Sketch for August ─8月─
走っていくバスの後姿を僕は見送る。
排気音が聴こえなくなると、辺りには蝉の鳴き声だけが残された。穏やかな風が吹いて、木々たちを微かに鳴らしていく。
夏の日はどこまでも高く、終わりなどまだまだ来そうも無い
「……あっつー」
バス停のベンチ、僕のすぐ左隣。ナツミが小さくもらした。
「……バス、行っちゃったけど。乗らなくて良かったの?」
「あー、うん、別にいいんじゃない」
道の先を見つめながら、ナツミが軽い口調で応える。ナツミの首筋には、大きな汗の粒が浮かんでいて、僕はその後ろ姿に見とれていた。
不意にナツミが振り向いたから、僕は慌てて目を逸らす。
「えっと、次のバスは、……二時間後か」
「まあのんびり待ってれば良いじゃん。どうせ時間はいくらでもあるんだし?」
なんて皮肉な言葉だろうかと思った。もうすぐ、夏は終わってしまうというのに。
さっきナツミがバスに乗らなかったのは、僕と同じ気持ちでいてくれたからだったら良いのに。
そう思って、ちらっと隣をうかがってみたけれど、ナツミが何を考えているのかはよく分からなかった。
「それより喉渇いたんだけどさ」
「はぁ?」
ナツミがすぐそばにあった自販機を指差す。その表情は、分かるだろ? と言っていた。
「……はいはい。奢れってことね」
「奢ってくれるの? さっすがぁ!」
白々しい返事には、ため息で返した。熱気が顔の周りを覆う。
「ナツミ、何が良いの? 選んでよ」
「いつもの!」
分かれよ、とでも言いたそうな口調で、ナツミが声を上げる。自分の分とナツミの分、僕は同じものを二つ買った。こういうときだけは分かりやすいのに。
「ほらっ」
「わっ! っとと」
投げて渡したジュースを受け取りながら、ナツミが恨めしげな目を向けてくる。
「何すんのよ、炭酸が抜けちゃうでしょ!」
「あー、はいはい」
いつまでもやられっぱなしではいないぞという、ささやかな反抗。
自分で言っていて、余りにもささやか過ぎて情けなくなった。
「それ、ホント好きだよね」
「だって美味しいじゃん」
「それ飲んでるのなんてナツミぐらいしか見たことないけど」
「みんな分かってないんだねー」
ナツミはよく冷えたペットボトルを頬に当てている。結露して濡れた頬も、夏の日差しにすぐ乾いてしまうだろう。
「……何がそんな気に入ってるのさ」
パッケージには地域限定の文字と共に、キューカンバーソーダと書かれたロゴマーク。ナツミに付き合って何度も飲んでいるけれど、正直僕は微妙だと思っている。
ていうかキューカンバーって何だっけ? ……スイカ?
そんなことを考えていると、
「だって、夏の匂いがするでしょ?」
言いながらナツミが、ペットボトルのキャップを捻る。
プシュッと小さな音がして、炭酸が抜けていった。緑色の半透明を濁らせながら、気体が空気中に溶け出していく。
ナツミに倣って僕もキャップを開ける。木や草の匂い、土の匂い、夕立の匂い。そんな夏色が僕を包んだ。
これを夏の匂いと呼ぶのは、確かにその通りかもしれないと思えた。
けれどそれもすぐに泡となり消えてしまう。隣を見るとナツミは僕を見ながら目を細めて笑っていた。それがどこか寂しげにみえたのは、ただの僕の勘違いだろうか。
「それに、これ飲めるのも、もう最後かもしれないしね」
僕は叫びだしたいのを必死に抑える。
「……あっちには売ってないの?」
「あー、見たこと無いね」
「それやっぱ人気無いからじゃん」
「うっさい」
拗ねたようにナツミが頬を膨らませた。僕はその横顔に話しかける。
「もしかしたら通販とかで売ってるんじゃない? 探してみたら?」
けれどナツミは大きなため息をつくだけだった。
「つまんない大人みたいなこと言うんだね」
その言葉に僕は、胸が詰まってしまう。辛うじて、搾り出すように「そんなことない」とだけ口にすることができた。
きっと、僕がもっと大人だったら、こんな気持ちにはなってはいない。
背が伸びれば泣くことなんて無いと思っていたのに。実際には身体ばかり大きくなっただけで、心のなかはまるで変わってなんかいない。
気まずい沈黙が僕達の間に落ちる。どちらともが黙り込んでしまうと、蝉の声だけが辺りに満ちた。僕らのいるバス停だけが夏の世界から取り残されて、この世界に僕らは二人っきりみたいに思えた。
不意に、夏の匂いが鼻に付いた。それが通り雨の匂いだと、すぐに気付く。蝉の鳴き声だと思っていた音は、あっという間に夕立が地面を叩く音に変わっていた。
「降ってきた」
「……そうだね」
二人で並んで空を見上げる。バス停の屋根越しに見た空は、分厚い雲に覆われていた。
大粒の雨によって、切り離された世界。ここと、ここじゃない場所。まるで世界が停止してしまったみたいだ。
この雨はすぐに止むだろうか。このまま永遠に止まなければ良いのにと、そんなことを願った。
「夏ももう終わりかな」
ナツミが事も無げに言う。その目は雨雲の向こうに何を見ているのだろうか。少なくともそれは、僕と同じものではないんだろう。
「雨が止んだら、そろそろ行かなきゃだね」
「……」
僕は雨音で聴こえなかったふりで、ナツミの言葉を無視した。
「私がいなくなっても元気でやるんだよ?」
「……ホントに行っちゃうの?」
「なーにー? 寂しがってんのー?」
「……」
だって、僕たちはこの夏の間、ずっと一緒にすごしていたから。ナツミのいないこれからの世界を、どんなふうに歩いていけばいいのか、僕にはもう分からない。
「子供みたいな駄々言わないでよ。夏が終わったら帰っちゃうこと、分かってたことでしょ」
急に大人ぶった口調で、ナツミが小さく笑う。
「もう、しょうがないなぁ」
そう言いながらポケットから取り出したのは、手の中に収まってしまう小さな、音楽プレーヤー。
「ほら」
ナツミは、そこから伸びたイヤホンの片方を僕に差し出す。僕は無言でそれを受け取った。
イヤホンから流れ出したのは、ギターのハウリングから始まる曲。ナツミの住む街で流行っているといっていた。一緒になってよく聞いた、海外のなんとかっていうバンドの曲だった。
隣を見る。ナツミも僕をみていて、目が合った。それから、笑顔のナツミがすっと目を閉じる。僕も目を閉じた。
この曲を聞いているだけで、ナツミと過ごした日々が、次々と脳裏に浮かんでいった。
不思議だった。マッチ箱よりも小さなこの機械の中に、花火よりもきらめく思い出が入っていることが。
イヤホンに引っ張られて、ナツミが少しだけ僕の傍に近寄る。僕はただ、雨音にかき消されてしまいそうなナツミの吐息だけに耳を澄ませていた。
---
「あっ、やっと起きた」
ナツミに身体を揺すられて僕は目を覚ます。気が付くと眠ってしまっていたようだ。
イヤホンはまだ耳についたままだったけれど、再生は終わったみたいで何も聴こえなかった。
代わりに聴こえるのは蝉の声。いつの間にか通り雨はすっかり上がり、夕焼けが辺りを赤く染め上げている。
「そろそろいこっか」
ナツミが苦笑している。僕の身体の左側には、まだナツミの体温が残っていて、じっとりと汗ばんでいた。
立ち上がり、ナツミの後ろを追った。ナツミは道路に出て、道の先を見ていた。
「私はこっちだね」
「……うん」
この道は遠く、どこまでも続いている。ナツミがこの先の未来を生きていく街までも。
目を凝らしてみたけれど道の行き着く先は、ゆらゆらと揺れるばかりで、もちろんなにも見えるはずも無かった。
「あんたが起きるの待ってたら、バス行っちゃったんだけど」
「……どうするの?」
「歩いてくよ。少し行ったら駅もあるしね。電車ならまだ何本か残ってるから」
「……そっか」
「うん」
このまま言葉が途切れた時が別れの時なのだと分かってしまって、僕は必死で、つなげる言葉を探していた。
「向こうはさ、どんなところなの?」
「都会だよ。ここと違ってね。なんでもあるけれど、なんにもないような、そんなところ」
「向こうについたら連絡してよ。手紙でも電話でもいいからさ。そうだ、来年の夏休みになったら会いに行くし──」
けれどナツミは小さく首を振る。
「ダメだよ」
「……どうして?」
「あんたを縛りたくないから。それに私も縛られたくない」
「……分からないよ」
「私がここに居るのは夏の間だけのこと。向こうに戻ったら、私はきっと、あんたを忘れる。あんただって同じ。私がいなくなれば、すぐに過去になる。だから、できない約束はしないの」
「そんなこと──」
「忘れるよ」
強い口調で遮られて、僕は何も言えなくなる。
きっと僕は、今にも泣きだしそうな顔をしていたんだろう。フッと、ナツミが小さく笑う。
「これあげるよ」
ナツミが差し出したのはあの音楽プレーヤー。
「かわりに、それ飲まないならちょうだい」
そうして指差したのは、まだ半分も減っていない夏色のジュース。僕は無言のまま、それをナツミに手渡した。
「さてと」
これでもう、本当に全てが終わってしまった。夏の日は今にも落ちようとしている。
「目を瞑って」
ナツミが言う。
「なんで?」
「最後に観るのが後姿なんてのは寂しいでしょ?」
僕は疑問に思いながらもそれに従った。
「百数えるまで絶対開けちゃダメだからね」
「……分かった」
頷きながら、僕は心のなかで「いち」と呟く。
暗闇からペットボトルを開けるプシュっという音がした。
強い風がサッと吹いて、僕の頬を撫でる。それから、唇に微かな感触。
僕は、目を開けない。出来ない約束は嫌いだと、ナツミはそう言っていたから。
そうして僕は百まで数えて、それからゆっくりと目を開ける。
夏の日の陽炎のように、ナツミの姿はもうどこにも無い。
僕は一人で帰り道を歩き出した。手の中には小さな音楽プレーヤー、唇には夏の匂いだけが残っていて。
僕は永遠にこの夏を忘れることは無いのだろうと思った。たとえナツミが永遠に居なくなってしまったとしても。
この曲を聴くたびに、夏の匂いを感じるたびに、きっと何度でもこの日のことを思い出す。
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