第4話 対話
「虎だぞぉ! 虎が出たぞぉ!」
決意した翌日、授業中に虎が出没した。
もうすぐ死ぬかもしれないのに、死なないための行動を取るなんて、何か変だな。
そう思いながらも、ミチルは一同と同じ行動を取った。放置されたままの高坂コウの腐乱死体は、一週間ほど前から極力見ないように心がけていたので、本日もその方針を貫いた。
よほど空腹を解消したかったのか、虎は随分と長い間、ミチルの教室付近をうろついていたらしく、中庭に引き取ったという報告があるまで、一同がマントの内側に隠れてから十五分程度もかかった。
「虎のやつ、もう何日餌にありついていないんだ? 一か月半くらい経つんじゃないか」
「相当飢えているぜ。少しでも隠れるのが遅れたら、命はないものと思わないと」
生徒たちは普段のごとく、無駄口を叩きながら席に着く。ミチルはマントを自席の椅子にかけると、机の横に立ったまま挙手した。すぐに教師が気がついた。
「どうした、福本」
「お腹が痛くなったので、トイレに」
複数の失笑が漏れる。虎が中庭に退却するまで時間がかかったからといって、恐怖から腹を壊すなんて、情けないやつだ。そのようなニュアンスの笑いだった。
「ああ、行ってこい」
小さく頷き、ミチルは教室を出て行った。――マントを持たずに。
誰もその事実を指摘しない。呼び止めない。
高坂さんなら一声かけただろうな、とミチルは思う。高坂さんがそんな人間だからこそ、僕は死を覚悟で虎のもとへと向かうのかもしれない、とも思う。
中庭に近づくにつれて獣臭さが濃くなっていく。こちらの体臭に、足音に、気配に感づき、襲ってくるのではないかと案じたが、その気配はない。目的地に辿り着いた。
朽ちかけた木製ベンチの横、楓の樹の根本に体を横たえて、虎は眠っていた。ミチルはマントを被らずに、なおかつ間近で虎を見るのはこれが初めてだったが、恐怖は感じなかった。寝顔も寝息も、信じられないくらい穏やかだ。
どう呼びかければいいのだろう。虎、と呼び捨てにすれば、怒りを買いそうな気がする。でも、さん付けをするのもおかしいし……。
逡巡していると、不意に虎の瞼が開いた。緑色の瞳に視線が吸い寄せられ、周囲の音がミュートされ、思考も身じろぎもままならなくなる。虎は緩慢に体を起こすと、猫そっくりの動作で伸びと欠伸を同時に行い、その場に座ってミチルに正対した。
『貴様、何の用だ』
声量自体は決して大きくはないが、腹に響く声だった。ミチルはこの時初めて、虎が雌だということに気がついた。
『わざわざこの場所まで来たということは、私に用があるのだろう。言ってみろ』
腹に響く声ではあるが、口調には落ち着きが感じられる。予告もなしに襲いかかってくるようには思えない。ミチルが感じているのは、自分よりも大きな、鋭利な歯牙を有する肉食獣と相対しているが故の緊張のみだ。
「訊きたいことがあります」
『ならば言ってみるがいい。私にも答えられるなら答えよう』
生徒や教師を殺して食らう立場なのに、空腹に苛まれているはずなのに、なぜ僕を殺そうとしないのだろう。疑問が湧いたが、今訊くべきはそれについてではない。
「2年D組に所属する、高坂コウという女子生徒のことを知っていますか」
『生徒の名前など一人も覚えていないが、2年D組の教室がどこにあるかは分かる。何せ毎日のように学園内を歩き回っているからな。……で、その生徒がどうした』
「二十日前、その高坂コウが、教室で殺されていたんです。心臓を抉られて、床に大の字に倒れて」
『ほう。それで?』
「高坂コウは殺されて以来、誰からも認識されなくなってしまったんです。人が、クラスメイトが死んでいるのに、誰も何も言わない。腐って、醜くなって、臭いだって凄いのに、みんな無関心。反応が明らかに普通じゃなくて」
『結局、貴様は私に何が訊きたいのだ。単刀直入に言うがいい』
苛立ちを露わに急かすというより、からかうような口振りだった。これを言ったら虎を怒らせてしまうかもしれない、という危惧を抱くことなく、ミチルは言った。
「もしかしたら、高坂コウを殺したのはあなたではないかと思って」
虎の口角が歪んだ。人間ならばさしずめ、意味深に微笑んでみせたと形容するのが適当な変化が生じた、次の瞬間、笑い声が響いた。虎が笑ったのだ。口角の歪みと笑い声はすぐに収まった。
『殺したのは私ではないよ。殺した人間が認識されなくなる能力なんて私は持っていないし、そもそも私が殺したなら、骨以外は綺麗に食らい尽くしている』
高坂コウを殺したのは虎ではない。この事実を受けて、どう話を進めるべきなのかがミチルには分からなかった。
『ところで、その女子生徒の屍骸、現在はどうなっている?』
「教室に放置されたままです。僕一人ではどうすればいいか分からなくて」
『……ふむ。二十日前に死んで教室に放置されているのに、私は気がつかない……。その女子生徒の屍骸を認識できるのは貴様一人……』
虎はおもむろにミチルから視線を外した。何を見ているというわけでもない。どうやら考え事をしているらしい。先程の言葉は問いかけたのではなく、独り言だったのだと悟る。
『認識という言葉が出たが、それに関する疑問が一つあるから、貴様に答えてもらいたい』
穏やかだが、有無を言わさぬ口調。戸惑うミチルを無視して、虎は言葉を続ける。
『私は毎日、学園内を歩き回って狩りをする。声や気配から察する限り、学園にはかなりの数の人間が存在しているらしい。だのに、人間の声や気配を目指して歩を進めた途端、声や気配は跡形もなく消失してしまう。消失してしまい、発見できないから、獲物を捕らえられない。前々から疑問に思っていたのだが、これはどういうことなんだ?』
学園の人間が何のお陰で脅威から逃れられているのかを、虎は知らないらしい。
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