贄(にえ)を見つめる山羊
躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)
第1話
「ふう、今日も尻から風邪を引きそうなくらいに酷く冷えるねぇ」
夜の帳が落ちた頃だった。
灯油ストーブの匂いが立ち込める店内で、そこの主人の言葉に私は仕事の手を止めた。いつもの手が伸びて来るのかと一瞬警戒したが、
『それは最早、何の意味のない事だ』
と、頭の中で誰かが言っていた。もやもやとしたものをわずかに感じながら、現状報告をする。
「値段付けの済んだ商品は出しておきました」
「お疲れ様」
マフラーに立て襟のコートを羽織った姿でレジ裏へと現れた店長がそう答える。
商品査定が済んだ品で店頭価格を振り終えたものを、OPPと呼ばれる簡易包装の透明な袋に詰め、値札シールの上からテープを貼って出すのが、現状の私の仕事。
商品査定は、ネットで他店の買い取り価格と販売価格とをにらめっこしながら、当店での在庫の具合を鑑みつつ、する。何度か買い取り方法は変わったと聞いたが、私が勤め始めてからはずっとその方法でこの店は回っている。せどりという趣味と実益を兼ねた方法があるが、それの店舗を持っているバージョンみたいなのがうちの店だった。
盗品や妙な雰囲気の持ち込み商品を見極めるスキルだけは、結構早めに身に付いた。
「今日は商店街の集まりがあるんで、何時もの時間を回ったら、店は閉めていいよ」
その時間は時計を見れば、大体二時間後。
「はい」
「私への連絡はいつもの帳簿に書いておいて。暮れの町内会祭りでうちが出す本もまた見ておいてくれるかな」
「分かりました」
「では、行って来るよ」
言うなり、抱きしめて来る店長の腕に身体が固くなる。が、酷くすっきりしない事に、彼の手の温度に胸中のもやもやは晴れてしまった。
「そう緊張しないで」
軽く笑いながら店長は出て行った。ぽつぽつと灯っている商店街の明かりの向こうに消えるその背に目をやると、私は短いため息を付いた。
数年前に帰郷して、週に数回しか出られないが、この仕事にようやく就く事が出来た。家族はいない。
『いないと言え』
と言われている。仕事を失って帰って来たら絶縁されたのである。
なので、家族だと言ってくれる人もいない。食べていく上では楽な立場だが、何しろ不景気だ。部屋を借りるにも自腹の状態だから、保証人は何処でも欲しい。
かつての仕事で取得した資格は、その中で活かす事は出来なかった。活かせる職場へは就けなかった。
ネットを探しても見当たらず、ハローワークは記載されている雇用条件が全く当てにならない。ほとんどの職場は一桁の人数の社員と二桁の人数のアルバイトが回しており、会社はそれでも自分達の椅子を暖める方法にのみ頭を働かせ、下々の私達のポジションには人員削減をずっとちらつかせ続けた。
必須スキルと必須職務経験と雇用してくれる年齢という高い壁の築く三角形の間で、溺れかけながら息をしていたら今になった。
在宅ワークに登録を申し込んでみた事もあるが
『個人情報を赤の他人に渡し続けるサービスだ』
と早急に気付けた事、それだけが良かった事だ。
独立するには資格取得後の職務経験が圧倒的に足りない。冒険をするには、社会的に年齢が大人過ぎる。
それが頭に染み付いていて、何かの映画のモノローグにあった、先の見えないハイウェイ、その路肩をのろのろと走っている。それが今の私だった。
いっその事、横殴りの天変地異でも来て、一思いにかっさらってくればいいのだが、いつもここぞというぎりぎりのラインで避けていってしまう。
レジミスをすると面倒な事になるので、それらの退治しても出て来るゴキブリの様なあれやこれを振り払い、
『今夜のご飯は何にしようかな』
と考えつつ本棚に向かって屈み込み、手を動かしていると、店頭の照明を遮る影に気付いた。
「ごめん下さい」
「いらっしゃいませ」
そう言って顔を上げ、そこで私は言葉を失った。
長い角は
『よくも軒先を粉砕しなかったものだ』
と後で思い出して感心するほどに猛々しく伸びており、黒い瞳はどんなにそれを大きく見せるコンタクトをしても無理なほどのサイズとそれに見合った輝きを返していた。輝きの向こうの闇がかえって心地良いほどである。
長く白い髪とひげが、腹の上まで届いている。
角の主は山羊だった。体型は伺えないが、恐らく肉付きがそこそこ良い長身にまとった、深い紺色のロングコートの上に山羊の頭が載ったのではなかった。
眠たげなその眼差しには生命の息吹と知性の様なものが感じられた。隠し切れない胸毛ではなくおひげの上で、好意的に見れば微笑ましい口が動いている。
何処に出しても恥ずかしくない出来の、言い訳のし様のない程に超絶技巧の山羊具合である。昔読んだコラージュ画像付きの『怪談』の本を思い出した。
声が出ない私をその眠たげな目で見下ろすと、歩く現代芸術の様相を排出し続ける山羊の人は、少し傷付いた様な気配を見せながら、意外なハスキーボイスで
「あの……店内を少し拝見しても?」
と言った。
「はい……」
何とか返事をすると、山羊の人は瞳を閉じて頷き、そう広くもなく狭くもないが、人がすれ違うのはちょっと気を遣う店内を、小説のコーナーへ、割と見惚れる背中を向けて歩いてゆく。角のぶつかる危うさはそこからは全く漂って来ないのがこれまたおかしいのだが、そういう疑問に何がしかの安心感をくれる佇まいだった。
『小説好きなのかな』
という場違いな思考をよそに返事はした。したが、いくら不景気な社会という船で発生したあれこれで激しく悪酔いして磨耗した脳みそへの仕打ちだとしても、これはいささかパンチが効き過ぎである。
目を凝らしながら、まず、ネットで最近多い、学校と社会のルールの区別が付かない連中の仕業を想定した。
『自分がしている事が、他人の人生にとてつもないダメージを与える』
と想像出来ないままに、それぞれの学業課程を終えて来る不特定多数の事だ。
自分の交友関係を少し考える。ネットで知人はいるが友人はいない。知的で紳士的な態度の押し込み強盗への対応経験もない。となると、ネットにアップすれば即炎上必至のそれが一番可能性が高い。
店内設置カメラを見やる。長い角と大きな後ろ頭しか見えないが、万引きや、立ち読みしつつ本を汚す客独特の気配は伝わって来ない。今はまだ伝わって来ないだけかもしれないので、油断は出来ない。やらかす奴は唐突にやらかすものだ。そうでない例は、少なくともうちでは少ない。下調べした上での犯行だとしたなら悪質極まりないので、その際は即座に通報しようと決めた。
そういえば、あの人の手元はどうだっただろうか? 人間の手だったか、山羊の蹄だったかを覚えていない。
もう一度カメラを見る。コートの肩の向こうにあるだろうそれは、角度的に伺えない。
時折ページをめくる音がする。速度としては立ち読みのそれではなく、状態確認のそれだと私は判断した。
仮に蹄でそれを行っているのなら器用なものだが、折り目が付いていたりしたらあっという間に傷付きで値下げ回避不可能である。
右のこめかみがぴくっとする。
まずい、いつものが来た。下手をすると具合が悪くなってしゃがみ込んでしまう。
私はレジカウンターに手をついて心臓の高さまで上体を倒し、目を閉じて何度か深く呼吸をした。
可及的速やかに本の状態を確認したい。
何かいい手はないかと、カウンター内の作業スペースを見回す。サンドペーパーでの研磨が終わって出せる文庫本などがあればいいのだが、と品出し待ちの本を積んでおくコーナーを見るが、先ほど全部出してしまった。
そうなると、店頭の本のチェックをするしかない。私はカウンターから出て、あえて反対のコミックスのエリアからチェックを開始した。店内の規模は半径10メートルと少し。そこに本とその他の品物がが密集しているのだ。見回りのみであれば、時間はそうかからない。
本を収納しているOPPは、一応の通気を助ける穴が開いている。
シュリンクよりは本が歪まないので、品質を維持し続ける必要性から、うちの店は未だにこれに入れて店頭に出している。
シュリンクは正直何の為のものなのか、それを使用して品物を売っている人間のほとんどに知らされていない。全ては上の連中の指示であるから、最前線で品物を売る人間の与り知る所ではないが、本屋の店員は程度の差はあれ、ほぼ確実に本好きだ。なので品物に危害を加えるシステムに対していい印象を抱いている可能性も限りなく低い。
まずは100円本コーナーから。日焼けした本を発見。値段を見る。半値決定。
そんな感じで集める。山になったものをレジカウンター横の作業場に置き、ポストイットに
『これ50円』
と書いて貼り付け、さて次のエリア、と振り返るとカウンターに山羊の人がいた。
数冊の本をレジカウンターに置いた所だ。商品に何かしらの手心を加えた様子はなし。
先ほどの衝撃は仕事の場数根性が和らげていた。そこだけ過去に感謝。職場にではない。
「これをお願いします」
「はい。状態チェックはされます?」
「いいえ、大丈夫です」
「はい」
レジを打ち、値段を告げつつ、店のマークがプリントされたビニール袋へ入れる。
一枚のお札をコインカウンターに出す手は人間の手だった。左手中指にペンだこがある。とても綺麗な手。手タレまでは行かないが、見た所、性別は分からないけれど、仕事での年季が伺えるも、きちんと手入れをした手である。
どこかで見た気がするが、気のせいだろう。
お釣りを返しつつ、それとなく話をした。どうせそろそろ閉める時間だったのもあってか、それは盛り上がった。
それが二週間ほど前だっただろうか。そんなきっかけから良く話す様になり、友達になった。
『としちゃん』というのが彼の人の愛称だ。
『性別不肖な所がミステリアスな山羊の人』
というデータで私の脳みそにインプットされている。ともすれば退屈になりそうな日常の、一服の清涼剤的な人物だった。
今日は仕事は休み。二人で待ち合わせるべく、自宅の隣の駅前のコーヒーショップへ私は向かっていた。
職場への定期はあるが、職場の駅だと気分がリフレッシュしないので、私の自宅の隣の駅からどこかへ行くのが定番になりつつある。これも社会経験で痛感し、実践している方法だった。
仕事モードからは自発的に切り替えの効く場所を見つけて遊ばないと、仕事人間であればあるほど後々深刻な度合いで身体を壊す。
まだ互いの自宅へ行き来する程の関係ではなかったが、職場で知り合ったのがきっかけだったせいか、そこまでの交流は私達には必要なかった。
そろそろ本格的に冬の気圧になって来ているが、まだ日差しは暑く、それでいて街に連なる店では暖房に切り替えている。
私は羽織っている半袖のパーカーを脱ぎたい気分だった。珍しく平日だというのに人が多い。
行き交う人の中で、赤紫色に染めたロングの髪をポニーテールにした、眼鏡の北欧系の白人女性を先頭に行く五人連れが印象深かった。ヒールなしで170センチオーバーの長身だったが、モデル体系ではない、というのが私の日常においては新鮮だったからだ。
なかなか強烈なものを記憶に残しながら約束のコーヒーショップである老舗チェーン『オマエラノレスモ・アルカモーヨ』のドアを開けると、乾燥した暖房の風に抱きしめられた気分になる。パーカーを脱いで腕にかけると、二人用の席を取ってから注文をする。
この店は長い商品名を覚えないといけないが、一度お気に入りを見つければどうにかなるのはありがたかった。ネットの『アルカモーヨ』議論スレではこの注文方法はコーヒーチェーンとしては伝統的ではないらしいが、私にはぴったりだ。何しろ人生において急場しのぎの連続だったから伝統そのものがない。
『急場しのぎの血統』
と指摘されれば頷くしかないが、そこには最早オリジナリティーはない。私である必要がない。
この世界を回している誰だって、何らかの締め切りには追われている。
席に着いて少し飲む。味と温度が身体に染み入る。
少し味の濃さが変わったかもしれないが許容範囲。豆が変わったのかもしれない。
しばらくしてとしちゃんが来た。私を探してきょろきょろしているとしちゃんに手を振ると、こちらに気付いた様子でつい、といつもの白い手を上げて頷き、カウンターで注文をする。
不思議な事だが、としちゃんの山羊の姿は私にしか分からない様だった。
店長も幾度か目にしているはずだが全く気にした様子はないし、来店している他の客や、二人で遊びに行く時でも、最初は落ち着かなかったが、それは私だけみたいで、誰もが気にしている様子がない。
なので私も見慣れたし、付き合っている経過で前述した危険性はないと判断したし、こちらの日常生活にも支障はないので、
『そういう事なのね』
と納得し、考えるのはやめたのだった。
慣れて来るととしちゃんのそれは、つくづく味わい深い外見だ。性格もチャラくない。
聞けばとしちゃんも、これまでの仕事では色々と苦労して来たとの事だったが、少しスパイスの効いた経験談は話すけれども、愚痴っぽくは聞こえない。
その程好い諦観が、眠たげな眼差しとささくれた心を癒してくれそうな弾力性を見せる口元から繰り出されるものだから、ささくれた現代人の端くれである私も、己の脳の疲れがほぐれる感覚に囚われる。
そんなとしちゃんならではの持ち味を吟味し、ある時不意に、
『しっかりと重みのある布団や抱き枕がないと眠れない人達の為に、抱き枕のバイトはどうか』
と口走ってしまった事があるが、不思議な顔をされたので私ははっとした。
山羊のお顔でも表情は分かる。友人ともあろうものが、としちゃんの貞操の危機にも繋がる事を綺麗さっぱり失念していた。ヒーローを何度も演じた俳優が脳内で
『資本主義者め』
と私に的確なコメントを浴びせた。彼の登場する作品なら私は秒殺されるモブだった。
まさにタイム・イズ・マネーを悪い方向で体得した人間の見本だった。今後はどうなるか分からないけれど、久しぶりの色々な話が出来る友達になってくれた人なのに。
感性鈍磨系ヒト科を代表して私は詫びつつ、自分でも驚愕する程のデリカシーのない発想を恥じた。
そんな事がありながらも、としちゃんは変わらない態度で付き合ってくれている。ありがたい事だ。
……あれ?
『今後はどうなるか分からないけれど』
って何だ?
「羊肉が美味しい店を見つけたんだけれど、あなたはラム肉とか苦手じゃない?」
と、としちゃんがカフェオレを飲み終えてから言った。
羊肉。食欲をそそる独特の香りと、独特のタレとマッチした肉の味が脳裏で再生され、鼻腔を突き刺し、改めて右脳に浸透する。
「ええ、大丈夫。ご飯が進むので大好きだな。
でも久しぶりに食べるかも」
「では今日はそこへ行ってみましょう。セットメニューではナンかご飯か選べるし」
その魅力的なお言葉に、他の選択肢は消え失せた。
「素敵。どちらにしようか迷うなぁ」
私達は返却口でカップを始末すると、店を出た。
実にいい店だった。ラムカレーを食べてみたのだがさすがの羊肉、カレーにも良く合っていた。
他のメニューの名前は覚えられなかったけれど、ナンとの組み合わせが美味しかったのは間違いない。また行ってみたいと思った。
そこからウインドウショッピングであちこちを見て回った。
私には性別不肖の山羊の人にしか見えないのだけれど、それでもとしちゃんには、タイトなパンツ類やロッカー風のロングスリーブTシャツなどのボーイッシュな服装もそうだが、たっぷりと布を使ったブラウスの上に羽織ったポンチョや、何層にもレースが下半身の中心から両膝の横まで流れるスカートなどのレディースものも似合っていた。
世の中には性別を越えたファッションも難なく着こなせてしまう人というのが実在する。
としちゃんの表情と雰囲気から察するに少し恥ずかしそうだったのだけれど、
「決まってるよ! 派手過ぎないし、見蕩れちゃった。どう?」
と耳元で囁いてみると、
「試着って楽しいね。何だかこう、違う自分になれそうな、そんな気持ちになる」
「でしょう? そこが醍醐味だよね。
まあ、私もあまり来ないけれど、としちゃんにはぴったりのものが見つかりそうだったから」
「ありがとう。一着だけでも買っちゃおうかな?」
「カードが使えるから分割払いが一番安全かな」
「分かった、お会計をして来るから、ちょっと待ってて」
そこから一寸、郊外を散歩した。
良い感じの曇天が広がっている。私は晴れた空はどうも好かない。
一人で散歩しに行く時はいつも雨天や曇天、冬なら雪の降りしきる日の、人気の少ない川べりを選んでいる。早朝や夕暮れがいい。
メランコリックな気分になりたい訳ではなく、そういう天気ならば何を聞いても、気分がそれ以上マイナスにならないのだ。世界が終わった後の様な風景の中では、むしろプラスになる事が多かった。
途中で調理パンや菓子パン、缶コーヒーなどを入手して、食べながら歩いてOKなら味わいつつ、駄目ならそれらしいベンチで一息ついて、そんな風景の中を『機能している』くずかごを探してマイペースで歩くのもまた一興だった。私なりの効果的な気分転換方法である。
それを聞くと、としちゃんも気乗りした様子で、
「いいなあ。外でのお弁当とか美味しいもんね。
静かな風景を見ながら、温かいコーヒーにメンチカツパンとかもすごくいい。
私も今度やってみよう」
そして、その日の解散の時間が来た。
夕方の駅だった。お互いにおなかも一杯、買い物袋も一杯。大満足だ。
それぞれ帰る方向が違うので、そこで挨拶した。
「また遊びに行こうね」
「是非是非。今度は私がお店探しをしておくから」
雑踏の中に消えて行くとしちゃんの背中を見送った。
そして、それを最後に、としちゃんと連絡が取れなった。
「ん……っ!」
としちゃんと連絡が取れないまま過ぎた数日後の閉店した店の、事務所になっているスペース。ロッカーに私は両手を付いていた。
背後から私の薄手のカーディガンとブラウス、ブラまでをめくり上げながら左の乳房を揉んでいる店長の指が、乳首を撫で回す。反対の手が、ずり下ろされたジーンズとパンティーのせいで露わになった下腹部に滑り込み、ゆっくりと侵入を開始した事で、切なくて声が出てしまった。
お尻に店長の固くなったあれが当たっている事実が、私を更に刺激する。
帰りの準備をしていたら店長に抱きしめられ、こうなっている。ここに勤めて割とすぐ、こういう関係になった。
どちらが誘ったのかはもうどうでも良くなるくらいには続いていた。
「いいおっぱいだからさぁ、独り占めしたくなっちゃうんだよぉ」
荒い息を漏らしながら耳たぶをくわえ、音を立てて舌を這わせ、そう囁く店長。私が濡れて来た事を悟ると、そばのデスクから事務椅子を引っ張って座り、
「来て、来て」
と、抱き寄せたままの私を膝にまたがらせた。店長のチノパン越しに怒張しているあれが股下に当たると、鼓動が高まった。
「君はさ、反応がとてもいいよね。かわいい」
唇を求めて来る。腕を彼の首に絡める様にして後ろを向き、重ねる。舌を入れられ、舐められ、強く吸われるのがたまらなかった。
ゆっくりと二人で唇を吸い合いながら、私のカーディガンとブラウスのボタンを外す。ブラを外してデスクに置いた。
普段なら家でのみ味わえるその開放感から、私は少し笑ってしまった。店長も笑いながらキスをした。
「気持ちいい?」
私は蕩けた表情だったろう。そのまま頷いた。
それから彼は私の腰を片手でかき抱きながら乳房に吸い付く。反対の手は私の秘部を再び攻め始めていた。
水の音と自分の声が割と遠慮なく事務所に響いていたが、こういう時の非現実的な感覚がとても好きだった。
店長の指の動きが激しくなると同時に、私も限界を感じて来ていた。寸前で店長の手が止まる。
彼は私に腰を上げさせ、自分のチノパンとトランクスを忌々しげに下ろすと、デスクの引き出しからコンドームの箱を出し、
「付けてくれる?」
と言った。
少なくとも今は必要とされているのだ。見知った人間に。
それも職場のボスに。
私はお酒もギャンブルもしないけれど、
『日頃の趣味だけではストレスを解消し切れていない』
と、お医者からも言われていた。
帰る実家もなく、自分の力のみで生きて行く事に関しての不安は、無意識に私の身体を蝕んでいたのだ。
自律神経失調症に端を発した私の病状は、何度か強いものに変わりながらも病院のくれる薬の効果で、どうにか仕事の出来る状態に繋ぎ止めてくれていた。
心療内科にかかるまで、それを忌避していた自分がとても馬鹿に思えた。それまで勤めていた仕事での職場からの無理に応える必要も、激しい頭痛とめまいと吐き気を堪えながらそこに通う必要もないと分かったからだ。
私はとっとと先生に診察してもらい、診察所を持って自分の市の社会福祉課に相談に行き、手を打ってもらうべきだったのだ。そうしていれば、世間で病状自慢などで挙げられる薬の内容を知人に打ち明けた時にせせら笑われたり、怪訝な顔で
『それ、中毒じゃん』
などと言われずに済んだ。それで今の状態に悪化せずに済んだ。
その事の方がよほどショックだった。不特定多数が正常だと思って回している社会に無理に自分を合わせ、必死でへばり付いていた事、それ自体が身体に毒であったのだと知らされた時は、膝から崩れそうになった。
私の申請は受理され、すぐに生活保護を受けられる事になった。仕事自体は嫌いではなかったが、職務環境が合っていなかった為に続けられなくなった事もショックで、職場に辞表を出して帰宅し、翌朝目覚めた時に、泣けて泣けて仕方がなかった。
人前でなくて良かったと思った。慰めに来る人は何故か、幸運にも毎回いたけれど、そこからの流れで、その場限りの関係に終始するのとかは余計に傷付く自分に嫌気が差していたからだ。
どれほどその時に心のどこかで、それを私が求めていても。
『無理のない範囲で仕事を探しましょう。
それをやめない事。それが当面の目標です』
と、自宅訪問で私の地域担当のケースワーカーの人に説明を受けた所で、右のこめかみにいつも感じていた焦燥感を煽る何かが収まった。
病院の薬が引き続き効果を示し、夜中に何度もうなされて目を覚まさずに済む事がどれほど私を安堵させたか。
『お薬に関してはね……脳味噌も内臓だと考える事だ。
確かに強い薬を続ける事は身体に良くない。私も反対だ。でも、あなたの身体は、その仕事に就いていた、もう何年分もの疲れを溜め込んでる。血液検査でも分かったんだけれど、
『休ませてくれ』
って信号を送って来てるんだ。頭痛やその他の吐き気とかは身体からのそういうシグナルなんだよ。
眠れなくして、具合を悪くさせて、職場に行かせまいとしてる訳。結果、一度体調を崩せば少しも良くならないし、最初は風邪だと思って出していた薬も、あなたが打ち明けてくれた複数の原因があるから効かない。
不思議に思うかもしれないけれど、身体も時にはそうやってでもあなたを守ろうとしてくれるんだよ。
まだ理解の浅い分野での病気だけど、ネガティヴな意見から自分を遠ざける様にして、
『いつまでに治す』
とかではなく、気長に治す事だ』
と、先生は言った。
『治ってもいないのに無理に社会に戻って、更に悪化するケースを何度も見て来た事で出た意見なのだろう』
と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます