第5話 迷いはまだあるけれど
「不思議な喫茶店だったなぁ」
無事に夕食に間に合った私は、自室の中でぼんやりとつぶやく。
目の前には、今日はまだできていなかった宿題のプリントを載せた机がある。
早く終わらせようと思ったけれど、まだ読んだ本の余韻が残っているような気がして、どうにも手につかなかったのだ。
思い出すのは、喫茶店の出来事ばかりだ。
本の内容も、びっくりしたせいで記憶に強く残っているけれど、それ以上に衝撃的だったのは、あの店員のことだ。
「きせきさん? きいしさん? どう読むんだろ」
勝手に記石という名前を『きいしさん』と読むことにして、私は今日起こった彼の不思議な行動を回想する。
あの喫茶店に通い始めて、もう五日になる。
ルールにも馴染んで、記石さんも全く客に構わない人なんだろうとばかり思っていたのだけど。
亜紀の目から自分を隠してくれて、なぜか片思いから始まる話を勧めて来た。
そこまでならまだいい。
最後は亜紀に見つかるから喫茶店通いをやめようとした気持ちを見通したように、大丈夫だと言われたのだ。
……おかげで、あんなに美形な人に話しかけられたというのに、緊張どころか背筋がゾッとしてしまった。
何でもお見通しの妖怪に出会ったような感覚……と言ったら、失礼だろうか。
「それにしても、不必要な人には見向きもされないってどういうことだろう?」
言葉通りに考えるなら、喫茶店に用がない人は入って来ないってことだろう。でも、それって普通だよね?
「あ、わかった。書棚が一面にあるのは外からも見えるし、本が嫌いな人は来ないってことかも」
そうは言ってみたものの、自分でもなんか違う気はする。
むしろ喫茶店に置かれた本に、引き寄せられる人しかお店には入らないとか、そういう不思議なことの方がふさわしいような……。
「だけど私も、最初は本目当てで入ったわけじゃないし」
遠くに亜紀の姿を見つけて、慌てて身を隠したくなって入ったのがあの喫茶店だったのだ。
普段は目につかなくて入ろうと思うようなお店ではなかった。
でも外観は綺麗で、白壁にこげ茶色の柱や屋根、アーチ形の窓と、洋風で自分好みなのだ。入り口には花も飾ってあって、入りやすそうに見えるのだけど、不思議だ。
「気のせいだよね。むしろ記石さんの言い回しが独特なだけだよね?」
そう自分に言ってみるものの、どうにも不可解な気持ちは残る。ちょっと奇妙というか、暗くじっとりとしたものが潜んでいるような気分が、拭えない。
「明日、どうしよう…」
亜紀と槙野くんが付き合っていると知ってから、だいぶん経った。まだ顔を合わせにくいけど、学校の中なら平気かな。
今日のは突然のことで動揺しすぎたんだと思う。それに、亜紀も槙野くんの話ばかりしなくなったかもしれないし。
「明日平気だったら、喫茶店通い、止めよう」
私はそう決意して、翌日をむかえた。
朝はいつも通り早く出発した。
朝が弱い亜紀は気にしなくてもいいのだけど、隣の一軒家に住む亜紀の母と顔を合わせると、その後が面倒なのだ。
社交辞令だとわかっていても、自分を褒める言葉を聞き続けるのはどうも……。
――うちの亜紀と違って、勉強も優秀で。
――うちの子も美月ちゃんみたいに、お家のお手伝いもきちんとできるようになるといいんだけど。
たとえ自分が持ち上げられても、他人を下げられると気分は良くない。
亜紀が一緒だとさらに酷くなるのだ。
それでは亜紀にあまりに悪すぎるし、かといって自分の母親の話を聞きたくないと言えば傷つくと思い、中学へ上がると同時に登校する時間をずらしたのだ。
それでも、時々は亜紀も早起きをする。
ばったりと会う可能性だってなくはないので、学校へ到着するとほっとした。
授業の中休みまでは、亜紀に会うことはないだろう。
……幼馴染を悪く思いたくない。だからこそ距離を置いて、落ち着くのを待とうと思ったのだから。
私は、鞄を置くとクラスの友人に挨拶した。
「おはよう」
「おはよう美月」
一年の頃から仲良くなって、二年でも同じクラスになった芽衣と沙也は、笑顔で挨拶を返してくれる。
「何見てるの?」
二人がノートの表紙で隠すように見ているものが気になって言うと、芽衣がくすくすと笑いながら手招きしてくれる。
のぞいてみると、そこにあったのは槙野くんの写真だ。
「あれ、これって……先月の?」
四月の入学式で、どうやら槙野くんは手伝いをしていたらしい。その様子を撮った写真だった。優しそうな笑顔を浮かべて、新入生に赤い薔薇の記章を渡している。
「生徒会の友達から借りたの。二人にも見せようと思って。なかなかいいでしょこれ?」
「本当によく撮れてる」
「近寄るのは迷惑になりそうで気が引けるけど、写真を見て騒ぐぐらいはいいよね。プライベートの写真じゃないし……おっと」
芽衣がそそくさと写真をしまった。
男子が近くを通りがかったからだ。写真を見られて、当の槙野くんに知らされては困ると思ったんだろう。
沙也も同じことを考えたみたいだ。
「見られなくて良かったね……。本人に知られたらちょっとね」
「あ、でもまだ男子だからマシかもしれない。うっかり槙野ファンに見られたら、体育館裏に呼ばれそう……。だからこれはもう返しておくね」
ファンは怖い。
そもそも槙野ファンは、彼につきまとっていた女子生徒を体育館裏に呼び出したとか、警告を聞かなかったその子の隠し事を暴いて制裁をしたとか、怖い噂ばかりだ。
私も沙也も巻き込まれるのは怖いので、うんうんとうなずく。
ちょっとした緊張を味わいながらも、何も知らない芽衣や沙也との会話は、心がなごんだ。
片思いが破れても、こうして何事もなかったかのように、日々を過ごせたら、もやもやせずに過ごせるようになるのに。それにもう少し早く、辛い気持ちが消えたかもしれないのにな、なんて思った。
昼休みも、すぐには亜紀が来なかったので、芽衣と沙也と固まってお弁当を広げていた。
話題はもうすぐやってくる中間試験だ。
最近は喫茶店で暇つぶしを兼ねて勉強ばかりしているので、いつもよりは試験が迫っていても、私は少し余裕があった。
でも芽衣と沙也はそうでもないようだ。
「国語しか自信ない。国語は性格悪い方が問題解けるじゃない? だから私、国語が得意なんだと思うの」
うなだれた芽衣の言葉に、沙也が笑う。
「自分で性格悪いって言っちゃうの、芽衣ぐらいだと思うよ」
「だって本当だもの。この意図を答えよって言われたら、出題者の意図の方を読めばいいんだなとか、作者の意図じゃないんだろうなって思いながら解くと、合ってるんだもの」
「あ、それ聞いたことある。でも知っててもなかなかできないよ」
そんな話をしているところに、亜紀が顔を出した。
「ごめんね、ちょっといいかな美月?」
私はちょっと身構えたけれど、亜紀も少しは落ち着いたかもしれない、とも思って応じたのだった。
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