第309話 機動戦士ガンダムSEED その9 あんなに一緒だったのに編

 さて『SEED』語りも9回目、今回で締めたいと思います。サブタイトルは『SEED』の歌の中では一番好きな初期エンディングテーマからいただきました。


 まずは、残っているキャラのうち、黒幕系について語りたいと思います。ひとりはコーディネーターを差別する純血ナチュラル主義者の集まりである「ブルーコスモス」の盟主であるムルタ・アズラエルから。


 と言っても、こいつ正直「小者」以外の感想が出てこないという。ナタルの横で騒いでただけという印象が強いんですね。ヘイトを買うキャラとしては成功してますけど。Wikiとか読むと「洞察力はある」みたいに書いてありますが、そんな印象が残ってないという。そして、声優を見て驚きました。檜山修之じゃないですか。90年代のミスター主人公。そうか、この頃は既にこういう役もできるようになってたんですね。


 最後のひとりが、アスランの父親のパトリック・ザラ。これがムルタと対比をなすコーディネーター至上主義者でナチュラルを殲滅しろという主張の持ち主。ただ、愛妻をナチュラルのテロで失っているという理由はあります。


 コーディーネーターの中でも最右翼のタカ派で、番組中盤でプラントの最高評議会議長に選挙で合法的に就任しています。そういう意味では独裁者ではない。ただ、その後にシーゲル・クライン前議長などの反対派を粛清して、事実上の独裁体制を敷きます。


 大量破壊兵器「ジェネシス」を地球に使用することについて、まったく躊躇しておらず、その意味でも「狂っている」人です。最終的にはそれを止めようとしたアスランにも銃を向けています。


 さらには、敵を倒すためなら味方の犠牲を厭わない作戦をとり、最後も味方が射線上に居るのにジェネシスを撃とうとして、それを止めようとした側近をも撃ち、死ぬ寸前の側近に反撃されて射殺されています。


 黒幕としての迫力はムルタより上なのですが、『ガンダム』のギレンほどのカリスマ性は無いんですよね。


 前話のラウ・ル・クルーゼも含めて『SEED』の難点のひとつが、悪役に大物感を感じないことなんですよ。


 この点についてだけは『SEED』よりは『DESTINY』のラスボスであるデュランダル議長の方が上だと思いますが、その点については『DESTINY』の所で語りたいと思います。


 さて、キャラについては語り終わったので、そのほかのことについて語りたいと思います。


 プラモについては、弟が高価なやつを買っていました。この頃には既にガンプラは商品として完成されていて、パーツは色分けされて、スナップフィットになっており、要するに組むだけで見栄えの良いプラモができあがるようになっていました。とはいえ、既に二人とも社会人になっていたので、実家に同居はしていても、ガンプラのことを話したりすることも無くなっていたので、ちょっと見ただけです。


 今回のサブタイにもいただいた主題歌なのですが、この頃になると既に「カッコ良さ」と「作品のテーマ」を両立した主題歌が作られるようになっていました。有名アーティストに制作を依頼するにしても、きちんと作品の世界観を反映した歌詞になってたりするんです。今の時代の「アニソン」が作られるようになってきていたという。


 その一方で、『ダンクーガ』とかと同じように主題歌の歌手を声優として起用するってタイアップもあったりするんですね。第一期オープニングを歌ったTMレボリューションの西川貴教が第一話で真っ先にやられて一度脱出し、再戦を挑んで死ぬミゲル・アイマンを演じていたりします。要するに『ガンダム』のジーンとスレンダーを合わせたようなキャラです(笑)。もっとも、西川の人気のせいで後付でパーソナルカラー専用機持ちのエースパイロットってことになったりしてますが(笑)。西川は続編『DESTINY』でも、こちらは本当に最初からエース設定のハイネ・ヴェステンフルスを演じることになります。


 第二期主題歌を歌ったビビアン・スーがアイシャを演じていたことは先に書きました。


 この主題歌、全部いい曲なんですよ。ところが、オープニングは一クールずつ切り替わっちゃって、全部で四曲もあるんです。そのせいでひとつひとつの印象が薄いという。


 それに対して、エンディングの方は前期エンディング「あんなに一緒だったのに」が二クール連続で使われていたんです。また、これが非常に名曲。内容も作品に非常に合っていました。このため、私は『SEED』の歌というと「あんなに一緒だったのに」が真っ先に出てくるんですね。ですので、今回のサブタイもこれから取りました。


 昔と違って玩具が売れない以上、別の方向性で商品を売らないとTVアニメは作れないというのはわかります。DVDやCDを売るために主題歌を増やすというのは、そういう意味では妥当な戦略かなとは思います。


 ただ、それでも数が増えると印象が薄くなるんですよねえ。これから先、結構主題歌の印象が薄くなっていく感があるのは、数が増えて一曲ごとに接する機会が減っちゃったからかなと思ったりしています。


 それでは、最後に総評です。この『SEED』については、前に『X』を語ったときに位置づけたことがあるのですが、ガンダムシリーズの中では上位五指に入る名作だと思っています。


 最初に「その1」でも書きましたが、商業的にヒットをおさめ、二十一世紀に新しいガンダムシリーズを続けることができるきっかけとなった作品でもあります。もし、この『SEED』がコケていたら、新作ガンダムは作られず、初代『ガンダム』の商品ばかりリメイクされるようなことになっていた可能性もあります。


 そうした面だけでなく、作品内容的にも、私は名作と呼んで良いと思っています。初代『ガンダム』と比較して「ただの焼き直し」「劣化再生産」と批判する評も聞いたことがありますが、私はその評には組みしません。


 二十一世紀に初代『ガンダム』のリメイクを志向したことは事実かと思います。ただ、そこできちんと時代性を取り入れており、しっかりと「2002年のアニメ」になっている所は評価できると思います。


 私が一番感心したのは、前にも書いた「キラと交流があった幼児が乗った脱出シャトルがイザークに撃たれて爆沈する」シーンです。昔のアニメなら、それこそ『ザンボット』の人間爆弾みたいなエピソードもあったんですが、この頃は描写がマイルド化していたことが多かったので、こんな残虐シーンをきっちりと描いたということは、私は評価できると思いました。


 そして、キラとフレイとサイのドロドロ三角関係。これはWikiによると『無限のリヴァイアス』の影響を受けたとあったのですが、確かにこれは二十一世紀初頭、あの頃のアニメが取り入れだした、あの時代のリアルなのかなと思います。


 主人公たちが「良い子」で「流される」タイプであることや、ヒロインズの描き方などにも、確かに2002年という時代性が反映されていたと思えます。


 以上のことから、私は『SEED』は名作であると考えています。


 さて、次回なのですが、一気に2004年に飛んで、その「続編」である『DESTINY』について語りたいと思います。というのは、恐ろしいことに、この間に巨大ロボットアニメを見てないんですよ。『ヒカリアン』みたいな子供向けも、『トランスフォーマー』も『マシンロボレスキュー』も、『キングゲイナー』も『グラヴィオン』も『マクロス・ゼロ』も『ガンパレード・マーチ』のアニメ版も、『マジンカイザー』も『ゴーダンナー』も『フルメタ』の『ふもっふ』も、今川版『鉄人28号』すらも見ていないという。


 もう、この頃になるとアニメ自体の視聴をしなくなりつつあったんですね。そんな中でも、やっぱりガンダムだけは見ていたという。ということで、次回から『DESTINY』ですので、どうぞお楽しみに。

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