長尾上杉存亡記 ～現代に継ぎし旅行者～

林泉寺編

１話 嬰児

１５３０年１月２６日。

深夜から降り続け早数時間経つのにも関わらず未だにシンシンと雪が降り積もる寒い、寒い冬の日だった。

春日山城（かすがやまじょう）の山麓（さんろく）に建立された越後国守護代・長尾氏（ながおし）および後裔・上杉氏（うえすぎし）の菩薩寺である曹洞宗の寺院の一つである林泉寺（りんせんじ）。

山門の屋根にはうっすらと雪が降り積もり、いよいよ本格的な積雪になるかとも思われる季節の１月下旬。暖房で暖を取る事も出来ず時折隙間風が吹き込んでもおかしくはない林泉寺では、多くの着物を羽織らなくてはとても過ごす事など出来ない程の厳しさ。風が運んでくる冷たい空気が肌をピリピリと突き刺し、痛みを感じるとともに頬は寒さで真っ赤になってしまう。

零下にもなるほどの寒さ厳しい早朝のまだ朝日も出て間もない頃、本堂から一人の和尚が惣門の門扉を開けようと出てきた。

城下にあるとは言え、春日山城は姫路城や名古屋城のような石垣があり漆喰の白壁、天守閣があるような世間一般的にイメージされている城ではない。

自然そのままの起伏激しい山を利用した天然の要塞。山の中に時折存在する平地や木々を伐採するなど少し整備して広い敷地を確保し、そこに多くの家臣たちが屋敷を建て近隣の敵からの攻撃に備えている。

言うなれば城というよりは砦と言った方が正しいのかもしれない。

砦であれば多くの人が駐留したり、ましてやそこで長期間の生活を送る事など想定されてはいない。そんな城ではあるが砦でもありそうな春日山城の山麓にある林泉寺の辺りには大きな屋敷もまして農民の家すらない。あるのは林と池だけだ。

夏であれば一切の明かりもなく虫たちの合唱を楽しめそうな世間の喧騒とはかけ離れた林泉寺だが、昼間にもなればそれなりに参拝客がやってくる。それはそうだ。明日の命ももしかしたら危ういこの時代、悩みや不安といった心の問題だけではなく、自然災害や疫病など一農民には決して防ぐ事の出来ない事も神頼みに来るのだから当然である。

しかし今は早朝、その為辺りは喧騒とはかけ離れた静寂だけが漂っていた。

雪を踏みしめるキュキュという音だけが辺りに響き渡る中、和尚は悴（かじか）む手で寺の扉の留め具を外し古びた門を開いた。

門の向こうにはまだ誰にも踏み締められてはいない一面の銀世界。空気が澄んでいるため積もっている雪は汚れを含んでいない純白であり、ようやく顔を出し始めた朝日の光で作られる影は黒色から藍（あお）色へと変わっていく。

濁らず清い雪だからこそ作られる絶景がそこにはあった。

和尚は開けた門から流れ込んでくる空気を大きく吸い、自らの肺に溜まっていた淀んだ空気を吐き出した。昨日までの自分に別れを告げて、今日の自分へと挨拶をするその第一歩。

これでまた一日新鮮な気持ちで修行が行える、清々しい気分だ。

何度も深呼吸を行い澄んだ空気を体中に循環させ終え寺に戻ろうと和尚が体を反転させた時、視界の端に雪の白さではあり得ない汚れた白が横切った。一瞬ではあったが決して見逃せないそれは、和尚が再び視線を汚れた白へと向けた時にも確かにそこに存在し、何かを包んでいるかのようにぷっくりと膨らんでいた。

見るからに乱雑に包まれたそれは明らかにこの景色に溶け込まず、そこの空間だけが異様であるという事が理解できる。

普段であれば見ない振りをして通り過ぎたかもしれない。だがこの包みがあるのは自分が住職を務める林泉寺だ。自分にはこの寺を管理運営していく責務と弟子たちを立派に育て上げる義務がある。

中身が分からない包みをここに置いたままにしたら、もしかしたら最悪の事になってしまうかもしれない。そうなってしまえば住職として寺を管理するという点に置いて明らかな過失だ。

だからこそ和尚はその包みが何なのかを確認しなくてはならない。いや、本音を言ってしまえば僅かながらも生まれてしまった好奇心が一歩一歩包みへと足を近づけさせる。

汚れた白の正体は木綿で作られたような少し目の粗い布だった。恐る恐る覆っているその布を一枚一枚剥がしていくと、中からは雪の白さにも負けない程の白い肌を持つ乳児とも言えるような小さい小さい人の子の顔が出てきた。

「おやおや、何という事じゃ。雪が降るようなこれほど寒い中に布一枚で放置されるとは……可哀想に。肌も氷の様に冷たくなっているではないか」

赤ん坊とも言えるその子は見るからに嬰児（えいじ）であった。

気温は早朝という事もあり０℃を下回っている。太陽が昇る日中であっても５℃に届くかどうか分からない。そんな気温の中では大人であっても寒くて体を抱えて震えてしまうのに嬰児であったらどうなるのか。きっとあっという間に死んでしまうだろう。

証拠に今目の前にいる子の肌は氷の様に冷たく、血流が悪くなっているのか唇は若干紫がかっている。

人の死が身近でありすぎ、人の人生はおよそ３０年。

７つまでは神のうち、人のこの世と黄泉の世を行ったり来たりの曖昧な存在であり人間の仲間入りは出来ないともされている。つまりいつ死んでもおかしくはない、確かにそこに存在するがいつ消えてなくなってしまってもおかしくない幻。

そんな世だからこそ子は多く作らなくてはならない、ならないが……多すぎる嬰児は殺すしかない。多くは無いが川のあちらこちらに親に溺死させられた嬰児が引っかかっているのを見ることがある。それはつくったはいいが育てられないから、貧しく今いる子供たちでいっぱいいっぱいだから、他に方法がなかったのだろう。

軽蔑はしない、それが世の常だから。だが仏の道に入っている者として共感も出来ない。

僅かに残されているかもしれない、生きられるかもしれない、そんな希望を持ってこの嬰児の親はこの寺の前に捨てたのかもしれない。自分の元では育てられないしきっと餓死させてしまうだろう。それならば――――という思いで。

全ては自分の考えの元での結論だがと自嘲気味にも思えるが、ふと、和尚は考えた。

自分には助けることは出来るだろう。寺には嬰児を養うだけの蓄えも育てるだけの余裕もある。だが本当にそれで良いのか、多くの嬰児を見捨てていたのに何故この子だけを救おうと思うのか。

助けるべきか助けぬべきか。出口の見えない迷いの迷宮に入り込み考えを巡らせている中、何気なしに空を見上げると先程まであれほど降っていた雪が突然止んだのを感じた。立ち込めていたはずの厚い雲も今は無く、寧ろ朝日に照らされた雲が鮮やかなオレンジ色へと変わっている。

空にはまだ確かに雪雲はあるし空気は冷たい、吐く息も白ければ肌を刺す寒さもさっきと同じはずなのに。この一瞬だけ切り取られ別の空間に替えられたかのように。

「助けるべきか助けぬべきか、迷っている時を見計らったかのように変化したこの空間。これは天が儂に対して“助けなさい”とでも言っているようではないか。雪の降っていない太陽の出ている内にお主を寺に入れよとな。よいじゃろう。これも何かの縁……いや天の声かのう」

そう言って今まさに体験した奇跡の様な不思議な現象に自然と笑みが生まれてくる。

「では名も無き嬰児であるお主に名を付けねばならんの。雪の降った晴れたが天からの言葉であったのだからそれに関連付けて付けねばならんの。……よし、お主は今日から“雪（せつ）”。そう名付けよう」

満足そうに頷くと和尚は布に包まれた嬰児を大事に抱え寺の中へと帰って行った。

これがタイムトラベラー “雪”と名僧“天室光育（てんしつこういく）”との出会いであり、そして後に“上杉謙信（うえすぎけんしん）”と名乗ることとなる“虎千代（とらちよ）”との運命的な出会いの始まりであった。

和尚が寺に入る頃、取り換えられたかのように晴れていた空からは雪が再び降り始めていた。