第三章 閃光 目覚めた農家と消失した蛙




「帰りやがれ! そんな気はないと何度言ったらわかるんだ!」


 居間にいた大樹は「またか」と溜息を吐いた。襖を少しだけ開けて玄関の様子を伺う。血管が切れそうな勢いで村中に響くような怒鳴り声を上げている父の姿がそこにはあった。村中というのは決して大袈裟な比喩ではなく、最初の頃は驚いた隣家のおばさんがよく覗きに駆け付けていた。しかし一ヶ月間こう何度も同じやり取りが繰り返されれば皆慣れるというもので源三がドスの利いた声をいくら張り上げても今では村中の誰もが大樹と同じように「またか」としか思わなくなっていた。


「こんなに頼んでも協力願えないのですか? 今や君だけなのですよ? 我社の事業に反対しているのは。村長も『闘マンドレイク』による村おこしには賛成してくださっている」


「てめえが接待や金で誑し込んだだろうが。村長も他の農家の奴らもよ」


「人聞きが悪いですね。私は私の事業理念を語り彼らに理解して頂いただけですよ」


「事業理念とは大層なことだな。金儲けの悪知恵を吹き込んだだけだろう?」


「悪知恵か。君らしい考え方ですね。一人でコツコツ地道に仕事をしている人間だけが正義で、素晴らしいアイデアを元に多くの賛同者を得ながら事業を拡大している人間は悪だというのですね? 極論過ぎやしませんか?」


「悪とまでは言ってねえよ。気が合わないって言ってんだ! 帰れ、帰れ!」


「そうもいかないのですよ。もうすぐこの村の祭りでしょう? 実はその時にちょっとした催しを考えていましてね。あなたの協力が不可欠なのです」


 そう言って勇次は何やら紙のような物を源三に渡した。


「なんだ、こりゃあ、……トーナメント表か? ん、こいつら、全部この辺の農家じゃねえか」


「ええ、そうですよ。皆さん、ヱラーグに協力して下さっている方々です」


「まさか、てめえ、こいつは……」


「ええ、マンドレイクを戦わせる大会を祭りの中で開かせて頂こうと思っていましてね。いわば奉納試合というわけです。ヱラーグとしてもマンドレイクを使った初のイベントとして貴重なデータが採れますし、祭り自体も盛り上がり話題になるはずです。ヱラーグ、村、それぞれの今後の発展の足掛かりになるイベントとしてぜひとも成功させたいのですよ」


「嘘つけ! おまえが話を持ってきてまだ一ヶ月くらいだろ? マンドレイクが争いを好まない性格だってことはおまえも知っているはずだ。こんな短期間で試合を出来るまでに調教出来るわけがない」


「その辺は村の皆さんに多大なご協力を頂いていますよ。優秀なマンドレイクを育てるためにこれまで試みたことのない飼育方法を色々試して頂いていましてね。もちろんあなたが必要だという我社の方針には変わりありませんが、うちも早めに結果を出してスポンサーに納得してもらわないといけないもので」


「なんだと? お前ら、マンドレイクたちに何をしやがった? 試みたことのない飼育方法だと?」


 源三の声が震えていた。そしてその顔がさらに紅潮していた。


「さあ? 私は専門家ではないのでね。詳しい所はお任せしているんですよ。多少金が掛かってもいいから闘争心のあるマンドレイクを短期間で作り上げて欲しいと頼んだだけでね。しかしまだまだ研究途中なのでだいぶ『廃棄品』が出てしまったようですが」


「は、廃棄品だと! てめえ!」


 叫ぶと同時に源三は勇次の胸ぐらを掴んだ。慌てて大樹は部屋を飛び出し、父を後ろから押さえつけた。


「大樹、離しやがれ! こういう奴は拳でわからせねえと駄目なんだ!」


「前にもそんなこと言ってどっかの親父に訴えられそうになっただろうが!」


 怒鳴り合いながら揉み合う父子を目の前にしても勇次は全く動じることもなく自分はこれには関係ないと言わんばかりに無表情だった。それを見た大樹もついに感情を抑えられなくなった。


「てめえ、誰のせいでこうなったと思っているんだよ? 早く帰ってくれ! こうなった親父は手加減なんかしないんだ。ボコボコにされたいのかよ!」


「昔は互角に殴り合えたものだが今は私も体が鈍っていますし、普段から鍛え上げている農家の親父には負けるでしょうね。仕方ない、今日は帰りますよ。二人とも良かったら試合を観に来てください。ぜひ感想も聞きたいのでね。ビジネスのお話はまたその後しましょう」


「誰が行くか! そんな野蛮なショーには反対だと言っているだろうが!」


「源三君。あなたが好もうが好むまいが計画は進んでいるのです。あなた一人の力では流れは変えられない。それならマンドレイクを愛するあなたが積極的に関与していくべきではないですか? そうすれば無駄な犠牲も最小限で済むかもしれない。あなたが最も優れたマンドレイク飼育者だという私の考えは今も変わらないのです。熟慮してください。ではまた」


 勇次が車に乗り込みその姿が見えなくなるまで大樹は必死に暴れる父を押さえていた。車が発進するとようやく源三は抵抗を辞めた。


「ちっきしょう! 大樹、塩を撒いとけ! 五キロ入りの袋、全部だ! いいな!」


 そう言った彼はドスドスと足音を立てて家の中に入っていった。その後姿を見て大樹は不思議な感情を覚えていた。もう少し源三が若い頃なら大樹が全力で羽交い絞めしてもあっと言う間に振り切られてしまっていただろう。こんなに長い時間暴れられても押さえ付けられたということはそれだけ源三が歳をとったということだ。妙な寂しさのようなものを感じてしまった。


 父も自分も昔と同じではないということを大樹は再確認していた。




 源三と勇次の一悶着があった日の午後、大樹は畑に向かった。それは約束があったからだった。アスファルトの道路から横道の砂利道に入り歩いて行くと彼は遠くの方に何か違和感を覚えた。不思議に思い、目を凝らしてよく見ると畑には似つかわしくないものがこちらに向かってブンブンと手を振っていた。ピンクのワンピース姿。春香だった。


「たーいーきーさーん、こーんにちはー」


 こちらが恥ずかしくなるような大声で元気よく春香が叫んだ。体が弱いと聞いていたが本当なんだろうか? 顔を真っ赤にした大樹は苦笑いを浮かべながら彼女に近付いていった。


「お待たせしてしまいましたか?」


「いえ、この辺を色々と見させて頂いていましたから。散歩するのも気持ち良くて」


「でもこの辺なんて畑と田んぼと山しか無いでしょう? 別に珍しい物もないし一ヶ月もいたら都会の方は飽きちゃわないですか?」


「そんなことないです。空気も水も綺麗だし散歩していると幸せな気分になってきますよ。私、この村に来てからすごく体調が良くて父も兄も驚いているんです」


「そうなんですか。それは良かった。こんな『ど田舎』もたまには役に立つことがあるんですね。あっ、そうだ、こいつを出してやらないと」


 そう言って大樹は持っていたバスケットの蓋を開けた。勢いよくそこから飛び出してきたのは「にんじん」だった。飼い主には目もくれず(眼は無いが)そいつは春香に飛び付いた。


「きゃっ! びっくりしたー。わあ、にんじんちゃん、こんにちは」


 短い腕でしがみついた胸元のにんじんを優しく撫でながら春香は微笑んだ。その様子を見ながら大樹は不思議そうに首を傾げた。


「しかしこいつがこんなに懐くなんてね。俺と親父以外に抱き着くことなんて今まで無かったのに。ひょっとしたら春香さんってマンドレイクブリーダーに向いているのかな?」


 そう言ってから大樹は自分がとんでもないことを言ったと思い、再び赤くなった。言葉の意味の取り方によってはプロポーズにさえ聞こえてしまうことに気付いたのだ。しかしその辺がどうも鈍いらしい彼女は全く気付いた様子がなかった。


「本当ですか? 私も育ててみようかな、マンドレイク」


 取り敢えずほっと胸を撫で下ろした大樹はハンカチを取り出し広げて草の上に敷いた。腰を下ろすように促すと春香は礼を言ってそこに座った。大樹も隣に腰を下ろした。


「兄から聞いたんですけど、もうすぐお祭りなんですってね」


「まあね。でも村の神社の小さなお祭りだからそんなに期待しない方がいいよ。たこ焼き屋とか金魚屋とか、そんな出店が五、六店、来るだけだからさ」


「楽しそう! 私そういうのあまり行ったことがないんですよ」


「良かったらおいでよ。俺も青年団として参加しているから案内するよ」


 春香は「ありがとう」と言って笑顔を見せた。しかしどことなくそれは寂しく見えた。


「あれっ、どうしたの?」


 そう聞かれた春香は何も言わずただ下を向いた。何かを言おうとして迷っているようだった。


「悩み事があるなら話してみてよ。俺なんかじゃ力になれるかはわからないけど少なくても吐き出しただけでもすっきりすると思うからさ」


 大樹がそう言うと春香は顔を上げた。真っ直ぐな眼に一瞬大樹はどきりとした。


「最近思うんです。父と兄のしていることって正しいことなのかなって」


 大樹は「えっ」と言ったまま絶句してしまった。あまりに思い掛けない内容だった。


「この村で生活しているとヱラーグのやっていることがどうしても耳に入ってくるんです。それは正直良い評判ばかりじゃなくて……」


「そ、それは仕方ないんじゃないかな? ほら、妬みとかもあるだろうし」


「大樹さん、本当はご存知なんでしょう? 父たちのやっていることがマンドレイクをいたずらに傷付ける虐待に近いものだって」


 大樹は返事に困った。しかし彼女には嘘を付くことができない気がした。


「……確かに俺も俺の親父も君のお父さんの事業には反対している」


「知っています。その話も村の人から聞いたんです」


「そうか。ごめんね、別に隠すつもりじゃなかったんだけど」


「いえ、いいんです。それなのに親切にしてくれて私嬉しかった」


「いや、あの、それはね、あの……」


 思わず大樹は口篭った。「君が好きだから」とは言えなかった。


「あ、あのさ、春香さんは具体的にはどこまで知っているの? ヱラーグの事業のこと」


「父も兄も何も教えてはくれませんけど大体のことはわかっています。私、マンドレイクを戦わせるって聞いて『お相撲』みたいなものを勝手に想像していたんです。野菜の姿をしているマンドレイクたちが短い手足でお相撲するなんて可愛いでしょ? でも実際はそんな呑気なものじゃないみたい。争わない性格の彼らを無理に調教しているようなんです」


「うん。マンドレイクは本来とても穏やかで争いを好まない種族だ。知能が高いから水飲み場を設けておけば勝手に自分で吸水に行くし、天気の良い日は日向ぼっこ、光合成をして自分で養分を作る。普通の植物は作った養分を子孫、つまりは種を作るために使うんだけどマンドレイクは動物のように動き回ることにエネルギーを使っちゃうから子孫が出来にくい生物らしいんだ。原種のマンドレイクもアフリカの高地に住んでいた先住民がペットとして飼うことで世代を繋いでいたらしいからね。天敵もいないし自分たちの力で子孫を残すことに執着しないように進化したマンドレイクは自ずとおとなしくて争わない生物になったんだよ」


「父も最初は苦労していたみたいです。そんな時に治三郎って人が『わしならマンドレイクを調教してやれる』って名乗り出たということで……」


「治三郎? ああ、あいつか! そうか、厄介な奴が手を貸しているんだな……」


 何を隠そう治三郎は昔から源三と何度もトラブルを起こしている相手であり、朝、勇次と源三が揉めた時に大樹が口走った「昔、源三を訴えると言ったどっかの親父」、その人であった。お互いがマンドレイク農家兼ブリーダーである二人は犬猿の仲として村では有名だったのだ。


「お知り合いですか?」


「村じゃ知らない奴はいないさ。うちの親父とは違う意味の変人でね。先祖代々受け継いだ広大な田んぼを自分の代で全部潰してマンドレイクの栽培事業を始めたんだ。人もたくさん雇っているし成功はしているけど評判は良くないんだよ。形の悪いマンドレイクは生きたまま容赦なく鉈で切り刻んで処分しているって噂だよ」


「……ひどいですね」


「もちろん俺たちだって生き物を扱う商売である以上、多かれ少なかれ似たようなことはやらざるを得ないわけだけどね。でもあいつは命に対する尊敬というか畏敬というかそういうものが欠けている気がするよ」


「……私の父のことを言われているみたい」


「あっ、いや、そういう意味じゃなかったんだ。ごめん」


「いえ、私、知っちゃったから。父と治三郎さんはマンドレイクたちを水のない日も当たらない部屋に隔離して飼育しているらしいんです。それで僅かな水だけを部屋の真ん中に置いて自然と争奪戦が起きるようにけしかけているの。他の仲間を蹴落としてその水を取れたマンドレイクだけに肥料を与えて大きくして、またその強くなったマンドレイクたちを争わせて、その繰り返しで闘争心の強いマンドレイクを創り上げようとしているんです。途中で負けたマンドレイクは傷だらけで死んじゃう子もいるって……」


 ぽとりと春香の眼から涙が落ちる。それは「にんじん」の上に落ちた。


「父は将来的にはギャンブルの対象としてマンドレイクを使うつもりなんです。政治家の先生とかにも働き掛けをしているみたい。昔はそんな人じゃなかったのに。私が小さい頃、母が死んでから父は変わっちゃったんです。異常にお金に執着するようになって」


「うちの親父もお袋が死んでから偏屈がひどくなったな。俺が言うのも変だけど男なんてそんなものかもしれない。『泣き言は言わず寂しさを仕事で紛らわせるのが男だ』とか思っちゃうんだよ。君のお父さんだって君の気持ちを聞けば分かってくれると思うよ」


「そうですね。私、やってみます。父に『これ以上ひどいことをしないで』ってお願いしてみます。大樹さん、今日は本当にありがとう。お祭り、必ず行きますね」


 春香は笑顔を取り戻し会った時と同じようにブンブン手を振りながら帰っていった。それを見届けた大樹も「にんじん」を抱いてうちに向かって歩き出した。


 やはり春香には笑っていて欲しい。


 自分に何か出来ないだろうか。大樹は初めて本気でそう考え始めていた。




 大樹が家に帰ると居間で源三が真っ赤になっていた。まだ怒っているのかと思ったが、そうではなく、単に酔っていてご機嫌になっているだけだった。


 人が悩んでいるのに呑気なものだ。大樹は少しイラついた。


「てめえ、なに、明るいうちから飲んだくれてるんだよ、バカおやじ!」


「おお、大樹ちゃんじゃねえか。俺が馬鹿なら血を分けたおめえも半分馬鹿だぜ」


「残念、俺は百パーセントお袋似なんだよ」


 売り言葉に買い言葉だったのだが大樹のその言葉を聞き源三の表情が変わった。


「……うう、そうだよな、おまえは優しいもんな。あいつも観音様みたいに優しくて良い女だった。俺が実家の都合で田舎に帰るって言った時も付いてきてくれてよ。実家が金持ちで勉強もできて将来有望だった金田から求婚されていたのに俺みたいな貧乏農家と一緒になっちまって」


 大樹はハッとした。全く初耳の話だった。


「俺がマンドレイクを育てたいって言った時も文句ひとつ言わず賛成してくれたっけ。まだ日本ではそんなに栽培実績がなくて苦労するのは眼に見えていたのになあ。初めて栽培に成功したにんじん型も可愛い可愛いって大事に育ててくれて」


 大樹が生まれる前の話らしい。源三は相当酔っているようだった。


「あいつみたいな善人が早く死んで俺みたいにひねくれた親父が生き残っちまってるんだからよ。全く神様って奴は何を考えているんだかわからねえな」


「神様に文句言える立場かよ。親父、呑み過ぎだぞ」


「おい、おまえも女は大事にしろよ。失ってから後悔しても遅いんだからな。謝る相手がいるうちはプライドなんか捨てて土下座でも何でもしておけ」


「はいはい、わかったよ。もう呑むの、止めとけよ」


「あっ、それから金田の野郎が試合なんて言ってやがっただろ? どうも胸騒ぎがするんだ。もし俺がいない時に何か起きたら神主に相談しろ。あいつは俺と小学校からの同級生なんだ。あそこには『あれ』があるからよ。きっと力に……」


「あれ? あれって何だよ? おい、親父、こんな所で寝るな!」


 テーブルに突っ伏した源三を抱きかかえ布団まで運んだ後、大樹は深い溜息を吐いた。


 あいつの病気が手遅れになったのは俺が気付いてやれなかったせいだ。


 以前ぽつりと源三が漏らした言葉を大樹は思い出していた。母の死を今でも父は自分のせいだと責めている。それくらいお袋のことを好きだったんだろう。そんなことを思って大樹は自分のことでもないのになぜか照れた。


 自分はそんな恋が出来るだろうか?


 そう考えた時、頭に浮かんだのはもちろん春香……、のはずだったのに大樹の脳裏にはなぜか全く知らない女の顔が浮かんだ。


 ……えっ? なんだ、こいつは? 誰だ?


 大樹はパニックに陥った。


 落ち着け。前にもこんなことがあった。急に目の前から現実感が失われていくような感覚。焦るな。こんな時は冷静に今の状況を分析するべきだ。


 俺の名前は須田大樹。当たり前だ。それなのに何なのだろう、この違和感は? そんなはずはない。自分の名前さえしっくり来ないなんて。俺の父親は須田源三、マンドレイク農家をしている頑固親父だ。母親はもう死んでいる。よし、覚えている、当たり前だ。いいぞ、これなら妙な違和感は消え失せるはずだ。


 この調子で最近あった出来事を思い出してみよう。


 金田勇次の訪問、総次や春香との出会い。村おこしのためヱラーグの企画に賛同し始めた村の連中、孤立した親父と俺、村祭りで行われることとなったマンドレイクによる奉納試合。


 うん、振り返れるぞ。この調子だ。


 試合中、突然暴走し始め、信じられない怪力で村を破壊していくマンドレイクたち。彼らを止めようとしてひどい怪我を負い病院に運ばれた親父と金田勇次。凶暴化したマンドレイクたちは警察でさえ止められなかった。その時おやじの幼なじみの神主が神社の奥底から取り出してきた御神体、それはこの村に古くから伝わってきた日本原産の野生マンドレイクのミイラだった。そいつには村の存亡の危機に池に投げ入れれば村を救ってくれるという伝説があったのだ。水を得て生き返った太古のマンドレイクは暴走するマンドレイクたちを倒していき……。


 ……えっ、なんだ、これは?


 待てよ? これは記憶じゃない! まだそんなことは起きてはいない。単なる妄想? そうは思えない。いや、まさか、これは未来予知というものなのか? 


 大樹は確信した。これは未来だ。なぜ俺はまだ起きていない未来の出来事を知っているんだ?


 お……、か……。


 えっ、何だ? 何か聞こえた。


 せん……、せい!


 誰かが叫んでいた。しかしその声の主の姿は見えなかった。目の前にあるのは見慣れたいつもの茶の間だ。


 先生! 「岡澤さん」に反応が見られます!


 それを聞いた瞬間、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。自分の眼がおかしくなったのかと思い、目を擦る。しかし周りの歪みは全く治らなかった。歪んでいるのは「世界」の方だった。


 彼は思い出した。なぜ忘れていたのだろう?


 そうだ、俺は大樹なんかじゃない!


 そう思った途端、歪んでいた風景が溶けるように消え去り暗闇が現れた。


 どうなっているんだ? 全く何も見えない。ここはどこだ?


 無我夢中で「彼」は駆け出した。


 走っても走っても何も見えない。どのくらい走っただろうか。疲れ果てた「彼」は座り込んで闇に向かって叫んだ。


 俺の帰る場所はどこなんだ?


 すると先程まで何もなかった前方の空間に幾つかの光が現れた。それは丸い窓のようなものだった。「彼」は恐る恐るその一つに近づいて光の先を覗いてみた。


 そこに見えたものは大きな美しい西洋の城だった。そこで映像が切り替わる。どうやら城の中のようだ。薄暗い廊下。誰かが居る。あれは双子? 同じ顔をした二人の人物が鏡の前で今にもキスをしそうな程うっとりした表情で見つめ合っている場面だった。何か気恥ずかしくなった「彼」は慌ててそこから離れた。


 他の光の中も見てみよう。そう思い、彼はすぐ近くにあった光に顔を突っ込んだ。食堂のような場所が見えた。中年の男性を中心に若い男女が何やら覗き込んでいる。あれは携帯型のゲーム機だろうか? いい大人が昼休みとはいえ会社でゲームをしているのか。ここも自分が帰る場所ではない。そんな気がした「彼」はすぐそこから離れ少し離れた場所にあった別の光へ向かった。


 覗き込んだ先には空中に浮かぶ真っ直ぐな線状の大地があった。水平線らしきものもなくどこまでも続く道がずっと先までぼんやり揺らいで見えている。そしてそこを歩いている二人の人影があった。少年の方は赤い帽子に黄緑の服という奇抜な衣装で少女の方は光沢のある絹のような白いワンピース姿だった。楽しそうに話しながら歩く二人を見て「彼」はここも自分の場所ではないと悟った。


 光から首を抜いて暗闇の中で考える。自分の帰る場所、それはどこだったか……。


「岡澤さん、わかりますか?」


 また声が聞こえた。今度はさっきよりはっきりと。


 岡澤? 俺のことか? そうだ、俺は……。


 その時、窓の光とは明らかに違う闇を切り裂くような光が突然射し込んできた。見たことのないほど眩い光が彼を包む。激しい閃光に包まれながら彼は全てを取り戻した。





 映画が終わった、そんな感覚だった。目の前には白い天井と蛍光灯、こちらを覗き込む幾つかの顔、先程まで自分がいた須田家の茶の間はもうどこにも見当たらなかった。


「おっ、岡澤! わかるか? 伊佐だ! 高校の時クラスメイトだった伊佐だよ」


 い……、さ……?


 ……あっ!


 思い出した。ああ、伊佐か! 


 目の前の白衣を着た男と懐かしい旧友の顔が突然パッと重なった。高校時代あれだけ馬鹿話をし合った仲の良い友人だったのに卒業以来会ったことがなかったのだ。込み上げてくる懐かしさに彼の名を呼ぼうとした。そこでようやく彼は自分が酸素マスクをしていることに気付いた。それだけではない。何か全身の力が抜けているような感覚がして声が出しづらかった。それに割れるのかと思うほど恐ろしく頭が痛かった。


「喋らなくていい。表情でわかる。どうやら俺のことを思い出してくれたようだな。いいか、色々と頭が混乱しているだろうが今は何も考えるな。一週間も意識がなかったんだ。それにまだ『ンダッヴァ』の副作用が完全には抜けていないだろうからな。一度意識が戻ればもう大丈夫だ。もう心配いらないからな」


 意識がなかった? 一週間だって? ンダッヴァって何だ? 次々と「?」が浮かんだ。


「訳がわからないという顔をしているな。もう少し回復したらちゃんと話してやるから安心しろ。パニックになるのが一番良くないんだ。ここは病院、俺は医者、誰もお前には危害は加えない。この安全な世界こそが現実だ。わかるな? わかったら何も考えずゆっくり休め」


 まだ少し眠い気がした。だが眠るのがなぜか怖かった。


「大丈夫。俺の研究によれば一度目を覚まし現実を認識した者は最悪の事態から抜けられる。眠りたかったら眠ってもいいんだ。悪夢は二度と見ない。安心していい。俺が保証する」


 良かった。旧友の優しい言葉に安心した彼は再び眠りに落ちていった。




 女性看護師がカーテンを開けに来た。その音で彼は目が覚めた。まだ軽い頭痛がしていたが明らかに昨晩とは気分が違っていた。頭の中がすっきり、そしてはっきりしている。天気に例えれば昨日は小雨で今日は晴れといったところだろう。ただこれが快晴となるには「何か」がまだ邪魔をしている感じだった。恐らくその「何か」の正体を伊佐は知っている、そんな確信があった。


 看護師は彼が起きていることを確認すると「気分はどうか、強い痛みや吐き気はないか」などと聞いてきた。彼は「大丈夫です」と答えてその時初めて気が付いた。


 昨日はしていた酸素マスクをしていない。それに喋れる。


 彼女は驚いた表情の彼に向かってにこりと微笑むと「後で先生がいらっしゃいます」とだけ言い、部屋を出て行った。


 一人になった彼はベッドに寝たまま改めて周りを見回した。病院、一人部屋、自分の腕には点滴が刺さっている。確か、昨晩意識を取り戻した時にはもっとごちゃごちゃと機械のようなものが並んでいたような気がする。今はそれがなかった。確か、あれは脈や血圧、酸素量を監視するための機械だ。病気で死んでいった両親も最期にはあれを付けていた。そんなものを付けるくらい自分はやばい状態だったのだろうか? そう思うと急に怖くなった。そんな彼を脅かすように急に病室のドアが開いた。


「おはよう、気分はどうかな?」


 入ってきたのは白衣姿の伊佐だった。


「ああ、おはよう。昨日と全然違うよ。深い霧が晴れたような気分だ。ただ……」


「どうした? 気になることは何でも言ってくれ。俺が君の主治医なんだ」


「霧が晴れたらそこに薄気味悪い洋館が現れたみたいな気分なんだ。ここに入るくらいなら霧の中を彷徨っていた先程までの方が幸せだったんじゃないか、思わずそう思ってしまうような……」


 彼がそう言うと伊佐は一瞬固まった。しかしすぐに笑い出した。


「プッ、ハハハ、さすがは小説家の先生だな。例えがロマンティックというかなんというか」


「冗談で言っているんじゃない。訳がわからなすぎて気味が悪いんだよ」


「わかった、わかった。焦るな。少しずつって言っただろう? まずは俺の仕事をさせてくれ。念のためにこちらから幾つか記憶の確認をさせてもらう。慌てないでゆっくり答えてくれ」


「わかった」


「じゃあ、まず名前は?」


「馬鹿にしているのか? 岡澤功、三十二歳、仕事は物書きだ」


「名前だけで良かったのに。慌てるなって言っただろう? 医者の言うことは聞いてくれ」


「そういえば、おまえ、本当に医者になったんだな。高校の時は俺より成績悪かったくせにさ。信じられないよ。どんなトリックを使った?」


「人聞きが悪いな。浪人中に死ぬ気で勉強したんだよ。それより無駄口叩くな。家族構成は?」


「両親とも病気でもう亡くなった。元々兄弟は居ないし結婚もしてないから今は独りだよ」


「そうか。後は……、そうだな、高校の時のことで覚えていることを話してみてくれ」


「全部ちゃんと覚えているよ。だからこうしておまえとタメ口で話しているんだ。伊佐秀一、三年間同じクラスだっただろ? お互い家が離れていたから遊んだ記憶はあんまりねえけど学校にいる間は他の奴と一緒にくだらない話でいつも盛り上がっていたじゃねえか」


「一番くだらない話をしていたのはおまえだよ。俺たちはどっちかというと聞き役だった」


「そうだったかな? でも今になってみると楽しかったな。部活も勉強も中途半端で何かを成し遂げたりは出来なかったけど。あれが青春って奴だったのかな?」


「まあ、その話は後でゆっくりやろうや。一応確認ってことで高校を卒業した後から今までのこともかい摘んで教えてくれないか?」


「あ、ああ、いいけど……。おまえは確か大学落ちて浪人するって言っていたよな? 俺は高校在学中に親父が病気で働けなくなっちまってたから進学は諦めて卒業後すぐに働き始めたんだ。でも夢を捨て切れなくてさ。おまえにも話したことがあっただろ? 小説家になりたいって」


「ああ、言っていたな」


「だから働きながらなりふり構わず色んな小説の賞に応募したんだ。その間に親父が死んで、でも全然賞なんて取れなくてさ。半分諦め掛けていた。そうしたらある賞の審査員をしていた相浦作三郎が俺の作品を眼に留めてくれて特別賞ってのをくれたんだ。大賞を与えるほどの完成度はないが磨けば光る才能がありそうだって。その頃、丁度母親も父親の後に付いて行くように死んだ所だったから俺は思い切って東京に出てきた。『身寄りがない』って言ったら相浦先生が公私共に色々世話を焼いてくれてさ。苦労したけど何とか今も小説家を続けている。……まあ、こんなところかな?」


「相浦作三郎と喧嘩別れしたっていうのは本当なのか?」


 功の顔が僅かにぴくりと引き攣った。あまり触れられたくない話題だった。


「なんだかんだ噂が立っていることは知っている。でも俺は本当に先生に感謝しているんだよ。十年近くも親同然の存在だった。だから喧嘩別れなんてことはない。言ってみれば卒業みたいなもので……」


「それは本音か? 作三郎が『出版できるレベルに達していない』と酷評したおまえの作品を、納得できないおまえが出版社の人間にこっそり見せて出版が決まり、しかもそれが思った以上に売れてしまったもんで師弟の仲が決定的に壊れたと週刊誌に書いてあったが」


「そ、そんな話はおまえに関係ないだろ? 問診の範疇を越えてんじゃねえか?」


「関係ある。『ンダッヴァ』って奴はまだ発見されてから日が浅い。まだまだ未知の部分が多いんだ。お前はこうして運良く意識を取り戻したが、今後どんな影響、後遺症が現れるか誰にもわからない。だからこうしてお前の記憶を第三者の証言と客観的に比較してみているんだよ。そのためには良いことも悪いことも区別せずに聞かないといけない。人間って奴は悪いことがあるとどうしても現実逃避する傾向がある。その傾向が強いようなら『ンダッヴァ』の影響をおまえが強く受け過ぎている恐れがあるから……」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。昨日から『ンダッヴァ』と言っているのはいったい何なんだ?」


 功は当然の疑問を口にした。


「おっと、悪い。そういえばその話はまだだったな。慌てるなと言っておきながら俺の方が先走ってしまった。改めて順序良くいこう。あの選考会について覚えているか?」


「あ、ああ、もちろん覚えているよ。あれは『小説GR大賞』という文学賞の最終選考会だった。小説GRってのはその名のとおりゴールデンルーキー、つまり次世代の小説家を見つけて育てていこうという主旨の月刊の小説誌で相浦先生は発起人であり顧問という立場なんだ。そのため選考委員は先生本人と先生に縁の深い若手作家四人で務めていた。俺も含めてみんな先生の弟子のような奴らさ」


「うん、それで当日のことは?」


「ああ、まあ、正直に言えば俺は朝から気が重かった。お前が言ったとおり俺と先生は決別したばかりだったからな。俺は選考委員なんてもう辞めるつもりだったけど代わりがすぐには見つからないって編集者に説得されて仕方なく出席したんだ。それが終わったらちゃんと相浦先生に謝って、それで今年を最後に選考委員から降りようと思っていた」


「そうか。それで?」


「えーと、選考会が始まって一時間くらい経った頃だったかな? 五人の委員がそれぞれ別の作品を推していて膠着状態が続いていた、まさにその時、突然会議室のドアが開いて初めて見る男が入ってきた。眼が血走っていて明らかに普通じゃなかった。『おまえらは能無しだ』とか『俺の偉大な作品が』とか叫んでいたな。相手が不審者だと気付いた編集者の一人が取り押さえようと立ち上がった瞬間、男が懐から丸めた新聞紙を取り出してライターで火を点けたんだ。油でも含ませていたのか、あっと言う間に燃え上がってすごい煙が出た。俺は逃げようと立ち上がったんだが、何故か急に意識が遠くなってしまって……。それから先のことはわからない」


「うむ、俺の調査結果と同じだ。記憶は正常なようだな」


「なあ、いったい何が起きたんだ? さっきから記憶がどうとか心配しているようだが。そろそろ教えてくれよ。俺たちはいったい何をされたんだ?」


「そうだな。お前が意識を無くしてから一週間経っているからその間に色々わかったことがある。そこから説明しよう。まず乱入してきた男の名は坂成泰三、歳は三十三歳、無職の男だ」


 功は首を傾げた。全く聞いたことがない名だった。


「おまえが知らないのも無理は無い。こいつは五人の選考委員にも編集者たちにも面識は全くない。まあ、ひょっとしたら名前を聞けば朧気に思い出す人間もいたかもしれないが」


「いったいどんな奴なんだ?」


「坂成は小説家志望の男で小説GR大賞の常連投稿者だったらしい。第一回から毎年欠かさず応募していたそうだ。小説家になる夢を叶えるために勤めていた会社を数年前に辞めて実家で世話になりながら他の文学賞にも手当たり次第応募していたようだな。ただ入賞は疎か最終候補にも残ったことはなかったらしい。一次通過が数回程度、普通の人間なら自分に才能はないと諦めて別の仕事を探すか、取り敢えず仕事をしながら改めて小説を書く力をつけようと考えるかのどちらかだろう。しかし坂成はそう考えなかった。自分の作品はベストセラーになる力が充分にある。選ばれないのは選ぶ側の力が足りないせいだと逆恨みしやがったんだ」


「ああ、なるほど、確かにそういう奴はいるんだ。大賞が決まった後に電話を掛けてきて『俺の作品は本当に読んだのか?』とか『あんな作品が自分の作品より優れているとは思えない。八百長だろう』なんていちゃもんを平気で付けてくるんだ」


「坂成はクレーム電話どころでは済まなかった。彼はだいぶ病んでいたんだよ。なにしろ計画はすでに一年も前から始まっていたんだからな」


「一年前?」


「ああ。一年前、本好社の社員の一人がある飲み屋で見知らぬ男に話し掛けられた。次第に意気投合した二人はその店でたびたび一緒になり親交を深めた。するとある日、男が出版社というものに興味があるから一度見学させてくれないかと頼んできたそうだ。普通は断るところだが、その社員って奴は少し金にだらしない性格で男からも飲み代として金を借りていたらしいんだ。それで断りきれなくなった。その男は自分の都合の良い日を指定してきたそうだ。そしてその日はまさに選考会の日だった」


「その男が坂成か。じゃあ、ずっと前から計画済みだったのか、あの騒ぎは」


「あの日、坂成は受付で友人となった社員を呼び出し迎えに来てもらって難なく本好社の中に潜り込んだ。だが途中で腹が痛いと言い出してトイレに向かったそうだ。もちろん社員はトイレの近くで待っていた。ところが何時まで経っても男は出て来なかった。おかしいと思って社員がトイレの中を探しても見つからなかったんだ。後でわかったことだが坂成は背負っていたナップザックに女装用の『かつら』と『ワンピース』を隠し持っていたんだ」


「なんて奴だ。そこまでやったのか」


 なぜその執念を作品に活かせなかったんだ? そう思い、功はぎゅっと拳を握った。


「女装をして社員の眼を誤魔化し、まんまと潜入に成功した坂成は君たちが選考会を行っていた会議室を探し当て、そこに突入したわけだ。そして彼が取り出した新聞紙には『ンダッヴァ』が染み込ませてあった」


「染み込ませて、ってことは『ンダッヴァ』というのは何かの液体なのか?」


「アマゾンの奥地に生息している鼠の仲間が天敵に襲われた際に威嚇として噴出するガス状の液でな。スカンクをイメージしてもらえればわかりやすいだろう。そしてこのガスにはなぜか霊長類に対して強い幻覚作用があるんだよ。そのためアマゾン奥地に住む先住民族が代々精霊と交信するという宗教的儀式の際に使っていたという代物なのさ」


「幻覚作用……」


「坂成は大学生の頃に留学していたことがあり、その時に手に入れたらしい。これは推測だが留学先に都会へ出てきた先住民族出身の友達でもいたんじゃないかな? 何しろ『ンダッヴァ』は研究が始まったばかりでその存在を知るものは少ないからね」


「確かに『ンダッヴァ』なんて初めて聞いたよ。そんな変な物を俺たちは吸わされたのか……。おい、なんか急に心配になってきたよ。俺、本当にもう大丈夫なのか?」


「ンダッヴァが厄介なのは人間が吸い込むと確実に意識を失ってしまうこと、そしてそこから目が覚めるまで幻覚状態が続くことなんだ。おまえはそれを乗り越えた。だからもう大丈夫だよ」


「幻覚? 寝ている間に見ていた夢のことか?」


「夢なんて可愛いもんじゃないさ。おそらくおまえも体験したんじゃないか? おまえは意識がない間、自分のことを自分だと認識できていたか? どうだ?」


 功はぎくりとした。


 そうだ、俺は昨日まで確かに「須田大樹」だった。


 自分が須田大樹であることにもマンドレイク農家という現実ではあり得ない立場にいたことにも何の疑問も持っていなかった。微塵に疑いさえしなかったのだ。


 自分が本当は岡澤功という人間であり小説家であることも忘れていたし、須田大樹というのが架空の人物、小説GR大賞の最終候補作の一つ「マンドレイク村おこし騒乱記」の主人公の名であることも全く覚えていなかった。


 あの村で源三や春香、「にんじん」と過ごした日々はとても幻覚だったとは思えない。五感もはっきり感じていた。あれは現実だった。


「……どうもその様子だと『向こう』で色々あったようだな。研究は始まったばかりだが学者たちは『ンダッヴァ』にこう別名を付けている、『アナザーワールド・ドア』と」


「別世界への扉、か。あれが幻、ただの夢だったっていうのか? でも、そうだよな、当たり前だよな、マンドレイクなんてものが現実にいるわけはない。今ならそう言える。でもあの時は……」


「混乱するのも無理は無い。ンダッヴァは脳を完全に騙してしまうからな。ンダッヴァのガスを吸い込んだ瞬間なぜか脳は目の前の現実をシャットアウト、遮断してしまう。そして代わりに脳内にあった最も新しい記憶を現実として認識してしまうんだ。いわば究極の現実逃避だな。外部の人間から見れば突然倒れて意識不明の状態になったようにしか見えないが本人は自分の脳が創り出した別の世界で時には本来の自分を失い、全く別の人間になりきっているというわけだ。なぜこんなことが起きるのか、メカニズムはまだわかっていないがね」


「あの事件の直前まで俺は選考委員として五つの候補作を読んでいた。その中でも『マンドレイク村おこし騒乱記』という作品に光るものを感じて大賞候補として推していたんだ。俺がいたのはまさにその世界だった。主人公の須田大樹という青年に完全になりきっていたんだ。でも急にその風景が揺らぎ出して……」


「ンダッヴァの効果が切れてきたんだな。君は思ったほど煙を吸っていなかったんだろう。運が良かったんだよ。死ぬまでベッドで夢の中という可能性もあったんだぞ?」


 それを聞き、改めて功は寒気を覚えた。空想の世界を現実と信じて自分が自分であったことさえ忘れてしまう。単なる記憶喪失より遥かに恐ろしいことだった。


「しかし安心して良い。俺の知っている限り一度意識を取り戻すことが出来ればひと安心だ。脳が現実を再認識出来れば二度と意識を失ったりしない」


「それを聞いて安心したよ。そうだ、そういえば伊佐、おまえ何でそんなに『ンダッヴァ』って奴に詳しいんだ?」


「こう見えて俺は日本で唯一と言っていい『ンダッヴァ研究者』なんだよ。留学中に大学で偶然ンダッヴァのことを知ってな、面白そうだったから一生の研究テーマとしたんだ。普段は海外を跳び回っているんだが、たまたま日本にいる時に警察から連絡があってさ。ある事件が起きて多数の意識不明者が出ている、ひょっとしたら先生のご専門の『ンダッヴァ』というものかもしれないってな。まさか、日本で、しかも同級生のおまえの治療に引っ張り出されるとは思わなかったよ」


「ちょ、ちょっと待て。今、『多数の意識不明者』って言わなかったか?」


「あ、ああ、そうか、その辺のことはまだ説明していなかったな。実はあの事件で君を含めた十名が一時意識不明になった。意識が戻ったのは君を含めて五名。残りの四名にはまだ必死の治療を続けて……」


「待て、計算が合わないぞ? 九人にしかならないじゃないか」


「ああ、実はな、言い難いことだが、残念ながら一人亡くなられたんだ」


「亡くなった? そんな、だって俺はこうして……」


「だから運が良いと言ったんだ。ンダッヴァが本当に恐ろしいのはそこなんだよ。意識を失い空想の世界に迷い込んだ人間はそこを現実だと認識する。そこで現実世界では体験しないような、精神が耐えられないほどの恐ろしい出来事が起きた場合、現実世界にある実際の体にも影響が出てしまうことがある。最悪の場合、脳機能や心肺機能が止まり死ぬこともあるんだ」


「そんな……。おい、誰なんだ、亡くなったのは?」


「上竹吾郎という人だ。君が意識を取り戻す少し前のことだった」


 上竹が!? 功は信じられなかった。上竹吾郎は運動嫌いの功とは違い、常にジムでトレーニングを欠かさないような男だった。体だけではなく神経も図太い奴で幻覚のせいで死ぬようなタイプとはとても思えなかった。


「あいつが? そんな馬鹿な……。そ、それじゃあ、意識が戻った人間とまだ意識が戻らない人間というのは誰なんだ?」


「お前以外で意識が戻ったのは出版社に勤めているいわゆる編集者の方々だ。多少の個人差はあったがみんな二、三日で回復した。意識が戻っていないのは事件を起こした坂成本人と他の作家先生、えーと、相浦作三郎、菊嶋美花、源後朋美の三人だな」


「そ、そんな……。俺以外はまだみんな意識が戻っていないっていうのか。それに犯人本人も?」


「坂成は火を点けた張本人だからな。煙を一番多量に吸い込んでしまったんだ。かなりやばい状態で一命を取り留めたとしても植物状態になるかもしれん」


「畜生、勝手な奴だ! 他のみんなの状態は? どのくらい悪いんだ? まさか上竹みたいに……」


「正直、今はなんとも言えない。小説家という奴はたぶん人より想像力に優れている人間だろう? それはンダッヴァの持つ幻覚作用を強めてしまうようなんだ。彼らの頭の中で創り上げられている空想世界が現実的であればあるほど意識は戻りにくい。それに意識が戻らない期間が長ければ長いほど死の危険性は高くなると言わざるを得ない」


「何とかならないのか? こっちから呼びかけるとか、無理やり起こすとか」


「無駄だよ。こうなってしまうとこちらとしては見守ることしかできない。脳内世界に残ったまま死を迎えるか、全てが幻想だと気付いてこちらに戻ってくるか、それは本人次第なんだ」


「くそっ! なんてことだ。上竹は……、あいつは結局最後までこっちに戻ること無く死んだのか?」


「わからない。実は彼は死ぬ前に一度だが突然目を見開いたんだ。その時は意識が戻ったのかと思ったんだが、呻き声のようなものを上げた途端、がくっと彼は力尽きてしまった」


「呻き声?」


「ああ。そう、まるでカエルが潰されたような声だったよ」





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