真夏のすいか

ギア

真夏のすいか

 あの夏休み、あの山での出来事を僕は一生忘れないだろう。頭上を覆う分厚い緑、隙間から降り注ぐ木漏れ日、むせかえるような草いきれ、汗ばんだ体をひやりと撫でる木陰の冷たい空気、手に抱えていたスイカの青い匂い。

 そして川のほとりで出会ったもの。


 小学4年生の夏、僕は家族で夏山へキャンプに来ていた。

 10歳になったばかりの僕は、また1つ大人になった証として大事な仕事を任せられていた。夕食のあとにみんなで食べるスイカ、それを川へと冷やしに行く仕事だ。

 両手で大きなスイカを抱えながら僕は森を走っていた。キャンプ場から川へと向かう道はとてもデコボコで、短パンのポケットに入れたもう1つの「大人になった証」が揺れる。この夏にもらったばかりのそれだけど、もう僕の持ち物の中でも一番の宝物になっていた。キャンプから帰ったら何に使おうか、今からワクワクしている。

 せせらぎが近づいてきた。まだ見えない川の流れを思い描きながら、僕はどうやってスイカを流されないように冷やそうかを考えつつ、茂みを抜けた。

 すぐ目の前、誰もいないと思っていた川辺にしゃがみこむ人影があり、僕は思わず叫んだ。

「誰!?」

 僕の叫びに、今まさに水から上がったばかりだった相手が振り向いた。

 鱗のない魚みたいにぬめる肌をしていた。その色は水ゴケを思わせる深緑で、ところどころに斑点のようなむらがあった。その顔の中央にはひどく大きな目があり、まっすぐに僕を見ていた。その両目の下にはくすんだ黄色をしたくちばしがニュッと突き出している。ぼさぼさの茶色い髪の毛は頭頂部に密集していた。

 湿った髪の毛の中央はよく見えなかったが、そこに何があるかはなんとなく想像がついた。

河童かっぱ?」

 思わず漏れた僕の呟きに、その生き物は慌ててきびすを返すと、水しぶき1つ上げずにスルリと水中へと消えた。

 取り残された僕は手にしたスイカを強く抱きしめた。何かにしがみつきたい気分だった。川が流れる音で我に返った。生き物がいた痕跡ひとつなく流れる川面を前に、僕がため息をついた瞬間。

「おい」

 目の前の水面にそれの上半身が本当に音もなくいきなり現れた。完全に不意をつかれた形になった僕は叫び声を上げようとして、自分の両手で口を塞いだ。叫び声と一緒に心臓が飛び出してしまうかと思った。

 現れたそれは、そんな僕の狼狽っぷりにも全く動じることなく、ただただじっと僕を見ていた。

「落ち着いたか」

 その問いに頷ける程度には冷静さを取り戻せていた。子供みたいに甲高い声だったが、相手を落ち着かせる響きは老人のようだった。その声が言葉を続けた。

「本当は姿を見られただけでもまずいのだ。ましてや話をするなど禁忌中の禁忌だ。しかしどうしても伝えたいことがあった」

 難しくて当時の僕には分からない単語もいくつかあったが、相手の言葉の真剣さに僕は再び頷きを返した。

「先ほど君は私に、誰だ?、と聞いたね」

「ごめんなさい」

 口を塞ぐ両手を少し緩めて、絞り出すように僕は謝った。その言葉に相手は静かに首を振った。

「怒っているわけではないのだ。ただ大きなスイカを抱えた君が私に、誰だ?、と聞いてきたことが、非常に私のツボをついたのだ」

 何を言っているのかよく分からなかった。僕が困惑するその様子が相手に伝わったのだろう。その異形の顔ですら伝わってくるほどに、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「君にはまだ早かったかもしれないな。ちょっと難しい言葉だが、覚えておくといい」

 水中へと立ち去りながら、それが残した最後の言葉はいまだに僕の耳に残っている。

「誰だ、と問いかけることを誰何すいかする、と言うのだよ。むしろ君自身のほうがよっぽどスイカだったのにな」

 それが姿を消した川面は、波紋一つなく、冷たく静かに流れ出した。そしてその水面は二度と乱されることはなかった。

 そのときになってようやく僕は両手に何も持っていないことに気づいた。さっき驚いた拍子に足元に落としたスイカは粉々に砕けていた。


 できるだけ砂が付いていないものを選んで大きめの欠片を拾い集めた僕は、そのままキャンプに戻った。お母さんにはひどく叱られた。何があったのかは話さなかったから、走っていて転んだのだろうと思われていたようだった。僕は否定しなかった。

 怒られているあいだ、お父さんは何も言わずにただ叱られている僕を見ていた。叱り終えたお母さんが夕食の準備をするために立ち去ったあと、お父さんが僕を手招きした。少しキャンプから離れて、倒木に腰を下ろしたお父さんは、隣に座るよう僕に促した。

「叱られたなあ」

 僕は鼻水をすすり上げながらうつむいて泣いていた。涙が止まらなかったのは叱られたからではなかった。お父さんとお母さんが任せてくれた大事なスイカを台無しにしてしまったからだった。お父さんは口には出さなかったけれど、僕が泣いている理由を分かっていてくれている気がした。

「何かがあったんだな」

 僕は黙っていた。お父さんも無理に聞き出そうとしていたわけではなかった。

「いつか話したくなったら教えてくれ」

 お父さんはそう呟いたあと、ところで、と明るく続けた。

「まさかもう片方のスイカは落としてないだろうな?」

 僕は慌ててポケットをまさぐった。そして安堵した。

 今朝、電車に乗るときに初めて使ったそれはちゃんとまだそこにあった。僕はそれをポケットから取り出して、誰からもよく見えるように高々と突き上げて叫んだ。

「もちろんだよ! こっちのスイカは落としたりするもんか! JR東日本のSuica! 北は北海道から南は九州まで広がる利用可能エリア、それもますます拡大中! 券売機に並ぶ無駄な時間にはもうサヨナラのオートチャージ機能! 使えば使うほどポイントの貯まるお得なクレジットカード機能! もちろん切符を買うだけじゃない! 便利な電子マネーがあれば小銭じゃらじゃらの重たいお財布にもサヨナラさ!」

 ここで、お父さんと、そしていつの間にか傍らに来ていたお母さんと河童の4人が、それぞれ手にしたSuicaを画面に向かって突き出す。

「今年の夏はこっちのSuica!」


 画面は次の番組へと切り替わっていたが、真夏の自室でビールのグラスを片手にテレビを見ていた俺は、そこまで簡単に自分に切り替えられずにいた。

「……なんだ今のCM」

 どうでもいいがそのときの酒のつまみは酢漬けのイカだった。

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