない。
鍛えられた体は筋肉で大きく膨張し人の何倍も肩幅があり、服の隙間から垣間見える腕は丸太の様に太い。それがより一層彼の
だが何処か。毎日の様に戦場を駆け奸雄とまで称された昔の彼を知っている者がいるとするならば、それほどまでに近しき者でなければ誰にも気づかれない程に彼の纏っている雰囲気が日に日に落ちて行っている事に気付かないかもしれない。
向かうは青年ほどの少し肌色の悪い
頻繁に床に臥せる程にまで弱り切ったその体は今では何故立っていられるのか、本当は男ではなく女なのではないかと思わせるほどにまで小さく、とても成人している男とは思えない。
目尻はやや下がり気味のタレ目のせいで少々老け顔に見られそうだが、日に当たらず床に臥せることから肌が白く、痩せて弱々しいその雰囲気が老けよりも寛容さを醸し出している。筋力まで衰えてしまったのかと思わせるほど変化のないその表情は一貫してとても穏やかである。
二人はともにきっちりと襟元を僅かな乱れも無くきちっと揃え皺一つない装いを持ってこの場に臨んでいる。しかもそれはこの日の為に態々揃えたのか、この戦国の世では間違いなく一級品の輝き。
獰猛そうな男と弱々しい優男、一見何の関係も無さそうな赤の他人だが、実はこの二人はれっきとした父と子という親子。
普段の日常で親子が会うだけであればこれ程まできっちりとした身なりなど必要ない。しかし今は正式な謁見を行っている、という対外的な事情もあり二人とも正式な服装で臨んでいる。
広間の脇に控えるのは家老や中老、宿老などの重臣たち。家臣を広間に招いているのもそんな形式をより一層高める為である。
守護代長尾家という船の屋台骨となっているこれだけの家臣を態々呼び出し、さらに嫡男を呼び出すなど普通ではない重要な案件を話すに決まっている。
どういった理由で自分たちが呼び出されたのか、家臣は元より嫡男たる優男ですら知らない。何故なのか、通常その理由が分からなければ不安になる事が多い。
もしかしたら大事が起きたのか。もしかしたら何か粗相をして沙汰が下されるのか。家の今後すらも左右しかねないのにも関わらず、控える家臣たちのその顔には不安などは一切見られなかった。
この場にいる皆が主君である上座の男の言葉をただ黙して待っていた。
「晴景よ、国内の国人衆は未だに抵抗を続けている者が多いのは知っているな。
「はい、父上。こちらも多くの将や兵を失いました事、昨日の事の様に覚えております。もしもあの時、柿崎景家殿が此方に寝返ってくれなければ勝敗は逆になっていたとも思えます」
越後における天下分け目の大合戦、それが三分一ヶ原の戦いである。
もしも柿崎景家が長尾軍に寝返らず上条軍のまま戦っていたら、敗走し討たれていたのは長尾為景の方だっただろう。
「しかしあれで上条定憲や揚北衆が父上討伐という方針を変えたとは思えません。あちらも大打撃を受けましたが、それはこちらも同じ事。再び同じように父上を良く思わない者と手を組み、こちらに対し行動を起こすやもしれません」
「その通りだ。確かにあの戦いでは儂らは勝った。が、未だに揚北衆や上条上杉家の抵抗は強い。このままでは越後国内の安定など無理かもしれない程にな。儂自身も国人衆鎮圧の方に力を注ぎたいがそれも出来ない状況だ」
越後国の守護は現在、
先代守護を自刃に追い込み、その後継を傀儡にする。主君を主君とも思わない様なその行動や言動は多くの越後国内領主の反感を買っている。だからこそ守護代として官位を拝命しているのにも関わらず、為景には味方と言われるものが少ないのである。
「そこで儂は国人衆を抑えるためにも、情勢が優勢下に居る今こそ隠居しようと思っている。国内領主たちの反発は今後も起きる可能性が高い、それに揚北衆の様に長尾を離れて行く者も多いかもしれない。だからこそ府中長尾家を残すためにも儂は家督を
「わ、私に家督をですか!?何故その様に急に」
長尾為景の突然の隠居宣言。
嫡男である長尾晴景にとってはまさに寝耳に水出会った事もあり、普段は殆ど変化のない顔が驚愕の表情へと一瞬の内に変貌した。
集められた家臣たちの一部もそれは同じ事。あっと言う間に驚愕が波紋の様に広がって行った。しかし騒ぎ立てるものなど誰もいない。
何故なら今は父と子、長尾為景と長尾晴景の二人による会話の最中であり、家臣が勝手に発言するなど無礼以外の何物でもない。
「急ではない。いいか
「ですが父上。私は病弱であり、最近も床に臥せることが多くなってきました。母上も……母上も以前より私には武士は向いていないのではないか、そうおっしゃっておりました。そんな私に家を運営していくなど出来ますでしょうか」
「直接聞いたのか?」
「人伝ですが……。平穏に過ごして欲しいとおっしゃっていたと」
「そうか。だがな晴景よ、アイツは儂にこうも言っていた。儂の後を告げるような立派な男になって欲しい、とな」
「は、母上がそのような事を!?」
「儂が嘘を言ってどうする。それにな、まだ今の儂ならお前を支えてやる事は出来る。今までは儂が前面に出て府中長尾家を引っ張って来たせいでお前に構ってやる暇も色々と教えてやることも出来なかったが、隠居したという事になれば代わりに
先程まで瞳の奥に宿っていた荒々しさは鳴りを潜め、今では子を見守る優しい父の面影が現れていた。
晴景はそんな頼もしくも優しい父の自分を思う心。そして亡き母の自分に対する期待。
考えた事もなかった両親の自分に掛ける思いが怒涛の様にこの場で押し寄せ、自然と視界がぼやけていくのが分かった。鼻の奥にツンと痛みを感じた晴景は、咄嗟に頭を床に叩き付ける程の勢いで下げると今自分がで出せる一番大きな声で所信を述べた。
「はっ。この晴景、今後は長尾家の当主として粉骨砕身、全身全霊を込め発展に努めまする!」
「よく言った!これより長尾家の当主は晴景とする。今後表向きの案件は全て晴景に任せる、そして儂は国人衆鎮圧の方に力を注ぐ事とする。すぐに国内領主どもに伝えよ。為景は嫡子の晴景に家督を譲った、とな」
若干震える声で放った所信。だがそれに触れるものはいない。
何を思って述べたのかなど未だに震える長尾晴景の肩がそれをありありと物語っているから。
広間に居た晴景や家臣たちは為景の言葉と同時に深く礼をし、越後国内へ触れ回るための準備へと散って行った。
先ほどまではあれ程厳たる雰囲気であった部屋も今は上座となる上段に座っている為景一人となった。夏の暑さと虫たちの鳴き声だけが為景の耳には届いている。
「これで
身体が衰えている事、それは身近な家臣達には既に気付かれているだろう。だが実は、老いによる体の衰えだけではなく、誰にも知らせることなく体が病に蝕まれているのを長尾為景は心に留めていた。
せめて晴景が一人で国を動かせる、その日が来るまで持つように願いながら。
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