花見とピンヒール
「花見?」
「ええ」
日も暮れた頃、仕事帰りに空の弁当箱を届けにきた誠司さんに玄関先で話をきり出した。
初めて会ったあの日は住んでいるマンションを教えなかったけど、弁当を作るようになってからは隠すことを止めた。
彼に弁当箱を届けたいと言われたからと、もう知られて困るようなことはないと誠司さんを信頼できるようになっているからだ。
「桜が咲いたら、そこの公園でどうかなって思って」
たまに出ていた敬語もなくなった。今ではすっかり親しい友人の間柄だ。
「桜って咲いてもすぐに散ってしまうし、日中に都合つけてお花見は難しいだろうから、夜に桜見ながらご飯はどう? 夜なら空いてるんじゃない? お弁当作るわよ」
「いいやん、それ」
誠司さんは口元を緩め、瞳をきらりと光らせた。
「でも、夜桜もいいねんけど昼の桜も見たいし、できるだけ土日空けておくから、休みの日に都合つけば昼から花見をしようや」
「ホント!? ありがとう」
一日、誠司さんと一緒にいられると思ったら、嬉しくなった。
「それじゃ、桜が咲いてきたら教えるわね」
誠司さんは「ああ」と頷くと、背中を見せてマンションの階段を下りていった。
*
それから二週間と少したった月曜日、一週間ぶりに公園へ寄った。
花見の約束をした頃は毎日のように桜のチェックをしていたけど、ここのところ仕事が残業続きで、見に来る余裕がなかったのだ。
お弁当を作りながら朝のニュースのチェックは行っているので、満開まではまだしばらくかかるはずだとわかってはいた。
公園の土を踏みしめる自分の足を見ていた視線を上げ、公園を見回そうとしたとき、わたしは驚いた。
「……嘘!」
視界にちらほらと薄い桃色が広がっていた。
桜の花が咲いてる!?
慌てて桜の木に駆け寄って、見上げた。桃色にふくらんだつぼみと開いた花。
3分咲きといったところかな。半分は咲いてないと思う。
でも、桜は咲き出すと早いんだ。お花見をするなら、たぶん今週末。天候にもよるけど、来週末は散ってしまっているかもしれない。
ほんの少しの時間も待ちきれない思いで、わたしは誠司さんの家へと駆け出した。
最近ではすっかり見慣れてしまったエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押す。
まるで子供みたいにその場で足を踏み鳴らし、ゆっくりと下りてくるエレベーターの階数表示を見ていたけど、結局、待ちきれなくて、すぐそばの階段を二段飛ばしで上がった。
ローヒールのくせに、カンカンとうるさい音が響く。
疲れなんて気づかないまま6階にたどり着き、エレベーターホールを通って廊下に出た。
逸る気持ちで、廊下の先にある誠司さんの部屋を見て、わたしは動きを止めた。
まるで心臓が凍ってしまったかのように、動くことができなかった。ヒュッと吸い込んだはずの息も喉の奥で止まる。
――なんて間の悪いタイミング。
ちょうど誠司さんの部屋から女性が出てくるところだった。
離れた位置でも綺麗な人だとわかる。
明るい茶色の巻き髪は、わたしのパーマをあてただけでろくなセットのしていない髪の毛とは違い、美容院でセットしてきたばかりのように綺麗にくるくるしている。
黒の膝丈ワンピースの裾からは白くて細い足が伸びていて、その先は華奢なピンヒールで頼りなさげに守られている。
顔はこの位置からでははっきりとしないけど、きちんとオシャレをした身なりの綺麗な人だ。
誠司さんはわたしに背を向ける形で立っていて、表情が見えない。だけど、その女性が笑っているようだということはわかった。二人は楽しく話をしていると簡単に想像がついた。
やがて、1分もしないうちに話は終わり、誠司さんはわたしに気づかないまま部屋へと戻った。
例の女性は帰るらしく、こちらへと向かってくる。
このまま立ちつくしていることも不自然なので、震える足に喝を入れて、ゆっくりと歩きだした。
心臓がドクンドクンと大きく脈打つ。
『彼女を見ないように』
そう自分に言い聞かせても無駄だった。すれ違う瞬間にしっかりと見てしまう。
わたしは敗北を悟った。
間近で見る彼女は、身なりだけではなかった。顔も美人だった。
大きな瞳に長そうなまつげ、小さな鼻にふっくらとした赤い唇。
もちろん、今はまつ毛のエクステやつけまつ毛だってあるし、化粧で顔の印象の変わる女の人はたくさんいる。素の彼女がどんな顔かはわからない。
だけど、わたしはどんなに頑張って化粧をしても、美人とは言われない。綺麗で華やかな顔にはならない。
「きっと顔を作ってるだけ」なんて嫌味は言えない。
だいたい、服装の気づかいからしたって違うんだ。
わたしは自分を見下ろした。
黒のパンツに白のストライプシャツ、グレーのカーディガン、ローヒールで何の飾りもないシンプルな黒のパンプス。
会社の外に出ることのない内勤の事務とはいえ、制服がないため落ち着いたオフィスカジュアルを心がけている。
とはいえ、手抜きをしすぎかもしれない。
オシャレな女の子は毎日スカートを履いて、足元だって可愛いパンプスだ。派手すぎなければ、多少のオシャレは問題ないんだ。
わたしは自分の靴を見下ろした。
せめて5センチヒールのパンプスにすれば良かった。
いくらマンションの階段の上り下りが大変だと言っても、もうちょっとヒールがあるものでも良いのかもしれない。
高いヒールのほうがきれいな足に見えるものだ。
誠司さんのことが気になっているくせに、今までオシャレなんて言葉を忘れ去っていた。
彼に女として見てもらいたい、少しでも綺麗でいたい。好きな人に対してそう思うことは、女性であれば当たり前の感情であるはずなのに、わたしは自分が楽することだけ考えていたのかもしれない。
そんな女失格の自分にようやく気づいた。いや、彼女に気づかされたんだ。
でも、もう遅い。
どうやら誠司さんには美人な彼女がいるらしい。オシャレもしないようなわたしには、彼のそばにいる資格なんてないんだ。
そう思うと、わたしはインターホンを押すことができなかった。
一緒に花見へ行こうと約束したのに、その約束すら果たせそうにない。
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