第80話デル老師

「ようこそ、勇者ヴェルド君。歓迎したいけど、今は両手がふさがっていてね。少し待ってもらえないかな? もうすぐ済むから。そうしたら、すぐに退散するよ。さっき迷ったままでいれば、お互い挨拶もしなくて済んだのだけどね。とても残念だよ」

扉を開けた途端、異様な光景が飛び込んできた。思わず桔梗キキョウに手が伸びる。


この部屋には、この魔導書庫にあるどの部屋よりもたくさんの本があった。

窓は一切つくられていない。しかし、魔法の明かりがしっかりと部屋を照らしていた。


壁という壁には、天井まである本棚が備え付けられており、そこにはたくさんの書物が並べられていた。

本棚に並べられない物は、床の上に山積みされている。

普段ならおそらく足の踏み場も限られるであろうことは、これまで見てきた、似たような部屋を思い出せば考えられる。


しかし、ここは今、そうではなかった。

そこに何者かがいきなり現れたことによって、一気に書物が周りに吹き飛んだように、乱雑に散らばっていた。


その中心に、強い力を持った魔物がいた。


下半身が大蛇で上半身が人間の魔物がハーフエルフの若者の首筋にかみついている。さっきは話すために、一度口を離したのだろう。元々かみついていたところから、血が床に滴り落ちていた。


「ナーガ族だよ、ヴェルド君。しかも、かなり強いよ。気を付けて」

優育ひなり達が一斉に私たちを守るべく、それぞれが行動を開始しようとしていた。

桔梗キキョウの柄を握る手に、自然と力がこもる。


本は傷つけることはできない。

でも、ここは能力を使って突進していくべきだろう。


後ろにルキがいる以上、直線上の犠牲はやむを得ない……。


しかし、ナーガ族の男は、片手をあげてその意思がないことを示していた。しかし、その間もエルフの若者の血は吸われているようだった。

エルフの若者から、小さなうめき声が漏れていた。


「ナーガ族の者! 一体ここで何をしている! 氷華ひょうか!」

ルキを背中に隠したまま、氷華ひょうかに声をかける。

氷華ひょうかは私の意図を汲んで、ルキの周囲に氷の壁を展開した。


エルフの若者。おそらくあれが、デル老師だ。

その顔は生気をすでに失っているが、まだかろうじて生きている。


ただ、その顔。

どこかで見た顔だと思ったら、あのディーナさんにそっくりだった。

まさか、そういうことなのか……?

あの時のディーナさんの顔は、そういう意味だったのか?


「あれ? 戦う気がないって言ったのが通じなかったのかい? 勇者という奴は、どいつもこいつも好戦的で困るな。今君と戦ったら、僕が神様に怒られちゃうよ。いずれは戦うかもしれないけど、それまではその命を大事にしないとね。知識も、力も、時も、場所も、正しく使わなきゃ、『たからのもちぐされ』になっちゃうよ? この男みたいにね」

血を吸い終わったのだろうか? いきなりデル老師を投げつけてきた。

まだ、息がある。でも、このままだと衝撃で死にかねない。


鈴音すずねの力で、優しく包む。


「ふーん、熟成した剣士ソードマンは、たしかに厄介だね。正直、ここじゃあ力が出せない分、ちょっと分が悪いかな。でも、勇者であるヴェルド君も分かってるかな? 今ここは、君が力を使っていい場所じゃない。本来、この場所にだって、君は来てはいけないんだよ? そこのとこ、君は理解しているかい? 今の君は、偶然とはいえルールから外れた駒なんだよ? ああ、いけない! あまりおしゃべりだと、僕が神様から怒られちゃうね! じゃあ、ヴェルド君。あまりうろうろして、神々の怒りを招かないようにね。まあ、多分うろうろは見逃してくれるかな? 神々もちょっと飽きてきているからね。 ただ、力はまずいよ? この忠告は、君が知りたいことをとった、お詫びと思ってくれよ。ふふ、僕らは親切なのさ。いいかい? 親切な僕は、それだけは忠告しておくよ! まあ、僕が吹き飛ばしてなければ、ここの本のどこかにあるかもしれないね。消えない魔王斑のこと。この男の知識がそう言ってるよ。ああそうだ、ついでにこの男の知識が、この部屋の本をここから出すときには注意が必要だと告げてるね。盗難防止の仕組みが、この部屋に仕組まれているらしい。所定の手続きを踏まないと、本自体に帰還の魔法が働いて、この部屋に戻るらしいね。まあ、魔導図書館の本はみんなそうだろうけど、ここのはその扉を出た瞬間に発動するようだよ。ああ、所定の手続きは、さっき戦いかけた時に流れた血に含まれてたんじゃないかなぁ。僕も分かんないや、残念だね」

不敵な笑みを浮かべたナーガ族の男の周りに、魔法陣が展開されていた。

さらに多くの書物が、その発動時に吹き飛ばされていく。


辺り一面、本が散乱していく中、笑顔でナーガ族の男が手を振っていた。


「じゃあ、またね! そうそう、外の戦いはすでに始まってるからね。急がないとダメだよ。早く見つけられるように、僕の神様に祈ってあげるよ!」

その瞬間、魔法陣から光がナーガ族の男を包み込む。ただ、その唇の動きは、ある言葉を形にしていた。

私がそれを理解しようがすまいが関係ない。最後に笑ったあの男の顔は、そう言いたげだった。


「くそ!」

ままならない想いが、思わず床を叩かせていた。


最後の最後、その言葉を耳にすることはできなかった。でも、分かる。

あの男は確かにそう告げていた。


それの意味を理解できないはずがない。


「今、そなたにはすべきことがある。それは、この者から話を聞くことだ。急げ、この男はもうもたん!」

鈴音すずねの言葉で我に返る。


そうだ。今は焦っても仕方がない。


何でも一人でできるわけじゃないんだ。


今は信じよう。

そうすることで、私はこの場所に来ることを選んだのだから……。


「デル老師! 消えない魔王斑のことについて書かれた書物はどのあたりにある! ディーナさんに伝えることは!」

デル老師の瞳に、ほんの一瞬だけ輝きが戻っていた。


震えながら、なんとか老師が指し示す先は、まだ無事に近い本棚だった。

それと共に、声にならない言葉を聞いた。


力なく、たどたどしい。

でも、最後の笑顔は、その言葉に力を与えていた。


「デル老師。あなたの言葉、確かに預かりました」

まだ魂はここにあるだろう。


安心させるように、デル老師を床に寝かせて言葉をかける。

デル老師の両手を胸に合わせて、私も両手を合わせて拝んだ。

この人のことを知っているわけではない。でも、この人と関係ある人のことを思うと、胸が痛んだ。


哀悼の意は、どの世界でも同じだろう。

そして、どれだけ強くなろうとも、死の痛みは慣れるものじゃなかった。


「なに? なにがあったの? この人!? この人が……?」

氷華ひょうかが解除した氷の壁からルキが姿を現し、混乱した様子ながら、同じように手を合わせていた。

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