#6 届かない、届かない


 遡ること、数時間前。


 ワインカラーのシトロエンDSは、キムの運転の元、助手席にシャーリー、後部座席にチヨを乗せた状態でストリートを走り始めていた。


 事務所のある場所から、パーシング広場の方角に向けて疾走していく。ダウンタウンの猥雑な光景が流れていく。


 時刻は午前10時過ぎ。アンダーグラウンドの常として、日差しは完全には降り注がず、上空の影の影響でどこか薄暗い情景には変わりなかったが、やはり活気はあった。

 アロハシャツ姿の、キリンの首を持った行商人が怪しげなアクセサリを道端で売っていて、それに黒人の青年が食いついている――首が、金属のシャフトになっている。その横を、美しい容姿をしたフェアリルのカップルが、どこか侮蔑を含んだ目付きをしながら通り過ぎていく。

 同じ種族の者は、同じ種族の者と付き合う――人種が『種族』に変わっただけの、この世界の不文律。


 それらをどこか疲労の混じった苦笑いで見やりながら、キムは運転している。カーステレオでは相変わらずスタートレックのテーマソング(微妙なバージョン違いらしい。その違いなど、分かるわけがない)が流れている。


「……」


 シャーリーはそんな彼女を横目で見る。


 先程の行動には少し驚いていた。だがそれは、意外な一面というわけではなさそうだった。彼女と出会ってからずっと、キムは……『和』を大事にしているという印象があった。そんな彼女の印象は、シャーリーにかけられる言葉にもはっきりとあらわれた。


「……あの二人はいつもああっスから。あんまり気にしないほうがいいっス……いや、それも難しいっスよね、あはは」


 困ったように笑う。シャーリーは答える言葉が見つけられない。


「んー……」


 キムは言葉を探してから、言った。


「ミランダさんは心配して言ってたんだと思うっスよ……あんな喋り方しか出来ないだけで」


 どこか慰めるような調子。しかしシャーリーは流れていく雑多で騒がしいダウンタウンの景色を見ることなく、物憂げに下を向いている。そして、小さく言った。


「そうでしょうか……ボクには、あの人が……まだボクのことを認めていないように見えました」


「……」


 キムは、何か言葉を返そうとした。だが口は半端に開けられたまま、何も言うことはなかった。結果として、沈黙だけが訪れる。


「……――と、とりあえず。買い物行きましょう。シャーリーちゃん、服とか、欲しくないっスか??」


 ややあってから、キムが言った。


「え? えっと、その……はい、服ですか、服!?」


「そ、そう、服!! シャーリーちゃんボーイッシュだからどんなのが似合うかなあって、あはは――」


「えっとそうですね、えっと――……」


「……そのへんにしておけ」


 ――さっと水を落とし込むように。

 口を挟んだ低い声は、チヨのものだった。

 キムが一瞬だけ振り返る。


 信号が赤になり、停車する。横や後ろには、もうもうと立ち込める排気ガス。誰も彼もが不満げな顔をして、赤いランプに苛立ちを向けている。


「チヨさん……?」


 シャーリーが少し怯えたように、言った。

 チヨの視線は――どこまでも冷たく尖っていた。


「……あの女の言い草はともかく。ハッキリ言って、儂もお前の戦う理由に関しては納得しきっていない」


「……っ!!」


「ちょっと、チヨさんっ……」


「お前から時々にじむ怯えのようなもの。それはお前の中で、何かが未成熟だからだ。ゆえに、お前はあの女たちに言い返せなかった。違うか?」


「それは――」


「ちょっと、チヨさんッ!!」


「……面倒だ、コレ以上は言わん。だが、もしひとつの理由だけで戦うのなら。それに全てを賭けられるようにしておけ。でなければ、ぐらついた足元がお前の命取りになる」


「……」


「――第八機関に居る女はろくでもない阿呆ばかりだが……少なくとも皆、地面だけはしっかり踏みしめている」


 諭すようでもなく、責めるようでもなく。ただ淡々と、事実だけを述べるように、チヨは言った。


「……はい」


 シャーリーは、そう返す。消極的な返事。チヨはなにか反応しかけたが、やめる。そのまま再び、腕を組んで目を瞑る。

 ――信号が青になった。

 車はそのまま、目的地へと進んだ。


 昼下がりの時間は過ぎていく。

 鳥の姿をした者達が飛び去って、その合間を這うようにして、薄汚い身なりの労働者達が地面に痰を吐きながら進んでいく。あまりにも明瞭な差。大画面液晶がアンダーのどこかで起きた(起きている、と言ったほうがよいか。どうせ毎日どこかで何かが起きている)爆発事件を報道する。

 そして、標識が今日の街の危険度を告げる――そして、雲は流れ行く。あまりにもはやく。すべてを急かすように。


 その中で――シャーリーは俯いた顔のまま、流れの中に居た。キムは彼女を引っ張っていき、買い物に連れて行った。ウィンドウショッピングである。


「いいっスか?? シャーリーちゃんだって女の子なんスから、もっとかわいげのあるカッコしなきゃ駄目っスよ!! 萌えですよ萌え!!」


 どこか古めかしい文言を聞きながら、キムはシャーリーを人形のようにして次々着せ替えていく。彼女自身は極めて地味なスタイルであるというのに勝手な話だ。


 シャーリーは苦笑いしながら、その犠牲になる。自分には似合いそうにない、ふりふりのワンピースやキャミソール。


「うひゃ~~~、超かわいいじゃないっスかぁ~~~~、買いましょうよ~~~~!!!!」


「え、遠慮しときます……」


「えー、どうしてー」


「ボクには……こういう女のコっぽいの、似合いませんよ。こういうのは……」


 ――こういうのは。



 きっと、エスタなら。



「……っ」


 押し黙る。馬鹿げたことを考えた自分を心の中で殴りつける。何度も、何度も。


「……そんなに嫌っスか?」


「いや、そういうわけじゃ……」


「じゃあもっと着てもらうっスよ!! あたしの目の保養のために、ねッ!!」


「うわわっ……」


 キムは発奮した――更に服を持ってきた。

 その後ろでチヨが唯一人――つまらなさそうにあくびをしていた。



 雲は流れていき、時間が過ぎていく。そしていつしか、浮島の下の世界には夕陽が差し込んでいく。影が常に支配している世界であっても、それは目を細めなければならないほどに眩しさに満ちている……とろけるような気温。


「いやぁ~~~~~~~、カネ、使ったっスねぇ~~~~~~~~~」


 パーキングに徒歩で向かいながら、キムが言った。そして腹を擦る。


「あはは……」


 うまくないシャーリーの愛想笑い。

 先程まで彼女達はカフェに居た。言ってしまえば、チヨのために、だ。


 そこで銀髪の和装少女は終始鉄仮面を被り続けていたものの、キムの約束通り和菓子のセットを奢ってもらうこととなり、どことなく嬉しそうな雰囲気を見せていた。まるで、愛想の悪そうに見える猫が、実は機嫌がいいことを示すため静かに尻尾を振るように。


 そして……。


「ううっ……」


 チヨは――食べすぎていた。


「がっつきすぎっスよ、チヨさん」


「……やかましい……――叩き斬るぞ」


「おー、怖い怖い」


 キムは笑う。

 ……シャーリーにとって、その余裕は羨ましかった。

 自分はこんなにも……。


「……」


「シャーリーちゃん」


 キムが、声をかけてくる。車の音が響く。だがそれでも、彼女の不安そうな顔はシャーリーを見ていた。


「……は、はい」


「今日……楽しかったっスか??」


「……――」


 その問いに。

 シャーリーは答えられない。


 行き交う車の群れ。ごった返すフリークス。その中で、時間が止まったように、三人。刻印された夕暮れ。下を向く。それから拳を握って顔を上げて、笑顔を作る。

 上手に、出来ただろうか。


「……はい」


「……――」


 キムはそこで、何故か泣きそうな表情を見せた。胸に風穴が空いたような。


 だが、それ以上は追及してこなかった。夕暮れのダウンタウンに吹く風が、彼女のソバージュの髪を揺らした。


「……そう、っスか」


「……」


 たった、それだけの返事。

 シャーリーはその場で胸をかきむしりたいような衝動に駆られる。


 どうして……どうしてこの人がこんなに優しいのに、自分はこんなにも。

 やはり、自分は彼女達には――……。


「今日は……全然、グッドマンさんから連絡がないっスねぇー」


 キムが大きな声を出した。僅かに上を向きながら。しかしそこに抜けるような空はない。あるのは、空に浮く島の影である。


「たまにはよかろう。頭が痛くてかなわん。カタナを振るう気にならん」


 チヨが、眠たげな声で続ける。


「あはは、そうっスよねー」


 どこか、油をさしていないようなぎこちない会話。


「……」


 そして三人は、駐車エリアに向かう。



 ――だが。

「お、あったあった」


「ないわけがない」


「分かってるっスよ」


 その会話の、合間に。少し離れたところを歩きながら――シャーリーは見た。

 その情景を。ぽっかり空いた、その場所を。



 薄暗い室外機の連なりと、西部劇の枯れ草のように吹いていくゴミの間に薄汚れた路地裏が通っている。極彩色の落書きと、べとついた空気に装飾されたその空間。


 すぐ手前には喧騒があって、ウィンドウショップが立ち並び――その前を何食わぬ顔で着飾ったフェアリル達が通り過ぎ、テロド達が音楽を聞きながら立ちすくんでいる。誰もそこに気付いていない。……そこで起きていることに。


「……」


 シャーリーは見た。シャーリーだけが、その状況を見た。



 男が、薄暗いその空間の中で、一人の少女を襲い、どこかへ連れ去ろうとしているのを。



「なんで、誰も――」


 後方はあまりにも騒がしく。


 だが、シャーリーの目に見えているその場所は。まるで無声映画のように静かで。切り取られた絵のようになっていて、全てが淡々と進行していて――。


 誰も気付いていない。キムとチヨが車に乗ろうとしている。二人ですら気付かない。


 シャーリーだけが気付いていた。


 そう、自分だけが……その現場を素通りしなかった。声なき声が叫んでいた。更にその奥に、もうひとりいる――。


「っ……!!!!」


 全身の粟立ちを感じた時には、既にシャーリーは身を翻していた。

 電撃的速度でその場所へ向かう。


 ……唐突に駆け出した少女に、周囲が少しだけざわめく。だがすぐにもとに戻る。


「――おい、」


「シャーリーちゃん!?」


 チヨが気付いた。一瞬遅れてキム。駆け出したシャーリーは止まらない。一瞬だけ振り返って叫ぶ。


「あそこに! 連れ去られる女のコがっ!!」


 それだけ言って路地裏に向かう。薄暗い空間へ到達する。


「助けますっ!!!!」


 その少女はズタ袋のようなものを大柄の男に被されようとしていた。苦しげに呻き、身体をばたつかせる。だが男によって四肢を拘束されて動かない。上から覆い被さるようにして。

 シャーリーはそこへ突撃していった。そして叫ぶ。


「ッ、この、やめろッ!!!!」


 男が声に気づいて身動ぎした。だが――。


「ッらぁッ!!!!」


 シャーリーは男に体当たりをぶつける。すると同時に彼の身体がぐらりと揺れて、少女が開放される。その顔が見える。ごく幼い少女――一瞬安堵する。そして、複数の状況が同時に起きる。

 時間がスローになる。チヨが……シャーリーに向かって走ってきていた。カタナを抜いて。キムが、壁沿いに手を這わせていた。そこに電気がほとばしっている。シャーリーが彼女達を見て……少女を見た。


「頼みます!!」


 シャーリーは叫びのままに少女を横へ流した。同時に――視界が暗黒に染まる。見上げる。そこに人影。両手が伸びてくる、先程の男――。


「そうか、なら……


「……ッ!!!!」


 チヨがカタナを抜き去って、その場に踊りかかろうとした。キムも動いた。

 だがその瞬間、2つの異変が同時に起きる。


 シャーリーは右手に意識を込め――サブリミナル的に入り込む思惟――あの力を使おうとした。エスタに届いた手。それを今、自らを軛から解放するために使おうとした。チヨはそのままカタナを振るおうとした――しかし。


「……ッ!!??」


 チヨは。キムは動けない。

 というよりも――瞬時にチヨは判断する。違う、これは。


「何ッ――」


 すぐ上を見る。路地裏の細いパイプの群生する壁、その上、建物の屋上に誰かがいる。今の自分の状況を理解する――体が動かないのではない。

 身体が固定されているのだ。


 理解より先に実感が来たことで、チヨは舌打ちした。遅れてキムも気がつく。自らの身体を、時が止まったかのように固定する、それを――細い細い、鈍色に輝く鋼線。今、身体中に絡みついている。


 そう、その屋上に誰かいる。もうひとり。それがこれを仕掛けたのだ。一瞬で、あっという間に。


「まさかッ――」


 チヨにはおぼえがある。その芸当を可能とする存在を。これまで何度も、衝突の可能性があった。一人しか居ない――こんなことが出来るのは、一人しか居ない!!


「……――!!」


 思考が確信に変わる。時間が切り取られて――屋上に居る誰かの姿が、一瞬はっきりと見えた。


 ……女だ。


 修道服を着た女。気だるげにガムを噛み、こちら側を見下ろしている――殺意など欠片も滲ませずに。

 糸はその女の指先から伸びている、鋭く何本も光っている。それがこちらに向けて放射されている。そして自分たちを拘束している。あの女が。


 そう、自分達のような存在の中で、知らぬ者はまず居ないはずの女。そんな女が何故。


 ――何故、こんなところに……????


 ……女はその疑問符を浮かべた途端、屋上から離れていき、すぐ姿が見えなくなる。一瞬鈍化していた思考が元に戻る。チヨは我に返る。その女のことを、一度頭から切り離す。


 落ち着け、今はそれよりも――。

 高速で思考するチヨは前方を向いた。


 ……シャーリーは。 


「――アーチャー!!!!」


 今まさに、男に……羽交い締めにされようとしていた。


「何をしている!! 力を、使えッ――」


 その叫びと同時に――彼女は顔を向けた。

 そこには、途方もない絶望が張り付いていた――。



「そうか、なら……お前でも丁度いい」


 言葉の意味がわからなかった。ただシャーリーは頭の中が真っ白になって、続いて疑問符がその容量を覆い尽くそうとしているのを知覚した。汗が垂れる。冷たい。


「お前、ただの人間か。ならなおさらだ」


 何を言われているのかわからない。ただシャーリーには絶望だけがあった。右手に力を込めた。あの子を助けたいと思って飛び込んで、今度はこの場を抜け出したいという願いを右手に込めた。だが何も起こらない。何も、何も。


 ――どうして? ボクは今確かに戦おうとしているのに。第八機関の一員として。そのための覚悟ならあるはずなんだ、どうして、どうして――。


 声が遠くなっていく、自分に向けて放たれる声はひどく小さく、そして緩慢に聞こえる。


 脳裏に幾つもの言葉が蘇る。

 キーラ・アストンの告げた言葉。

 ミランダの告げた言葉。


 ――……そんなことはない、そんなことはない。自分が自分を信じきれていないなんてありえない。あの人達が言ったことは嘘っぱちだ、ボクはボクを信じてここに居る、ここに居るんだ、だから――……。


 ……そこで入り込む過去の情景。


 ……エスタとの出会い、更にその前に遡る。


 そもそも。


 ――そもそもボクが、エスタに出会ったのは――。

 本当に、純粋な出会いだったのか????


 ボクはからの逃げ場として、あの子を選んだだけじゃないのか??


「――――…………」


 ……全てが行き着く所まで行き着いた。シャーリーはもはや右腕の力を込めることが出来ない。信じようとしていた。戦意を確かに込めようとしていた。だがそれはもうかなわない。使えない――力が、使えない。


「どうして、どうして――力がっ、」


「少し黙ってろ、お前――」


 その瞬間、シャーリーの思考は断ち切られる。


 目は見開かれ、一つの光景に釘付けになる。それ以外の何もかもが、瞬く間に見えなくなる。エスタの姿でさえも。



 ――車の中に、エスタの母親の姿があった。

 彼女と、目が合った。驚愕がシャーリーを見つめていた。



「逃げて、シャーリーちゃんッ!!」


 動けないキムの叫び。チヨが身を無理やり前へ――何かが肉に食い込んで、血が迸る。


 だが、シャーリーは……。


「……ッ」


 力を使うこともなかった。

 

 ――『なぜ、そこに、彼女が』。

 その思考が全てを上塗りしていたからだ。


 伸ばされた右腕は、あの時エスタを救った力を発現することもなく虚しく宙をかき、男にみぞおちを殴打されて気を失った。そして崩れ落ちる――夕暮れ、路地裏の影の中にすべてが消えていき。



 シャーリーは……その場から姿を消した。

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