私のうさぎさん

ふわり

第1話

 落雷が深夜3時の真夜中の闇を切り裂くような衝撃でした。あたしがあなたに差し出せるものはこれだけ。学校一のひねくれものの、くもりひとつない透明な純情だけ。

 一目惚れでした。

 セクシャルマイノリティと呼ばれるひとたちが毎夜集まる新宿2丁目のミックスバーで、あたしはあの子を見つけてしまったのです。

 彼女の細すぎる口筋に描かれていた小さなうさぎのタトゥーに気づいたときの燃え上がるような興奮が、人見知りでシャイなわたしを奮い立たせてくれました。最近のお気に入りであるうさぎのぬいぐるみのリュックを胸に握りしめて、あたしはあの子との初めての接触を果たしたのです。


「あの。あたし実は、自分で言うのは恥ずかしいけど、すっごくモテるんですね。どれくらいモテるかと言うと、あたしと付き合いたいって女の子が1年後まで、待ち行列をつくってるくらい。だから、むしろ、手一杯って感じなんですけど、あの、あなたなら、あたしの25番目の彼女にしてあげてもいいです。だから、あたしのものになってくれませんか」


 ミラーボールを反射してきらきらと点滅するうさぎさんの瞳があたしをじっと見つめていました。


「なにそれ。ギャグ?全然笑えないけど」

「ギャグじゃないです。大真面目です。一世一代の告白です。だから、返事、聞かせてくれませんか」


 うさぎさんは金色というより白に近い短く刈られた髪の毛をうっとうしそうに一振りして、「やだ」と、そのたった一言だけを口にしました。


「おれ。あんたみたいな不思議系メルヘンちゃんは好みじゃない。ってか、むしろ、嫌いなんだわ。悪いけど」


「あなた、歳は何歳?随分と若く見えるんだけど。まさか未成年じゃないわよね」


 第三次成長期に差し掛かっている珍妙な身体をしたニューハーフの店長は、あたしの手渡した履歴書を胡散臭そうな目で眺めています。人差し指と中指でつまんでいる火のついたマルボロのタバコから出ている煙が部屋を充満させていきます。どうにでもなれという気持ちで「三度の飯より女の子が好きなぴちぴちのハタチです」と言ってみると、ニューハーフはふふん、と含み笑みを浮かべて、「まあいいわ。とりあえず1日、体験入店してみなさい」と優しく応えてくれたのでした。


「今日からお世話になります。零です」

「よろしく。・・・って、うわ、まじかよ」


 まるで道端を這っているゴキブリを見つけた時のように嫌そうな顔をしたうさぎさんに、あたしは少なからずショックを受けました。好きだと言っただけなのに、何という嫌われようでしょう。うさぎさんをあたしのものにするまでの長い道のりに想いを馳せながら、「覚えてもらえていて光栄です」と言って、できるだけ可愛く見えるように意識しながらぴょこんとお辞儀をしました。


「何だお前、こええ、ストーカー。つーか髪」

「はい。うさぎさんとお揃いにしました。金髪にしたのなんて生まれて初めてです。どうですか?似合ってますか」


 昨日の夜、美容師さんにうさぎさんの写真を見せて、全く同じ髪型にして欲しいと頼み込んだことを話すと、もともと不健康に見えるうさぎさんの顔色が更に青ざめたような気がしました。


「あんたたち、何やってんの。そろそろ開店するから、準備なさい。拓兎、零にあんたの衣装、貸してやって」


 慌ただしくグラスを補充している店長がそう言うと、うさぎさんは「まじかよ!勘弁してくれよ」と頭を抱えつつも、あたしの為に一着、黒ずくめの衣装を貸してくれました。黒いレースが一面に施された複雑な造りのジャケットに顔を近づけると、店長が吸っていたのとは違う、鼻の奥をツンと刺激するメンソールの煙草の匂いが漂いました。


「あら、新人ちゃん?よろしくう。あたし、トシコって言うのよ。本当はとしおだけどね」

「あなた、何だか拓兎と雰囲気が似てるわね」


 どうして男のひとが好きな男のひとというのは女のひとの話し方を真似るのだろうと不思議に思いながら、彼らの注文した可愛らしい名前のカクテルをビーズでできたコースターの上に置きました。すると突然、バーの中が暗くなったと思うと、お客さんのひとりが口笛を鳴らして手を叩き始めました。何が起こったのか分からず呆然としていると、部屋の中央に置かれていた小さなメリーゴーランドに、深海のそれを思わせるぼんやりと青い光が灯され、メロウな音楽が流れはじめたのです。目を凝らして良く見ると、ひとりの女性が陶器でできている馬の上にまたがっているようでした。それがうさぎさんであるということに気づき、あたしの小さな胸はこれ以上ないくらいに激しく収縮を始めました。

 それはまるで夢でも見ているかのような10分間でした。ゆっくりと巡廻するメリーゴーランドの上で踊るうさぎさんに向かって、数え切れないほどのスマートフォンがシャッターを切っています。あたしはムービーを撮ることも忘れて、彼女のつくりだす魔法の時間にまるごと魅せられていました。こんなにも。こんなにもうつくしいひとが目の前に存在している奇跡のような現実が信じられなくて、足が小刻みに震えていました。


 その日の仕事が終わり、店員のために用意されている更衣室の扉を開けると、うさぎさんはまだ戻ってきていませんでした。ちょうどよかった。わくわくする気持ちを抑えられずに、「拓兎」という名前のネームプレートの掛けられたロッカーを開きます。使い古してくたくたになっている黒いリュックには、束になった原稿用紙が詰め込まれていました。

 更衣室の扉を開けて、誰も戻ってこないことを確認してから、原稿用紙に書かれていたねずみのはったような汚い字の羅列に目を通し始めます。それは一本の小説のようでした。高校生。一人の少女が命を燃やして誰かを手に入れたいと願う、刹那的な時間。恋と呼ぶには苦しすぎて、愛と呼ぶには身勝手すぎる。未熟で幼いそんな感情の話でした。

 読み終わると、唇の隙間から、ふうと、ため息が漏れました。瞬きをすると目の渕からぽろりと涙が溢れて、だからそのときはじめてあたしは、めったに人間に興味を抱かない自分の心が震えているということに気がついたのでした。



 「肉まんとあんまん。私とあなたで半分こしましょう」


 コンビニで買ったばかりの白い饅頭をぱかりと二つに割って、寒そうにポケットに手を突っ込んで真っ赤な毛糸のマフラーに顔をうずめているうさぎさんに差し出します。

 うさぎさんは両手で肉まんとあんまんを掴むと、二口で飲み込みました。びっくりしながら「熱くないんですか」と聞くと、「舌、火傷した」と言うので、あたしはうさぎさんの後頭部を掴み、その小さな唇に口付けました。力一杯抵抗するそぶりを見せているけれど、いくらあたしを拒否しようと無駄なのです。だってうさぎさんはあたしよりもずっと背丈が小さくて、か弱い生き物だから。

 顔を離すと、私たちの唇と唇の間から煙のような真っ白い吐息が立ち上りました。真冬だというのに、マラソンを走ったあとのように、全身が熱くてたまりません。もう一度、うさぎさんとキスがしたい。うそみたいに柔らかそうな身体の感触を知りたい。薄皮一枚に隔てられているうさぎさんのたましいに触れてみたい。あからさますぎる欲望を露わにしたあたしに、うさぎさんはいきなり平手打ちを食らわせました。目の端にお星様が飛ぶくらいの勢いで。


 「痛いです」

 「痛くしてんだから当たり前だろ。勝手にそういうこと、すんな」

 「許可をとったら、してもいいんですか。だったら、あたし、うさぎさんのこと、今すぐめちゃくちゃにしたいんですけど」


 細い手首を掴み、食い気味にそう叫ぶと、うさぎさんはあたしの手を振りほどいて、「だめ。できないんなら、おれから離れてくれって、何度も言ってんじゃん」と怒ったような顔をして言いました。だけどうさぎさんの目を見れば、本気で怒っているわけではないということがすぐに分かります。突き放さないずるさを知りながら、あたしはうさぎさんの後ろをとぼとぼと歩きました。コンクリートの歩道にはあたしとうさぎさんの背丈の違う影がふたつ伸びています。


 「文芸賞、落ちた」


 あたしは何と答えたらいいかわからず、黙ったままでした。毎日のバイトが終わってから、うさぎさんが近くにある喫茶店で小説を書いていることをあたしは知っていました。小説に向き合っているときのうさぎさんはいつになく真剣な目をしているので、話しかけることなどとてもできなかったけれど、あたしは度々物陰から、うさぎさんを覗いてみるのが好きでした。ばれないように、邪魔しないように、わざわざ一番遠くの、トイレの側にある席に腰掛けて。

 丸まった背中から、うさぎさんの落ち込みようが伝わってきます。あたしがなんとかしなければ。気持ちを奮い立たせるようにして、猫背に「うさぎさんは才能がありますよ」という言葉をかけました。


 「あなたの書いた小説を初めて読んだとき、世界の色彩が変わって見えました。小説のことは良くわからないけれど、面白いって、きっとそういうことを言うのでしょう?」


 うさぎさんは黙って、点滅する青信号をじっと見つめていました。何を考えているか分からない無表情がミステリアスで、こっちを向かせたくてたまらなくなります。あたしが妄言をつぶやいても、あなたの周りを飛び跳ねても、うさぎさんは一度だって、あたしのことを見てくれたことはないけれど。恋は女の子をばかにさせる魔法なのです。あなたのことしか考えられない愚かなあたしはきっと、あなたに死ねと言われればビルの屋上から飛び降りることだってできるでしょう。


 「きょう、いえ、くる?」


 信じられなくて、右手に持っていたかじりかけのあんまんの地面に落としてしまいました。突然、横断歩道の向こう岸に向かって走り出す背中を、あたしは無我夢中に追いかけました。車のクラクションが鳴る音を耳の奥で聞きながら、迷惑そうに叫ぶ男のひとの表情を目の端で見つめながら、いつの間にか、先の見えない闇の中を駆けていました。どうしてかは分からないけれど、何もこわくありませんでした。あなたのことを見ていると、不安ばかりの胸の中が、一瞬で光で満たされていくのです。



 芥川龍之介、川端康成、サリンジャー。見渡す限り本の山でした。小さな四畳半の部屋の中は、古本特有の湿った紙の匂いに混じって、うさぎさんが始終吸っているタバコの香りがします。生活感のようなものはまるで感じられない本棚とベッドだけの無機質な部屋の中で、あたしはうさぎさんのストイックな毎日を想像していました。本を読んで文字を書く。ただそれだけの毎日を。


 「夢をみるってどんな感じなんですか」


 唇からいきなり言葉が飛び出します。うさぎさんがぎょっとしたような顔をしていたので、慌てて言葉を重ねました。


 「あたしは何もないんです。空っぽなんです。将来やりたいことも、ほしいものも、何も」

 「お前、つまんねー女だな。なんの為に毎日働いて飯食って寝てんだよ」


 得意そうな表情を浮かべるうさぎさんの声の中に、あたしに対する嘲笑の色が混じっていることは分かっていました。けれどそれは本当のことだったので、あたしは黙ったままうさぎさんの話を聞いていました。うさぎさんの声はますます高く、大きくなっていき、白い頬が紅潮していくのが分かりました。


 「物語が好きなんだ。子どもの頃からずっと。おれをここじゃない何処かに連れて行ってくれる。物語がなければ生きてこれなかったし、これからだってそうだと思う。おれがやりたいのは、おれみたいな人間をさ、誰も行ったことのない場所に連れていくことなんだよ」


 うさぎさんの深い海のように物憂げな瞳の中には確かにあたしが映っているのに、うさぎさんはちっともあたしのことを見てはいませんでした。こんなに近くにいるのに、もしかしたら一度も、あたしのことなんて。

 そのことに気づくとひどく残酷な気持ちが胸の奥からむくむくと湧いてきて、あたしはうさぎさんに向かって銀色に光るナイフを投げつけていました。


 「それって、ただの現実逃避じゃん」


 うさぎさんは夢から醒めたときように澄んだ目であたしを見つめました。そんなこと言うべきじゃない。言ってはいけないと、頭の中で黄色の危険信号が点滅しているのに、あたしはうさぎさんの心の奥をずたずたに切り裂いてやりたいという欲望に打ち勝つことができません。気づくと唇が残酷な言葉を紡いでいました。


 「物語なんて読んだって、どこかにいけるわけじゃない。フィクションが誰かの人生を救ってくれるわけじゃない。辛いことから逃げたって、余計状況が悪くなるだけだもの。意味ないよ。英単語のひとつでも覚えた方がずっと」

 「お前、何なわけ。うぜーんだけど」


 ぴしゃりと冷たい水を浴びせるような声がして、あたしの胸は急に静まり返りました。あたしの顔を見ないうさぎさんは、全身からぴりぴりとした殺気を感じさせて、「帰れよ」とたった一言を口にしました。


 「好きです」


 青白く光っているように見える横顔に何度繰り返したかわからない言葉を告げると、うさぎさんはあたしの顔に向かって煙草の煙を吐き出して、鬱陶しくてたまらないと言いたげな表情で首を振りました。


 「消えろ。もう二度とおれに話しかけてくるな。次会ったらぶっ殺す」


 どうして、うさぎさんを傷つけるようなことを言ってしまったんだろう。どうしてあたしはいつも、大事なひとの大事なものを大事にできないんだろう。自分の家に続く道を歩きながら、うさぎさんの家にお気に入りのうさぎのリュックを置き忘れてきたことにふと気付きました。中に入っている錠剤のことを思うと、ますます頬を伝う涙が止まらなくなりました。

 次の日、あたしはアルバイトを無断で休みました。そして、次の日も、また次の日も。途切れなくかかっていた電話はある日を境に途絶え、あたしのスマートフォンが震えることはなくなりました。どんなに履歴を遡っても、その中にうさぎさんの着信はありませんでした。

 一枚一枚、うさぎさんを写した隠し撮りの写真を削除していきます。カメラロールを空っぽにしたとき、初めて気づきました。あたしたちの間には、悲しいくらい、確かなものは何もなかったということに。



 ご飯を食べて、歯を磨いて、お風呂に入って、布団に潜る。朝日が昇って沈む度、ひとつひとつ、うさぎさんのことを忘れていきます。気難しい無表情やお酒で掠れた声、タバコの匂い。かつてのあたしがこっちを向かせたくて仕方なかったそういうもののことを。

 ただひとつ。忘れなかったことがありました。それは文学賞の受賞者をチェックすること。うさぎさんの執着しているものが嫌いで憎くて仕方なかったのに。うさぎさんの名前をインターネットの検索欄に打ち込む度、はやる気持ちを抑えられないのです。うさぎさんは魔法使いのような女の子でしたから。あのこはこの世界でたったひとり、あたしのようなどうしようもない狂人に、終わらない夢を見せてくれるひとでした。


 「これ。更衣室のゴミ箱に突っ込まれてたの拾ってきたのよ。迷ったんだけど、あんたに読ませようと思って。あの子が小説書いてたなんて、あたし、知らなかったわよ」


 私がバイトを無断欠勤して半年が経過した頃でした。ドアの前に所在無げに立っている店長の姿を認めて、思わず逃げ出したくなりました。そんなあたしの思考を知ってか、店長は呆れたような笑みを浮かべて言いました。


 「取ってくいやしないわよ。出てきなさい引きこもりちゃん。あんたにとって必要な話を持ってきてあげたのよ」


 店長は半ば無理矢理あたしの部屋に身体をねじ込み、「ひどい部屋ねえ、ゴミ屋敷じゃない!」と悲鳴をあげました。無理もありません。もう何ヶ月も極力家を出ず、お風呂にも入らないような生活をしていたからです。ゴミ袋に入った弁当の空き容器に黒い虫がたかっているのを見た店長は顔をしかめながらも、あたしに原稿用紙の束を手渡しました。水に濡れたのか、表面が所々波打っていることに気づきます。表紙と思しき面には見覚えのある綺麗とは言えない文字で「私のおひめさま」と書かれてあります。あたしはしばらく突っ立ったまま動けませんでした。その文字に吸い付けられて、過去のあたしに引き戻されて、身動きが取れなかったのです。


 「読まないの?」

 「・・・怖いんです、何かを期待して、傷つくことが。手に入らないもののために全てを投げ出してしまうことが」

 「とにかく、渡したわよ。あとはあなたが考えなさい」


 店長はそれだけ言うと、あっさりと私に背を向けて去っていきます。首に巻かれていたピンク色のスカーフのスパンコールが月光に照らされてきらきらと光っていて、その煌めきがいつまでも目の奥に焼き付いて離れませんでした。


 ーあの子のぬいぐるみのうさぎ。それが僕だ。三歳の頃からずっといっしょにいる。


 書き出しを目にした瞬間、気が触れてしまいそうなほど痛く、それから甘いざらざらとした記憶が、胸の奥を突き上げてくるのが分かりました。目で文字を追うスピードが増すほど、シャッターを切るように、次々と連写されるうさぎさんの粒子が、あたしの心を追い立てていきます。自分とは違う人間を大切だと思うこと。それに纏わる苦しいほどの感傷が、そこには綴られていました。わかる人にわかればいい。そんな開き直った文章に、そこにはっきりと現れているうさぎさんの面影に、思わず微笑みを浮かべながら、気がつくとあたしは、部屋着のままで家を飛び出していたのです。


 あたしの足が思い切り地面を蹴っているなんて、はじめは信じられませんでした。運動なんて大嫌い。体育の授業は適当な理由をつけて見学するのがデフォルトあったあたしが、生まれて始めて全力疾走をしていました。身なりに構わず、化粧が崩れるのも忘れて、無我夢中でした。あたしの手で、欲しいものを捕まえるために、走っていました。あんな小説を書いたくせに、あたしに読ませることをせず、いつかすっかり忘れられることだけを願ったあの子の面倒くさい純情が、あたしは本当に、本当に、たまらなく。


 あの子に会いたい。会いたくて、仕方がなかった。



 真っ暗闇の中に一人たたずんでいたあたしの姿を認めたうさぎさんは苦虫を噛み潰したような表情で言いました。


「出た」

「まるで夏の夜に見る害虫が出たような言い草、やめてもらえますか」

「害虫だろ。害虫。他の何者でもねーよ」


 あたしの目の前にいるうさぎさんは、半年前と何も変わっていないように見えました。うさぎさんの華奢すぎる首筋をじっとりと眺めながら、彼女の影のように、後ろをついて歩きます。拒否されるかもしれないと身構えていたのに、うさぎさんは何も言いませんでした。


「どいつもこいつもおせっかいだよな」

「小説のことですか。あの、あたし、その」

「勘違いすんなよ。店長にも言ったけど、別に、お前のこと好きとかそんなんじゃねーから。天地がひっくり返ったって、マジ、ありえねーから」


 耳の裏がかすかに紅色に染まっているのを見て、うさぎさんの分かりにくさに気がつきます。背中を追い越して、通せんぼをして行く手を阻むと、うさぎさんは戸惑ったような表情で私を睨みました。


「いらなくなったぬいぐるみみたいに、大事にされていたひとに捨てられるのが、あなたは怖いんですか。だからみんなと距離をとって、ひとりぼっちのままが安全だって、そう思っているんですか。あたしのこともそんな風に、遠ざけたかったんですか」

「うっとうしいこと言うなよ。帰れよ」

「嫌です。本当のことをあなたの口から聞くまで、ここを動きません」


 青から赤に点滅し始めた信号機を無視して、横断歩道の真ん中で立ち止まります。車のクラクションが辺り一面に鳴り響き、窓から顔を出して叫ぶ男のひとの怒号が、鼓膜を破りそうな勢いで突き刺さりました。

 あたしとうさぎさんはお互いを見遣ったまま、たち尽くしていました。うさぎさんがあたしのために折れてくれるのを待っていました。そしてその祈りはすぐに実現することになりました。


「・・・もう平気なのかよ」


 ぶっきらぼうな声がして、顔をあげます。


「何がですか」

「うさぎのリュックに入ってた、大量の錠剤。お前、平気なのかよ。お前、びょーきなのかよ」


 御守り代わりにいつも持ち歩いたゼパム錠の白色を思い返して、ため息がこぼれます。睡眠導入剤も、抗不安剤も、自分を着飾る言葉も、うさぎのリュックも、もう何もいらない。何もなくたって、あたしは何とかやっていけるかもしれない。不器用なうさぎさんの優しさに触れて、始めてそう思えたのです。


「大丈夫です。きっと。あなたがこれから先もずっと、あたしのそばに居てくれるなら」


 うさぎさんの手のひらは子どものように熱くて、じんわりと湿っていました。車のヘッドライトがうさぎさんの横顔を白く照らしています。


「夢はないって言ったけど。あたし、夢、あります。うさぎさんと一緒にいること。うさぎさんを幸せにすること。うさぎさんに欲望されること。でももう、いっこ、叶った」


 鼻で笑う音がしました。だけどもう、後に引くことはできませんでした。


「つまんなくてもいいんです。誰かにバカにされても、後ろめたくても。それがあたしの大切な夢だから」


 右腕を掴まれて、歩道側に引っ張られます。うさぎさんのきれいな顔がすぐ近くにあります。その真剣な瞳を前にした瞬間、心臓が急速に収縮を始めるのが分かりました。


「夢に小さいとか、大きいとか、ねえと思う。おれは」


 唇に柔らかいものが触れました。うさぎさんの感触が少しずつ、あたしから遠ざかっていきます。そのキスは、甘いスポンジケーキのような、真冬に包まるお布団のような、しあわせの味がしました。


 「あ」


 びっくりしたようなうさぎさんの声に、上空を見上げると、闇夜の真ん中を横切るように、星がふたつ降っていました。

 私の手を離さないうさぎさんが言いました。


 「夢、叶うといいな。お前もおれも」

 「いつかきっと」


 

 いつかきっと。

 いつかきっとあたしたち。

 童話に出てくるような光景を前にしたあたしは、言葉を探すよりも先に、うさぎさんの華奢な身体を抱きしめたのでした。



【おしまい】


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私のうさぎさん ふわり @fuwari

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