第42話二人のエンブレム
「だろう? だったら彼女の寿命は何とかならんのか?」
「ほほぉ……そう来ましたかぁ……じゃあ、自分の妻にしますかぁ? 神の酒ネクタールを飲ませますかぁ? そうしたら神の一員ですよねぇ……寿命なんてどうとでもなりますよねぇ」
と怪しく光る瞳でキューピッドを見た。
「そんな事をしても意味が無い」
キューピッドはサリエルから目をそらして空を見上げて言った。
「じゃあ、寿命を延ばすなんて事は無理ですよねぇ……」
「彼女は人間のまま居たいんだ。それに彼女には好きな人が居る」
キューピッドは街の風景を見つめて言った。
「それなら鉛の矢を……おっと、今は鉛の弾でしたねぇ。それを喰らわせてやれば、心置きなく憂いなくこの世に未練もなく彼の事など忘れて果てて天に昇って行けるじゃないですかぁ……僕が案内しますよぉ。彼女をちゃんと冥府に送り届けますから……」
とサリエルはキューピッドの神経を逆なでするように言った。
しかしキューピッドはそれに腹を立てる様子もなく
「そんな事が出来る訳ないだろう……」
と呟いた。
「おやぁ? これがあのキューピッド様の言葉ですかぁ……死神達でさえ顔をしかめた「あこぎ」なあなたのセリフとは思えませんねえ……」
と大仰な口調でサリエルは驚いて見せた。
「あの時の僕と同じにするな。あの時とは……」
と小声で力なく言った。
「ほほぉ……私には楽しい時代でしたがねぇ……あの時のキューピッドは頼もしい相棒でしたからねぇ……」
とサリエルは懐かしそうな表情でキューピッドを見た。
そして左肩を突き出した。彼のパーカーの左腕にはエンブレムが付けられてあった。
それは剣が突き刺さった心臓をモチーフにしたエンブレムだった。
「懐かしいでしょ? 」
とサリエルはキューピッドを伺い見るように笑った。
1500年代のイギリスにおいてキューピッドは死神と結び付けられることが多かった。その当時の彼は背徳の恋を沢山生み出していた。それは死を迎える悲劇をたびたび生んだ。
イギリス・ルネサンス時代のキューピッドは恋人達の血を飲み、生きたままの心臓を喰らうというグロテスクな神として描かれた事もあった。
そして更に遡っては2千年前のローマの退廃した世相の中でも、欲望に満ちた貴族どもだけではなくゴシップに飢えた民衆までも彼の弓矢はことごとく射抜き、禁断の愛に溺れる人々を見て嘲笑を浴びせていたのは他ならぬこのキューピッドだった。
愛してはならない人を愛してしまったがゆえに起こる不幸。そして迎える死。それを演出していたのがキューピッドとこのサリエルだった。
このサリエルのエンブレムと同じ図柄のエンブレムがもう一つ存在した。そのもう一つはキューピッドがその当時付けていたものだった。
「まだ、そんなものを付けていたのか……」
「ええ、古き良き時代の思い出ですからね……で、どうするつもりなんですかぁ? 彼女……」
とサリエルは聞いた。
「どうする……?」
「天下のキューピッド様ともあろうお方が何の目的もなく、人間の小娘に目をかけるなんて有り得ないでしょう? 違うんですかぁ? それとも誰かとくっつけますか? その金色の弾丸で……あ、僕は止めておいてくださいね。僕は人間には興味が無いですから……」
と皮肉がたっぷりこもったセリフと共にキューピッドを上目遣いに見た。
「そうだな……それもアリか……」
「え?嘘?」
サリエルは目を見開いてキューピッド見た。
長年の付き合いのある彼にとってもキューピッドのこの反応は予想外であったようだ。
キューピッドはそんなサリエルの事など眼中にないように
「やっぱり方法はないのか……何とかならないのか……」
とため息交じりに呟いた。
「本気ですかぁ?」
と少し呆れたような表情で聞いたサリエルだったが、すぐに
「今更、罪滅ぼしですかぁ?」
と歪んだ瞳をキューピッドに向けながら低く押し殺した声で更に聞いた。
「違う……そんなんじゃない……」
キューピッドはサリエルの瞳から目をそらして力ない声で答えた。
「兎に角、私の仕事の邪魔はしないで下さいよぉ。 たとえあなたでもそれだけは許しませんからねぇ」
とサリエルは念を押すように言うと
「もう残された時間はあまりありませんからねぇ……余計な事はしないで、さっさとハーデースに会いに行って下さいねぇ」
という言葉を残して消えた。
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