忘年会

はると

第1話

「今年は魔王を倒しにいったんですよ」

 丸一年ぶり、高校同期の同窓会に遅刻してきた太田は、コートを脱ぎがてらそんなことを言った。三十人を超える飲み会だと、だいたい四、五人ごとの小さな輪ができる。挨拶のつもりで太田に手を振ったのに、誰もが元の輪に戻れなくなってしまった。

「まだ寒かったから一月か二月ですかね」

太田は僕の目の前に座りながら話を続ける。高校時代と変わらない昔ながらの大きなメガネ。彼のきまじめな姿を知っていたから彼が冗談とか妄想話で困らせるつもりなんだとは誰も考えなかった。太田はとても無口だったし、誰と話すにも必要最低限の内容を敬語で交わす程度で、そんな彼が大勢を前にしてこんな通る声で語り始めるなんて、本当に何かあったんだろうと思った。そういえば、卒業してから五回目の同窓会だけど、太田は初参加だったかもしれない。

「寒いときってお酒で体を温めるじゃないですか」

注文を取りに来たウェイターに生ビールと唐揚げを頼む。奥の奴らも唐揚げ追加、ハイボールと注文を重ねていく。太田は手を拭いたおしぼりの角を持つと、ひとふりパンとはたいた。

 最初は手品だろうと思った。対角線にピンと張った形で、布のおしぼりは硬直していた。昔どこかでみたことがあるような画だ。濡らしたタオルを南極で振り回すとカチンコチンになるやつ。干した魚みたいになったおしぼりをあおいで風を送ってくる。なんだかめちゃくちゃ冷たい。

「もちろん、これでも釘が打てますよ」

太田はそういう。初めて笑った顔を見た。奥に座った工藤が「それは凍ったバナナだ」と揚げ足を取る。でも、魔王を倒した太田はうろたえるそぶりもない。

 おしぼりをうけとってみる。氷割りのグラスよりも冷えていた。隣の奴へとまわしていく。歓声が伝播していく。

「アルコールが人体に与える影響っていろいろありますが」

酔うとポカポカしてくる。同時に頭はぼんやりしがちだ。

「そこに魔王を見つけたんです」

ウェイターがめずらしく注文の復唱をしていた。


 おしぼりが一周した頃、奥の一団はまたソシャゲの話に戻っていった。まあ、ここまで不思議すぎるとただの手品なんだと納得できる。居酒屋の騒々しさに再び覆われる。

「手品じゃないですよ」

 僕らにだけ聞こえる声でそういう。太田を囲む僕たち三人はしつこくおしぼりの回覧を続けた。紛れもなく凍っていた。

「それでアルコールと魔王がなんだって?」

太田の左、医学部の富岡が訝しむ。酒は百薬の長だとか諺があるけれど酒の効能に関する疫学的研究はガセネタばかりなんだそうだ。アルコールは毒でしかない。語気を強めた富岡がジョッキを机にたたきつけた。チャプンとウーロン茶が揺れた。

「自分のアプローチはちょっと違うんです」

それで、太田は昨冬、酒を飲んでいたときに沸いた着想を語ってくれた。

 なぜ酒を飲むと体温が上がるのか。血流が活発になるからだ。いや、血流量が増えても、すなわちそれが体の持つ熱量の上昇に繋がるわけではない。

「エネルギー保存則はデカルトやライプニッツの議論から定式化されました」

ここまでは高校物理の範囲内だ。けど、アルコールからは飛躍があった。

「アインシュタインが相対性理論で示したのは、物体の質量がエネルギーと等価であるということでした。核エネルギーが普及した現代ではこれを机上の空論と呼ぶ人はいないでしょう」

右隣の金山を見やるとうなずいている。文系出身でもまだついてこられる話題のようだ。

「そしてマクスウェルの思考実験とシラードエンジンへの洞察によって生まれた情報熱力学は、情報が熱機関のリソースとなること、つまりエネルギーであることを明らかにしました」

「それで」

富岡が先を急かす。アルコールとどうつながるか早く聞きたいのだろう。

「待ってくれ、そこのところをくわしく」

ついに金山が折れた。僕もそこを聞きたかったし丁度よい。

「マクスウェルは『デーモン』という存在を仮定した思考実験を行いました」

箱の中に仕切を入れる。仕切には分子サイズの穴が空いていて、とても小さなデーモンが門番をしている。デーモンは空気分子の速度を計測し、速い分子は右から左へ、遅い分子は左から右へ通し、それ以外の通行は穴を閉じて妨げる。これを続けるとやがて仕切の左右に圧力差が生じる。デーモンの存在を認めると、分子の位置や速度という情報が、仕切を押す力に変換されてしまうという現象が生じるらしい。

「とにかく、情報はエネルギーと等価なんです。核燃料は質量が減った分だけエネルギーになります。同様に、情報が減ればエネルギーが生じると考えることができるようになったのです」

「まさか、人間の記憶もエネルギーに?」

金山のつっこみに太田は黙ってうなずいた。

「僕はこう考えたのです、酒を飲んで記憶が薄れた分だけ、体が温まると」

富岡が眉をしかめた。

「そこから、僕は打倒『デーモン』の目標を掲げて、日夜研究に取り組みました。情報を制することができれば熱力学第二法則を一見犯したような現象を操れるようになるのです」

そして、目の前の太田は「魔王を倒した」と言った。そのあたりから僕自身酔いが回り始めてあんまり会話を覚えていない。頼れそうな富岡は別の卓にうつってしまうし、金山は凍ったおしぼりをいじるのに夢中になっていた。

 太田はボソリと「誰も知らない遠くへ行きたかったんです」とため息をついた。

 そのあと、席を入り乱れての、高校時代の昔話、今の職場の話、誰の結婚が近いだの、だれが有名になりそうだのの話に花が咲いてお開きになった。太田は帰った。半分くらいが二次会に流れ込んだ。二次会はカラオケだった。冬に汗をかくのは久しぶりだった。歌の合間に仕事や結婚、昔の話、さっきと同じような話が延々繰り返された。凍ったおしぼりの話が掘り返されることはなかった。

 帰宅する段、酔いも少し醒めて高校時代を思い返していた。太田は無口な奴だと思っていた。だから教室にいた彼の姿を少しも思い出せないんだ。今日、面と向かって喋って、何度も顔を見た。でも、太田なんてそもそもいなかったような気もしてきた。彼の発見が真実なら将来ノーベル賞だって夢じゃない。帰ったら卒業アルバムを見返さなきゃと思いつつ、眠気がやってきた。次に目を覚ましたとき、彼のことを覚えていないだろう。電車で座ると体が暖まってくるもんだ。

 金山からメールがあった。

「旧交を温めるって忘れることなのかもね」

 意識が薄れていって体がポカポカしてくる。忘れっぽい世界というのも案外暖かいもんだなと年の瀬に思い至ったのだった。

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忘年会 はると @HLT

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