メリー・メリーゴーランド。
プロキシマ
メリー・メリーゴーランド
その日、私は一度も右手の温もりを離さないようにしたのだ。
ソフトクリームを買い与えてやったが、あまり喜ばなかった。
子どもなら、そんなとき喜んだ顔を見せるのがふつうだと思っていた。
どこに行きたい、
なにに乗りたい、
という要望は一度もなく、
ただまわりの景色と一緒に過ぎていくアトラクションの数々を、
ひとつも乗らずに、流しているだけだった。
ちょうどお昼ごはん時だったので、
私は右手の温もりに、今日は何が食べたいのか、
といったような趣旨の質問をした。
何でもいい、という答えが返ってくるのは分かっていたが、
そもそも、何の答えも返ってこなかった。
だから、そのまま景色と一緒に過ぎていくアトラクションの数々を、
ひとつも乗らずに、流しているだけだった。
どこかで、子どもの泣き声が聞こえた。
きっと、親とはぐれてしまったのだろう。
だから、こうして右手の温もりを離さないようにしていないといけないのだ。
一人で行動しようとするから、そういうことになる。
どれだけ、これだけたくさんのアトラクションを楽しみたいと思っても、
見守ってくれる存在がいなければ、何もできないのだ。
弱い、弱い、弱すぎる、存在。
だから、こうやって景色と一緒に流れていくアトラクションの数々を、
ひとつも乗らずに、流しているだけだった。
もう一度、右手の温もりを確かめてみた。
確かに、温もりはそこにあった。
そして、さっきとは違って、何かを訴えかけられているような気がした。
珍しいことに、少し握り方が強くなっているのだ。
だから、さっきと同じ質問をしてみた。
でも、
何か言いたそうに、目をしばたかせるだけで、
どこに行きたい、
なにに行きたい、
と、口にすることはなかった。
アトラクションと言えば、
おなじみの、ジェットコースター。
目が回る、コーヒーカップ。
景色を一望できる、観覧車。
そして、
私の大嫌いな、
メリーゴーランド。
それに、今日は寒い。
こんな寒い中で、誰があんなものに好き好んで乗りたがるのだろう。
ふと楽しげな声がして、まわりを見渡してみると、
さっき迷子になって、
泣きわめいていた子どもが、
誰かと一緒に、メリーゴーランドに乗っていた。
視界に入れたくもなかった。
視界に、入れさせたくなかった。
私はその前を、できるだけ早く通り過ぎようとした。
正確には、したはずだった。
その、はずだったが、
右手の温もりの力が、とても強くなった。
そこにいたい、そこに行きたい、とでも言うように。
他のアトラクションには見向きもしなかったくせに。
なぜ、ここなのか。
なぜ、今ここで立ち止まるのか。
私は腹が立って、その場を強引に離れようとしたけれど、
右手の温もりは、頑としてそこから動こうとしなかった。
目を上げてみると、
回転する白馬の上で、子どもが、泣いている。
お○○さん。
お○○さん。
お○○さん。
どこ。どこ。
どこなの。
馬は、孤独になった子どもを背中に乗せて。
その場を、ぐるぐると、まわり続けている。
見て見ぬふりをしたかった。
子どもが泣きわめいていたって、
親とはぐれていたって、
たとえ見つからなかったとしたって、
私には何も関係がない。
そして、それは右手の温もりも同じはずだった。
でも、右手の温もりは、そこを動かず、
しまいには、あろうことか、
今まで一度も開かなかった口を、
開いた。
あれに、のりたい
私は、多少予想していたことだけれど、耳を疑った。
分かっていたからこそ、腹が立ったのだ。
だから、余っている方の手で、
右手の温もりを、ぶった。
それは、壊れないほどに、ふつうの大人なら痛みを感じてもおそらくすぐに引いてしまうくらいの、強さで。
だけれど、右手の温もりは、決してそこを動こうとせず、
痛いはずなのに、こちらの気持ちは嫌というほど分かっているはずなのに、
私に、その目が、訴えていた。
いつもは無表情のくせに。
これに、乗りたい、と。
私は、その目を見て、もう一度、ぶった。
なのに、絶対に、その場を動こうとはしなかった。
そして、あろうことか、私の右手を離れて、
温もりを離れていこうとするのだ。
私は激高して、さらに強くぶとうとした。
でも、その時ちょうど私の目の前、メリーゴーランドの前を、
知っている人が通った。
私はできる限り明るく新年の挨拶をして、右手の温もりにも挨拶をさせた。
正確には、私がするのと同時に、すでにしていた。
そして、いつもしているように、
ごくごく自然に世間話をして、その場をやり過ごした。
私の印象は、上がることも下がることもなく、
ただ、なんとなくいい人、
子どもと仲のいい親御さん、というイメージのまま、
機械的なコミュニケーションを終了するのだ。
私は素直に、温もりに対して挨拶ができたことを褒めた。
ただし同時に、それはあたりまえのことで、いつもできなければならない、
私と同じように、できなければならない、
と言い聞かせた。
それを怠ってしまうと、自分が痛い目に合うのだ、
と教えるのもいつものことだ。
右手の温もりは、いつもどおり、肯定の旨を表した。
続けて私は、そのメリーゴーランドに乗ってはいけない、ということも教えた。
私がしてはいけない、と言うことは、絶対にしてはいけない。
なぜなら、それは
私がしてはいけない、と言っているからだ。ということを。
しかし、右手の温もりは、
いつものように、
肯定の旨を、示さなかった。
私は、頭に血が上った。
なぜこれほど言っても分からないのか。
分からないなら、もう好きにすればいい。
勝手にすればいい。
勝手にしなさい。
あとで自分が痛い目にあってもいいのなら、勝手にしなさい。
そういって、突き放した。
そうすることで、右手の温もりは態度を変える、と思ったからだ。
そして、まさにそう言ってしまったその通りに、
右手の温もりは、私の手を離れていった。
自分から。温もりを突き放すように。
あとで痛い思いをする、ということを分かっていながら、するのだから。
もうこれは、勝手にすればいいだろう。
私も、見守っている必要もない。
右手の温もり「だったもの」が、考えを改めて、私のもとに戻ってくるまで。
右手の温もり「だったもの」は、
そのままメリーゴーランドの入口へ歩いていく。
何の躊躇もせずに、一度もこちらを振り返ることもなく。
私はそのまま、どこかへ行ってしまおうと思った。
実際にそうするところだったのだが、ふと右手の温もりがなければ、
私が寒い思いをする、と思って、
右手の温もり「だったもの」を、隠れて待っていることにした。
右手の温もり「だったもの」が、どうなろうとかまわない。
怪我しようが、私の姿が見えなくなって泣きわめこうが、
かまわなかった。
それは、本心だった。
私は、メリーゴーランドから見えない、こちらからも見えない位置に移動して、
やり過ごすことにした。
あとでたっぷり痛みを与えなければならない。
そして、実際にそうやって忠告した。
私がしてはいけない、ということをしたのだから。
私がしてはいけない、ということをしたのだから。
わたしがシてはいけない、ということをシたのだから。
メリーゴーランドの方向からは、まだ泣き声が聞こえていた。
親の見つからない子どもが、ひとりで喚き散らしている。
自業自得だ。
親が、ひとりでどこかに行ってはいけない、と言ったのを守らなかったのだから。
親がしてはいけない、ということを、したのだから。
親がしてはいけない、ということをしたのだから。
私がしてはいけない、ということをしたのだから。
わたsがしtいけなというこを、しつdけたのdから。
私は近くにあった象の形をした子ども用の乗り物を足蹴にして、
近くのベンチに憮然と座った。
そのベンチの隣には大きな木が植わっているので、
右手の温もり「だったもの」から、そこは見えないが、
こちらからはかろうじて、見ることができるような位置だ。
メリーゴーランドの方を見てみると、
もうすでに忌々しい馬に乗っているのかと思いきや、
受付の女が立っている、その入り口に立っていた。
馬には乗らずに、ただそこに立ち尽くしていた。
それを見て困った受付らしき女が、
右手の温もり「だったもの」に、
背を低くし目線を合わせて話しかけているのが見えた。
子どもだけで乗ることはできるが、
お金も券も持っていないので、当然乗ることはできない。
おそらく、保護者はどこか。名前は何か。というような質問をされているのだろう。
他の人と勝手に話をしてはいけない。
話をされるような状況になってもいけない。
という言いつけを守らなかったので、あとで加える痛みに、一つカウントを加えた。
右手の温もり「だったもの」は、
話しかけられているにもかかわらず、
ただ前を見たまま、動かなかった。
そして、その視線の先には、親が見つからなくて泣きわめきながら、
ぐるぐると回る馬に乗り続ける、子どもの姿があった。
ただ、それを見つめながら、
どんな表情を浮かべるでもなく、何を言うのでもなく、
ただ、見つめていた。
ぐるぐると、泣きながら馬に乗り続ける子ども。
そして、それをただ、見つめ続けている、右手の温もり「だったもの」。
ぐるぐる、ぐるぐる、孤独な子どもを乗せて、
嫌というほど廻り続ける、メリーゴーランド。
ぐるぐる、ぐるぐる、孤独な子どもが乗った馬を、
無表情で、ただ見つめているだけの「もの」。
いったい何が楽しいのか全く分からない、
こちらからも見てて飽きるほどにそうしていたが、
ふと、突然私の右手の温もり「だったもの」は歩き出して、
メリーゴーランドの中には入らずに、
回転している馬の、進行方向―
一回転したときに、ちょうど馬に乗っている人と目が合う位置に、移動した。
受付の女は困り果てて、迷子センターへ連れて行こうとしたところだったが、
その不可解な行動を見て、
また、勝手に中に入らないのを見て危険がないと分かったのか、
私の温もり「だったもの」に話しかけるのをやめた。
「もの」は、メリーゴーランドのちょうど近くにあった、
ベンチに靴のまま上り(カウント+1)、
回り続ける馬の方に向き直った。
そこは、ちょうど、
馬に乗って回り続ける子どもと、目が合う高さだった。
そんなところに立って何をしたいのか。
何を考えて、そんなところに立っているのか。
全く理解できずに、呆れて見ていると。
私の右手の温もり「だったもの」が、
回り続けている馬に向かって、
手を振った。
いや、正確には、馬に乗っている子どもに向かって、手を振った。
あの、無表情で自分の意見を言わない「もの」が。
確かに今、子どもに向かって手を振っていた。
一週目は子どもの方が気づかなかったが、
二週目で、明らかに気付いた。
泣き続けながらも、怪訝な顔をしながらも、
弱々しく手を振り返したのだ。
それは、私には不可解極まりない行動で。
同時に、胸が締め付けられる行動で。
三週目、四週目と、その子どもとちょうど目が合うその時に、
手を振って、
子どもが、泣きながらも手を振り返した。
五週目、六週目でも、同じことを繰り返した。
そして、私の右手の温もり「だったもの」は、
回り続ける、孤独な馬と子どもに向かって、
『笑った』
確かに、笑ったのだ。
ただ、可笑しいから、面白いから、というような笑顔ではなく、
心からの、相手を安心させるような、笑顔だった。
それは、私が今まで見たことがなくて。
それは、私が誰にも勝手に見せてはいけないと言ったから。
ああ、そうだった。
その時から、笑わなくなって。
私は、どうしたらいいか、分からなくなって。
だから、今まで私に一度も見せてくれなかった、笑顔だった。
私には絶対見せてくれなかった笑顔を、あの子どもに向けている。
ただ泣いているだけの、弱い存在に。
私が見せなかった笑顔を、あの子どもに向けている。
親がいて、いつもは幸せなはずの、弱い存在に。
私の右手の温もり「だったもの」が手を振って、笑いかけるのに合わせて、
回り続ける馬に乗っている子どもも、あれだけ泣いていたのに、
次第に笑顔になっていった。
さっきまで涙でくしゃくしゃにしていた顔で、
確かに、笑い返していた。
「だったもの」は、笑顔で大きく手を振って、
馬に乗った孤独なはずの子どもが、笑顔で手を振り返す。
それが何回も繰り返されて、子どもがすでに泣き止んで、
最高の笑顔で手を振りかえすようになった
その時だった。
ベンチの上に立っていた「もの」が、バランスを崩した。
足を滑らせて、手を振ったままの状態で、なすすべもなく、
ベンチから、右肩から落ちていく。
私はその瞬間、文字通り瞬きもせずに、
飛び跳ねるように立ち上がり、
娘のもとへ走っていこうとした。
ほら、私のいうことをきかないから、
こうなるんだ。
あの時右手を握ったままだったなら、
こんなことにはならなかった。
でも、
私が駆け寄る前に、私の知らない姿が、
完全に身体が地に打ち付けられる、寸でのところで、
娘を両手で支えた。
そしてそれと同じくらいの瞬間、
メリーゴーランドに、馬に乗っていた子どもが、
…お…◯さ……?
おか…さ…ん!
…おかあさん!
うわあああああああああ!
うわああああああああああああああああ!
と泣き叫んだ。
その姿は、
私の娘の体が地面に落ちる前に支えてくれたのは、
親が見つからなくて、
もう二度と会えないと思って、
泣きわめくほど孤独で不安だったはずの子どもの、
本当の、親だった。
そして、
誰よりも真っ先に娘の体を支えなければならない私は、
間に合わなかった。
その子どもの親が、私の娘の身体を支えながら語りかける。
…大丈夫!?大丈夫かい?
けがはないかい!?
危なかったねえ、もう少しでけがをするところだったよ。
よかった、よかったねえ。
気をつけなきゃ、だめだよ。
あれ、お○○さんはどこにいるの?
お○○さんは、一緒なの?
少し離れたところで、立ち尽くしているだけの、
間に合わなかった私とは反対に、
その人は実の子どもでもない私の娘を気遣って。
でも、怪我が無くてよかったねえ。
本当に良かったねえ、と、その体を抱きしめる。
私の娘は、笑顔とも泣いているともいえない、
それでいて安心した表情で、
それに応える。
少し離れたところで立ち尽くしているだけの、
娘を抱きしめられなかった私とは反対に、
その人の子どもが、メリーゴーランドから足をもつれさせながらも降りて、
今はもう笑ってはいない、
でも、あの笑顔と同じ感情で、泣きじゃくった顔で走ってくる。
その人は私の娘を抱きかかえている右腕とは反対の左腕で、
走ってきた子どもを精一杯抱きしめる。
ああ、見つかってよかった。
もう、こんなところにいたんだねえ。
うんうん、寂しかったね。
辛かったよね。
ごめんね。うっかり手をはなしちゃってごめんね。
今度からは、ぜったいに手をはなさないようにするからね。
だから、もう勝手にとおくへいっちゃだめだよ。
よかった、よかったね…
本当に、よかった…
私の娘が、白馬に乗っている。
私の手から離れて、私の知らない人と。
回転し続ける白馬、メリーゴーランドに乗っている。
知らない人について行ってはいけない、と言ったのに。
知らない人と勝手にお話してはいけない、と言ったのに。
知らない人に親切にしてもいけない、
私だけに親切にしなさい、と言い聞かせたのに。
お○○さんはいないの、と聞かれて。
どこかに行った、でも、いつか戻ってくる、と答えて。
お○○さんはきびしいけれど、
やさしいから。
わたしがしらないところでわらうと、
お○○さんはつらいから。
でもね、ぜったいにもどってきてくれるんだよ。
だから、お○○さんがもどってくるまで、
それまで、わたし、
メリーゴーランドに乗ってみたい
と言って。
あの時は、何も言わなかったのに。
何に乗りたいかなんて、私には言ってくれなかったのに。
その人は一瞬困った顔をしたけれど、
分かったよ、一回だけ、一緒に乗ろうか、と言って。
そのあと、いっしょにまいごセンターに行くんだよ、と言って。
私の手を掴んでいたはずの、あの「温もり」を、握って。
それは私だけの、手なのに。
それは私だけの、「温もり」なのに。
娘が、笑う。
あの時、泣いていた子どもを助けるために向けた、あの笑顔で。
もう、孤独ではなくなったその子どもが、娘と一緒にはしゃいでいる。
回転しつづける白い木馬は、
ぐるぐると、笑顔を乗せて動き続けている。
軽快な音楽に乗せて、私が一緒に乗るはずだった背中に、
娘を助けた知らない人―
娘が助けた、子どものいちばん大切な存在を乗せて。
だから、私は―
【Ⅰ 娘があの時立っていた、ベンチにそっと歩いて行って】
【Ⅱ 私があの時座っていた、ベンチにそっと戻って行って】
その上に靴のまま上って、立った。
そして、回り続ける馬の方に向き直った。
そこは、ちょうど、
馬に乗って回り続ける娘と、目が合う高さだった。
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