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――――――ツいてないな、と、歯噛みして舌打ちを噛み潰しながら漠然と足を踏みだし、昔一度、タブーを破って迷い込んだおぼろげな記憶を頼りに、覚えのある場所に出ないかと、ふらふら歩みを進め、なんだったら家の者が誰か見つけてくれやしないかと――――――、
おそらく、彼らの事だから、何かが森に入ったとは、とうに把握はしているはずなのだから、と、期待してはみるものの、あてにするのも心許なく。
どうしたものかな、と、悩みながら、手ごろで安全そうな大樹を見つけて寄りかかり、背負っていたザックを足許に置いて、根元に腰を下ろし、休憩がてら、しばらくぼんやり、辺りを眺めると、左の斜向かいのあたりに、どこか悄然とたたずんでいるエスプリという名の樹を見つけ、
何気なく遠目に、幹を観察すれば、
「あ」と、
声を発してしまうようなものを見つけ、杖を手に取り立ち上がって、
思わず、そちらに足を向けている。
近づけば近づくほど、見覚えがある。端まで来て改めて仰ぎ見れば、目線より少し高い位置に、鋭利なもので削られた、大きな不自然な傷がある。手を伸ばし、触れる。
おそらく。記憶違いがなければ。
これは幼少の折、冒険した証しに、と、一緒にその場にいた家族と共に、ナイフで深々と、幾度も刻んだものに相違ない。確か最初に兄が、くまだぞー、などとふざけたことを言いながら、手にぶら下げていたマチェットで幹を打ち据えて傷をつけ、おまえらもやっとけと促されたので、笑ってナイフを抜き、くまだぞー、くまだぞー、と倣ったことを、判然と、思い出す。
「うわー、なつかし」と零して、バカだったなー、と、胸の内で呟いている。
時の経過を慈しみながら、悪ふざけの痕跡を指でなぞる。
「なにがなつかしいの?」と、隣から。
「いやぁ、この傷なんだけど」と、話しに乗りながら声がした方を見やれば、
――――――翅の生えた歪な、半端な時期に堕胎した胎児のような拳大のものが、宙に浮き、緩急をつけて左右に揺れながら、あらぬ方を向く眼で、こちらを見ている。
殊更、珍しくもない。俗称『羽根つき』こと、ピクシーである。
「おまえ、誰だよ」と、アイギーは半笑いで訊ねている。「急に何?」
「なんでこんなところに人間がいるの?ねえねえなんでなんでなんで?」と繰り返し忙しなく、微かに泡立った、甲高い声を発する、それ。
「いや、家に帰る途中だよ」と、答えるアイギーを。
矯めつ眇めつ、観察しながら左右に僅かに羽ばたく度、りん、りん、と、小さな鈴が、幽かに鳴らされたような音がする。
時に折り大量発生しては、空をこの音が覆い、農村部にいるヒトや家畜などを幾らか纏めて攫うこともあるらしい。運良くそのアブダクションから救えても、多くの場合、体表や、皮膚の裏、肉の中、動植物より高度な精神構造を持つヒトならばその裏側などに、知らぬ間に卵を産み付けられており、上っ面についたものをすべて除去したとしても、実体幽体を問わず内部に残ったものが具現化して結局、背や腹などを内側から食い破られ、助からない場合が多い。大きさからして、このピクシー、まだ子供なのだろうけれど、その他多数を呼ばれると非常に面倒なため、
なかなか、これでも侮れない。
「なんで?ねえ?どうして?なんでなんでなんでなんで?」と、羽根つきは案の定、ヒトの話を聞かず、まだしつこく訊ねてくる。声が発されるたび、皮膚の薄いむき出しの肉のような体の表面を走る翠い血管が、びくびく脈を打ち、りん、りん、と、羽音が続く。
「いやだから家帰る途中なんだって」と、律儀に答える、アイギー。
「家?家に帰るの?」言いながら顔の周りを一回りし、また正面に戻ってくる。「それどこ情報よ?ねえ、どこ情報よ?」
「あのー、 お前らってさぁ、夏の森に棲んでたっけ?」何気なく、訊ねてみる。
「こんなとこ棲むわけないだろ?バカなのか?」ケヒッ、と小さく笑われる。「イーターだって出るのに、あんまりバカなこと言ってると鉄の花瓶に入れられちゃうんだぞ?」
「あぁー、その花瓶っての、聞いたことあるなぁ、それ」夏の森の奥地に並んでいる、と、もっぱらの話である。「つーか悪いんだけど、『イーター』ってなに?」
「イーター?イーターも知らないのかおまえ!」ケヒヒ、と、少し水っぽく咽喉をならして笑う、ピクシー。また、頭の周囲を回って、「そんなのジョーシキだろ?バカなのか?人間?バカなのかバカなのかバカなのか?」繰り返し、唄うように続ける。
「俺が暮らしてた頃には、いなかったんだって、たぶん」と、移動するソレを眼で追いながら、
絶えず降り注いでくる「バカなのか?」に辟易して、
そろそろ鬱陶しくなってくる、アイギー。「あぁもう、」と、少々、腹を立てて。「バカでいいよ、イーターってなんだよ?」
「イーターは何でも食べるんだ」かははは、と、みにくい笑い声をあげる、ピクシー。「お前も食べられろ」かはは!と、また笑って、
強く羽ばたくと、その身の色、薄紅の残像だけを残して、陽光に翅を煌めかせながら、
「見つけたら呼んでやるからな!食べられろ!人間!ざまあみさらせ!かはは!食べられろ!食べられろ!食べられろ!」木々の枝々の間に、繰り言の木霊を響かせ、その姿を消して。
間もなく。
雑音の名残が霧消し。 辺りに、静寂が戻ってくる。
小さな双翅の曳光を見送り、「ったく」と、吐き捨てる、アイギー。
んーだよあいつ、腹立つわ、お前が喰われろ畜生が、と内心で罵倒して、顔を背けて踵を返し、ザックの元に戻る。
はぁーあ、と溜息を吐いて、燻る苛立ちを追い払うと、荷を確と背負い直し、やっと見つけた手がかりである、エスプリの樹の前に戻ろうと、
数歩、足を進めたところで。
雑多な鳥類の羽音と叫喚が西方の奥地でする。
はたと足を止めて身構え、そちらを仰ぎ見ている。
主に樹上で暮らす小動物の躁叫する声が、後に続いている。
眼を凝らすも、濃い緑のせいで、遠方は窺えない。
そよ吹く風のせいなのか、なんなのか、酷く枝々が、揺れている。
大型のヒヒか何かの喧嘩か?と、当たりをつけるものの、声の主たちはそれぞれ、もっと別の、何か、危機に瀕している、それが、徐々にこちらに、近づいて、きている。
騒動の間隙を縫って。ボッ、と。
小さく何かが炸裂している。
短い間隔で、繰り返し、繰り返し、空気の塊が打ち出されるような、
音が。
樹木でも削れているのか?と、察してみるものの、正体不明は変わらず、怪訝に思い、眉根を寄せる、アイギー。
更に動植物の喧騒が近づいてくる。
小さな炸裂音に、アクセントが付きはじめる。
森の中で、意思を持った風が逆巻いているような印象を持つ間に、音の輪郭が、より、判然としはじめる。
何か黒い陰影が、ちらと、
かなり遠方の枝葉の間で、蠢動して。
直後に、また。
ボッ、と。音が続く。
おいおいおいおいまさかな、と僅かに焦燥したのも、束の間。
はっきりと近づく、風切り音。大きな塊が移動してくる。灰がかった黒い何かが視界の左奥、距離にして数十メートル先の樹木の幹に停まり、
ほんの数秒。
眼と目が、合い。
――――――こちらを観察している、と。
互いが互いに、察する間の後。
止まっていた黒い何かが、音も無く消える。
樹木の表皮が多数剥がれ落ち、 ボッ、 と、はっきり音が遅れて続く。
辺り一帯の木々や、枝々の間を、何かが吹き荒び。
空気が、完全に停まる中。
通り過ぎたのか?と。
錯覚したのも束の間。
先ほど荷物を置き、寄りかかっていた背後の、大木の樹上で。
こつり、と。
意識を集中していなければ聞き逃してしまうような、小さな小さな、硬いものと硬いものがぶつかるような、異音。
何かが幽かに咽喉でも引き攣れたような声でぎーぎー鳴き。
六感に衝き動かされ右手に跳んで僅かな傾斜の上を転がる。
石や根で身体のあちこちを打つが、それどころでない。
なんせ跳躍の直前。
強い
否、
跳躍したおかげで、
辛うじてその『なにか』を、
擦過する程度に止められた事だけは、確かであり、
なんとか受け身をとって、地に這い蹲るまま、元いた場所をふり仰げば、
――――――ソレ、
が、二本の足で立ち、佇んでいる。
何か不思議そうに、自身の、鋭利強靭強大な爪を持つ左の掌を見つめながら、
「あれ?おかしいな」と、ぶつぶつ小さく、
トレタト思ったんだけどあれぇ?などと。
ナニモノにもお構いなしに、呟いている。
ざんバラに伸び放題の、針金に似た質感の銀髪に隠れた横顔は、窺えない。が、明らかにこちらをほふろうとしたことだけは言動と状況から察するに、確かである。
ぶらりと垂れ下がっている、左に同じく爪の生えた右の手に、何かを握っており、目を凝らせばそれは出来も趣きも悪い人形めいたもので、ぐしゃぐしゃにつぶれた薄翅が指の間から生えている所から鑑みれば、おそらく、ピクシーに相違ない。
助けて、やめろ、助けて、離せ、などと、ぎーぎー、鳴いている。
羽根つきの首が、辛うじてこちらを向く。「人間!人間たすけろ!」と、可聴域ぎりぎりの奇声で訴えてくる。「たすけろ人間!たすけろ!タスケテ!たすけろはやくたギ―――」
びちり、と、不意に、破裂四散する。ぴちゃびちゃびちゃ、と、体液がしたたり落ちる。
まだ握られたままの、くしゃくしゃの双翅の位置が変わっていることから、佇むソレの右手が無造作に握られたのだと認識する、アイギー。
小さく息を吐きながら徐に立ち上がり、ローブの裾の土くれなどを掃う片手間に、口腔の中で、数少ない切り札の一つである身体強化の呪文を、詠唱している。
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