第2話、追憶のかけら
階段は、4階を越えると、壁の色がグレーから白へと変わる。
5階には、特別教室と音楽室しかない。
授業がある生徒しか足を運ばない為、あまり掃除も行き届いていないのは、あの頃と同じだ。
廊下の隅には、紙くずやジュースの空きパックが落ちており、ホコリも、うっすらと溜まっている。
・・・ここを歩くのは、卒業以来だ。
懐かしさに心を満たしつつ、杏子は部室へと足を運んだ。
音楽室の隣にある、かつての旧視聴覚室・・・
体育館とは別に、新しく講堂が完成して不要となった視聴覚室を、吹奏楽部の部室としたのは、杏子が新入生として入学した年の事だった。 入り口のドアの上に、『 吹奏楽部 』と書いた真新しい表札を、当時の部長が嬉しそうに掲げていた記憶が懐かしい。
階段を上がり切り、5階に着く。
正面の窓ガラスに張ってある『 吹奏楽部員募集中 』の張り紙が、目に止まった。 先程、4階の廊下で見かけたものと同じ、手書きのポスターだ。 コピーではない。 文字の筆跡は同じだが、イラストが微妙に違う。
・・・心意気は良く伝わって来るのだが、状況を知る杏子にとっては、どこか悲壮感が漂うようで、心悲しくもある。
部室のドアの前まで来て、杏子は立ち止まった。
幾分、薄汚れてはいるが、当時のままだ。 あの表札も、変わらず掲げてある。
『 あ、杏子。 ごめん、今日、用事( アルバイト )なのよ。 譜面は用意しておいたから、あとよろしくっ! 』
ドアを開けて飛び出して来た、あの頃の友の記憶が、杏子の脳裏に甦る。
杏子は、高田から渡された鍵の束を出すと、躊躇する事なく、その中から1つの鍵を選び出し、ドアを開けた。
( ・・意外と覚えてるものね )
部室の中に入る。
入ると左右にドアがあり、左は合奏室のドア、右は準備室のドアで、楽器倉庫兼、部室になっていたはずである。
杏子は、準備室のドアを開けた。
打楽器や譜面台などが、当時と変わらず、所狭しと置いてある。
独特の匂いに、杏子は深呼吸をした。
「 懐かしい・・・ 」
ティンパニのケトル内のような匂い、バルブオイルの匂い、ポリッシュの匂い・・・
『 おい、アンコ! なんでお前、リップスラー、そんなにヘタなんだよっ 』
先輩の声が聴こえたような気がした。
「 ・・ここで過ごした3年間が、あたしの青春だったんだなあ・・・ 」
杏子は、ポツリと独り言を呟いた。
取っ手が片方壊れた、グレーの事務ロッカーを開ける。
古い楽譜が何冊もあった。
『 原譜は必ず返すのよ? 持ち帰っちゃ、ダメ 』
パートリーダーで、楽譜管理の係りをしていた先輩の声が甦る。
( そういえば、あの先輩・・ 大学の時に、交通事故で亡くなったんだっけ・・・ )
杏子は、足元に落ちていた1枚の楽譜を拾い上げた。 吹奏楽部の、赤い部印が押してある。 踏まれてシワになり、汚れてはいるが、原譜である。
「 ・・ホルスト作曲、第3組曲、第1楽章『 インターメッツォ 』・・・ 」
ファースト・トランペットの譜面である。
杏子は、ポケットからハンカチを出すと、その楽譜の汚れを拭いた。 傍らにあった机の上に置き、手でシワを伸ばす。
机の下にも、楽譜が落ちている。 何枚もの楽譜で構成される大曲の、1部の譜面らしい。 ヘッダーには、バス・クラリネットとあった。
その他、見かける床、棚の上・・ いたるところに譜面が散乱している。 ほとんどが古い原譜だ。 杏子は、それをすべて拾い集め、シワを伸ばし、汚れを拭いた。 ボールペンで、漫画が描いてある原譜もあった。 破れてしまい、もう譜面としては機能を果たさないものも多い。
杏子は、窓際に置かれた机の、上から2段目の引出しを開けた。 当時と同じように、そこには事務用小物が入っていた。
杏子は、スティックのりと、ハサミを取り出し、落ちていた白い紙袋を拾うと、それを1センチくらいの幅の帯状に切り始めた。 それにのりを付け、破れた楽譜の裏から貼っていく。
『 破れた楽譜はね、こうして貼るのよ? セロハンテープで貼ると、粘着成分が染み出して、何年か先の後輩たちが読めなくなっちゃうから 』
再び、あの先輩の声が甦った。
事故で、この世を去った先輩。 あの頃、未来の後輩たちの為に、大切に整理していた楽譜の無残な姿・・・
当時を知らない今の部員を責める事は出来ない。 しかし、譜面の扱いは、活動に関わる全てに通じるものである。
譜面の補修を続ける杏子の手の上に、ポタリと雫が落ちた。
「 ・・・センパイ、ごめんなさい。 原譜、こんなにしちゃった・・・! ごめんなさい・・ 」
涙を拭きながら、杏子は、黙々と譜面の補修を続けた。
ふと目をやると、エチュードが乗ったまま立ててある譜面台がある事に気付いた。 イスも1つ、その前に置いてある。
( 沢井さんが、ここで練習してるんだわ・・・ )
杏子は、手の甲と指先で涙を払うと、譜面台に歩み寄り、その練習曲集の表紙を見てみた。
( ファースト・ディビジョン・・・! )
今時、こんな古風な教本で練習しているのも珍しい。 おそらく、この部には、これしかなかったのだろう。 当時、あまり基礎練習をしなかった杏子には、エチュードがこの部に存在したという記憶がない。
( こりゃ、何とかしなくちゃ・・・ )
芸大時代に使っていた『 アーバン 』を、とりあえず持って来ようと杏子は思った。
楽器戸棚に目をやると、今はもう、吹き手を失った楽器が、幾つも並んでホコリを被っている。 ケースが壊れて廃棄したのか、裸のままホコリまみれになっているアルトサックスもあった。
『 アンコ! 楽器磨くより、ウデ磨け! 』
先程とは違う、別の先輩の声が甦って来た。
無機質な静物となった楽器・・・
ただ、ただ、静かに、過ぎ去る時と一体となり、棚に鎮座している・・・
この部室自体が、時から隔離され、止まった時間と共に、世俗から封印されているかのようだ。
( 私の青春も、この部室の楽器たちのように、もう過去の物なのかな・・・ )
楽譜補修をしながら、何か、寂しさを感じ入る杏子だった。
しばらくして杏子は、楽譜補修の手をひと休みし、気分転換も兼ねて、手近にあったトランペットのケースを1つ出した。
「 うっひゃあ~、なにコレ・・・! 」
蓋を開け、中の楽器を見た杏子は、思わず声を出した。
メッキは、ほとんど剥げている。 それだけなら、ある程度は覚悟していた。
何と、その楽器はバラバラに分解されていたのである。 主管・抜き差し管は言うまでもなく、ピストンの押し金からウォーターキー、スピルに至るまで、とにかくバラバラである。 ナゼか、クラリネットのベルまで入っている。
( きっと、文化祭の時に、分解展示物として使って、そのままなんだわ・・ )
見なかった事にして蓋を閉め、その隣にあるもう1台のトランペットを出した。
相変わらずオンボロではあるが、分解はされていない。 欠損個所もなさそうで・・ と思って手にした途端、ウォーターキーがプラプラしている事に気が付いた。
ため息をつきながら杏子は、先程の小物入れの引出しからセロハンテープを出し、応急的に、キーを貼り付けた。
ピストンを押してみたが、すべて固着している。
「 ・・やっぱし・・ 」
カサカサに乾いたピストンを何とか抜き、ケースに入っていた変色したオイルを注す。
いざ、マウスパイプから息を入れてみたが、まったく入らない。
「 そう来ましたか・・・ 」
もう1度、ピストンを抜いて番号を見ると、1番と3番が入れ間違っていた。
シャンクが潰れて、三日月形になったマウスピースを差し込み、息を入れてみる。
とりあえず、音は出た。
「 ・・っしゃあ・・! 1発、イキますか・・・! 」
杏子は、先程、シワを伸ばしたホルストの譜面を窓枠に立て掛けた。 オンボロの楽器を脇に構え、背筋を伸ばして立つと、前に向かって言った。
「 16番、青雲学園高等学校・・・! 課題曲C。 自由曲、ホルスト作曲・吹奏楽のための組曲・第3番。 指揮、宮田 幸弘・・! 」
おもむろに楽器を構え、深く一息を吸うと、冒頭のファンファーレを高らかに吹奏した。
廊下のコンクリートの壁に音が反響し、追憶の想いを載せた杏子の音色は、学校中に響き渡る。
職員室では高田が天井を仰ぎ、校庭では活動中の運動部員が、聴いた事のない張りのある音色に、校舎の方を振り向いていた。
やがて、吹き終わった杏子は大きな息をついた。
「 ふう~っ・・ やっぱ、コレ・・ 難しいなあ・・・! 」
後ろから、パチパチと拍手が聴こえる。
振り向くと、ドアの所に1人の女生徒が立っていた。
ボブ風にカットした前髪に、セミロングでストレートの黒髪。 少々、ぽっちゃりした体形の女生徒である。 小脇に紙パックのジュースを抱え、目をまん丸にして拍手をしている。
「 すごい、すごいっ・・! それ、ホルスト第3のファンファーレですよね? よく、そんなの吹けますねえ! 」
「 あなた、部員の人? 」
杏子は、マウスピースを抜きながら尋ねた。
「 え? あ、はい。 神田です 」
「 神田、神田・・ と 」
高田から渡されていた部員名簿に、名前を探す杏子。
「 ・・あの、OGの方ですか? 」
「 そうよ。 ついでに今日から、副顧問にされちゃった。 ・・あ、あった。 神田 美紀さんね。トロンボーンか・・・ 」
「 あ、そうか、新任の音楽の先生ね? へえ~、この学校の出身なんだ。 あ、恵子・・ 」
メガネをかけた女生徒が1人、息を切らせてやって来た。
「 ちょっと・・ 誰っ? 誰が、吹いてるのっ・・? 」
「 恵子、今日は委員会じゃなかったの? 」
「 そんなん、抜けて来たよ。 ・・あ、コンチワ・・・ 」
シャギーっぽく、ラフなカットのフロントに、フチなしメガネがよく似合っている。 首筋くらいまでの長さの髪で、知的な雰囲気を感じさせるルックスの女生徒である。
楽器をケースに戻しながら、杏子は尋ねた。
「 部長の沢井さんって、あなたね? 初めまして、音楽の鹿島 杏子です 」
「 副顧問やってくれるんだって 」
ストローでジュースを吸いながら、神田は言った。
「 え? あ・・ ありがとうございます。 宜しくお願いします。 あの・・ でも・・ 」
何か言いた気な沢井の口調を察し、杏子が答えた。
「 部の状況は、高田先生から聞いてるわ。 ま、この部室の状態を見れば分かるけどね・・・ 」
もう1人、誰かが廊下を走って来る足音が聞こえる。
「 ねえねえ、誰っ? 今、吹いてたの・・! 」
ショートヘアで、少し、髪を茶色に染め、活発そうな性格が感じられる、その生徒。 部室内に杏子を見つけると、警戒するような表情で、無言の挨拶をした。
沢井が、代わりに紹介をする。
「 パーカッションの杉浦 加奈です 」
「 お~、活動部員の3人が揃ったわね。 タイムリーだわ。 沢井さん、申しわけないけど、明日、部員全員に召集をかけて。 ミーティングを開くから・・・ とりあえず、幽霊さんたちにも、話しは伝えてね? 」
杏子は、部員名簿を沢井の方に向け、青いマーカーの辺りを指しながら言った。
「 あ、はい。 分かりました。 でも、明日、都合の悪い人は・・ 」
「 都合の悪い人は、その都合内容を聞いておいて。 別に、答えたくないのなら、ノーコメントでもいいわ 」
「 分かりました。 それで・・ 何をミーティングするんですか? 」
杏子は、楽器を元の棚に戻しながら答えた。
「 決まってんじゃない! 新生、吹奏楽部を立ち上げる気が、あるのか、無いのかよ・・! 今みたいな中途半端じゃ、存続してても意味がないわ 」
手に付いたホコリを払いながら、杏子は続けた。
「 やる気のない子は名簿から削除し、退部してもらいます! ある子が集まっても、10人以下なら存続は無理ね・・・ あたしがこんな部、ぶっ潰してあげるわ! こんなの・・ あたしや、先輩たちが築いてきた吹奏楽部じゃないっ! 」
思いもよらない杏子の激しい言動に、3人はシーンとなった。
「 ・・たった2日間の副顧問になりそうね。 高田先生には申しわけないけど・・ 栄光の記憶の末路なんて、見たくなんかないわ・・! 」
鍵の束を出し、固まっている3人に近付く。
「 部室、閉めるわよ。 今日はもう、誰も来ないでしょ? 沢井さんも委員会に戻って 」
杏子は、神田が手にしているジュースを見ながら、付け加えた。
「 ここは休憩室じゃないわよ・・? 大切な譜面が保管してある場所に、そんなもの持ち込まないで 」
慌てて神田は、ジュースのパックを、体の後ろへ隠した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます