3話 時間旅行

俺はどうやら転生というよりもタイムスリップしたのだと思う。


輪廻転生、それは死んでもまた何処かで蘇るというもの。

漫画やアニメ、ライトノベルでは魔法の存在する異世界とやらが人気だったが、転生するという事は魂だけの存在となり新たな命となって新たな生を受けるという事。つまり肉体はその世界その時代のモノで、中身の魂だけが何処か他の所からやって来たモノになっているはずなのだ。


しかし今、雪と名付けられ天室光育和尚という高僧に育てられた俺の体は違うようだ。


鏡が貴重という事もあり自らの顔など確認したことも無いが、確認は出来なくとも分かる事が一つだけあった。それは俺の体には人とは違う、大きな特徴があった事。右の太腿ふとももにある大きな黒子ほくろだ。

転生したなら体は新しく作り替えられているはずだから黒子は無いはず、なのに確かにそこには黒子があった。

この特徴から考えられるのは、俺は別の世界に輪廻をめぐって転生したのではなかく純粋に体が小さくなったのではないかという事だ。


寺から外への外出は殆どなく出会う人も兄弟子や近隣の参拝客くらいのものだが、時々やって来る腰に帯刀し鎧を着こんだ男たち。鞘から抜いたところは見たことはないが、あれは正しく日本刀。

ライフスタイルも家電に頼り切った現代とは大きく異なり、電気など一切使用する事なく全てを人力で賄っている今のライフスタイルからは戦前なのは確実。


時々やって来る男たちに対する寺の僧たちのまるでサラリーマンが接待するような態度から察するに、封建制による身分の差、上下関係が厳しそうなのは確実。

寺と言う世間とは隔離されている空間に閉じ込められているせいかもしれないが、僅かでも大衆娯楽として歌舞伎や能、浮世絵や大衆小説などといった文化を聞かないというのは江戸時代も怪しい。


これらの事からも俺はきっと戦国時代と言われるような時代に来てしまったのではないか、そう思ってしまう。いつの時代かは分からないけどさ。


20××年から戦国の時代にタイムスリップ。何故、どうしてなのかは分からない。きっと春日山神社の本殿で見たあの光が関係してはいると思うのだが、それが一体何なのかは考えても一向に分からない。


あぁ、ジャンクフードが食べたい。


林泉寺での生活は結構大変である。いや寧ろ現代では考えられないほど厳しいかもしれない。

元々屁理屈を言うのは結構得意な方だったし、あーだこーだと色々遠回しに言ったりするのも好きだった。だから仏道の修行の一つ、俗に禅問答と言われる公案(こうあん)はそれなりに何とかなった。伊達に頭の中だけではあるが大人ではなかったという事であろうか。それとも現代の友人に寺の息子がいたから何か影響を受けたのだろうか。


禅問答には色々あるが有名なものだと『隻手せきしゅの声』や『狗子仏性くしぶっしょう』などがある。

隻手の声とは、両手で打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告するというもの。

狗子仏性とは、あらゆるものに仏性はあるとされるのに、なぜ犬にはないのか、と僧が和尚に問うたものである。

言っていることは違うけど、禅の精神を究明するための問題であるのだ。


でもこれはあくまでも暇つぶしの時間というか余暇での事だ。


天室光育和尚に拾われ当初は僧にしようとしていたみたいな和尚だが、俺はどうやら掃除の才能があったようである。親や祖父母が綺麗好きというか潔癖気味だったのが遺伝したのかもしれない。それに加えて現代では理系の大学を卒業したので算数や数学といった計算系はお手の物。雑用係としては重宝するみたいだった。


寺で修業をする小僧から寺の雑事を行う使用人としての寺男てらおとこへ身分的には落ちたのはその時だった。

しかし待遇は小姓の時のまま、お陰で一時的ではあったが兄弟子達とは微妙な関係になってしまったのは言うまでもない。


中でも一番微妙な反応になってしまったのは天室光育和尚の弟子の中でも最も頴語えいご懇篤こんとくな兄弟子、法名を宗謙そうけんという僧だ。

普段から穏やかで非常に寛大な心を持っており、穏やかな性格の彼には俺が赤ん坊の頃から非常にお世話になっている一人だ。オシメを変えてくれたり食事を与えてくれたり、自我が芽生え自分の状況を整理できるまでは様々な身の回りの世話をしてくれた。


もちろん宗謙兄弟子だけではなく林泉寺の様々な僧や小僧、寺男の人に世話にはなったが、そんな中に置いても一番世話になったのが天室光育和尚を除けば彼という事になる。


小さい頃から知っているからこそ自我が芽生えるまでは言葉遣いも結構ため口であって敬語なども一切使っていなかったが、自我が生まれて過去を振り返る事があった時から徐々に言葉遣いも相手を敬うような言葉遣いになっていき、直後にこの降格とも没落とも言えるような出来事。

宗謙兄弟子にとっては徐々に言葉遣いが丁寧になっていく毎に大人になっていく嬉しさと自分から手元から離れていくことへの寂しさなどの親心。加えて身分も落ちてしまった弟とも言えるような身内にどうやって接していいのか、悩みもあったのだろう。


それら様々な思いがグルグルと回ったからこそ、関係が微妙になってしまったのだ。


「おや、雪く……こほん。雪、朝食の準備は終わったかい?」


「これはこれは宗謙様。既に支度を終え、後は皆さまをお迎えするばかりです」


「そうかい。それなら、うん……いいんだ。邪魔して悪かったね」


という風にね。数えで6歳の事である。


しかし待遇は小僧のままなので寺男としての雑用はもちろんの事、小僧として和尚である天室光育和尚の身の回りの世話もたまにはしなくてはならない。こんな制度戦国時代にはなかったはずなのに、オカシイ。


災い転じて福となす。これを思ったのは寺男となって半年も過ぎた頃だった。

林泉寺は広い。体が小さいからそう感じるのかもしれないが掃除をするのも一苦労なので体力は必然とつく。お陰で体は小さいがそれなりに筋肉がついていい感じである。しかし小さい頃に筋肉を付けすぎると身長が伸びないという。ここは唯一の心配である。

最も福となった、助かったと思ったのは小僧として学問を習っている事だ。学問の中には文字の読み書きというものが基本としてある。漢字は大学受験の時に勉強したし漢字に関する資格も持っているので読むのは問題ないし書くのも別に問題ない。現代のであるならばだ。この時代の文字全部つながっているのだ、達筆もいい所である。


お陰で知っていても書けないし文書を見せられても内容は理解できないしで混乱しまくりであった。でも勉強した、それはもう大学受験以来の本気で。他の人が止めるのを振り切ってやる位に。お陰で今では文字は書けるし読める。現代では達筆で知られた俺だ、この時代でも結構字が上手いと褒められた。

この時代におけるちょっとした自慢だ。


身長たぶん120センチほど、無駄な贅肉はなく寧ろあばらが浮き出てはいるが腕などにはしっかり筋肉がついている。この時代では結構背が高い。頭の中はすでに30歳を超えている。この時代では圧倒的な計算能力と文字も書ける能力を持つスーパー6歳児、それが俺。

ただ体が以前と同じままだということは25歳まで生きていた俺が将来どんな姿になるのか、イケメンにはなれない、そんな事が分かってしまうのだ。未来の姿が分かる、将来の姿が分かっている、それは憂鬱以外の何物でもない。


1536年の8月。

新緑の葉には真夏の太陽が燦々と降り注ぎまさに夏真っ盛り。空の果てには入道雲と何処までも青く突き抜ける空。空気が澄んでいるため空は以前よりも高く見える。蝉(せみ)は騒がしいほどに鳴き林泉寺の庭には蝶などの虫が楽しむように飛んでいる。


熱い中寺男としていつものように庭を竹箒で掃除していると、ふと、後ろから声が掛かった。

そこにはいつもの茶色い和尚服を着込んだ和尚とムスッとして如何にも不機嫌です、とでも言いたげな小奇麗な服を着た少年がいた。


「雪、今日からこの寺で預かることになった虎千代だ。お主と一緒で今年で数え7歳じゃ。今日から儂の世話はいい、この虎千代の面倒を色々と見てやっておくれ」


これが虎千代、後の上杉謙信との最初の出会いだった。

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