#2 シー・イズ・エレクトリック

 ――それが、その夜の出来事の全てであった。


「……」


 そして今、彼女は背中をグロリアに向けたまま膝を抱えている。


 顔は膝と胴の間に深く沈み込み、まるでそのまま小さくなれば地上から永遠に消えることが出来ると信じているかのように、その姿勢をやめようとしなかった。

グロリアは苦笑いを浮かべながら彼女に声をかけようとしているが、なかなか行動に移せなかった。シャーリーは今、動かぬ石像と化している。


 まず何より、自分の行動が恥ずかしかった。自分の体が自分の知らぬ自分の意志を宿して、自分の知らぬ行動を軽々と、それも幾つもやってのけたという恥辱。ぞっとするような行為の数々。以前の自分であればまず晒さなかったはずの痴態。


 それを、それを……この街の人々の真ん中で、堂々と……――ここで、シャーリーは死にたくなった。


 続いて。その行動をグロリアが知っているということが恥ずかしかった。更に言えば、よりによってグロリアなのが恥ずかしかった。これがキムやミランダであれば、まだ多少の安心感があった。その分罪悪感が重なっていたかもしれないが、まだいくらか介抱されたという事実に耐えることが出来たはずだ。


 しかし――グロリアである。出会っていきなりハラスメントをぶちかまし彼女を閉口させ、その最大公約数的アメリカナイズな容姿に違わぬ大雑把かつ破滅的で破天荒なキャラクターをしっかり自分に対してぶん投げてきた彼女が……自分を助けたという事実。


 本来であれば罪悪感で埋められているはずの心の部位の幾らかに、途方も無いほどどうしようもない怒涛のような感情が生まれる。それはある意味自分への殺意と言っても過言ではなかった。ああ最悪だ、最悪だ最悪だ――…………。


「……あのさ、シャーリー……」


「ころして…………ころしてください…………」


「あはは…………生きようよ……」


「キッチン、借りるよ」


 見知らぬ女がグロリアに声をかけた。そして予想通り、この金髪女が許可を出した。誰の部屋かわかってるんですか、などという言葉はもはや出てこなかった。


 頭も痛いし最悪だった。今日一日が過去最低のものとなることは間違いなかった。無論、その最悪の閾値に関しては、毎日のように更新されているのだが。


 ……どうやら見知らぬ女と男はキッチンで朝食をとっているようだった。

 本来であれば他人の家で勝手にブレックファーストと洒落込んでいる時点で論外だったが、今のシャーリーにそれを突っ込む余裕などありはしなかったし、シンクの端からスーパーマーケットのポリ袋が見えたから、自分たちで買ったものを食べていると分かったので、許すことにした。というよりは、見て見ぬふりをした。


「…………あのさ」


 シャーリーは、未だにグロリアに対して背中を向けていた。

 そのままベッドの下に手を伸ばしてシャツやショーツを取って身につける。まるで修験者の儀式のごとく。


「……どうして、そんな無茶苦茶するんですか」


 シャーリーはぽつりと、今更に過ぎる当たり前の一言を放った。


 グロリアはそれを聞くと、しばし頭を捻って考えた。シャーリーよりも遥かに多くの酒を飲んでいた癖に、彼女はけろっとしていた。よほど酒に強いのか、あるいは二日酔いなどどうでも良いほど彼女の身体の容量が酒に置換されているのか。そのどちらかだ。


「でもさぁ。あたし、あんたに酒飲ませようとしてたわけじゃなかったよ。流石に」


「そういう問題じゃないでしょ…………」


 というか、何故そんな半端な部分だけ常識的なのだ。

 そんな突っ込みを入れる気力など、やはり無い。


 ……そのままシャーリーは黙っている。

 するとグロリアは、小さく声をかけてきた。


「ごめんて」


「…………」


「……マジごめん」


 ……顔だけ振り返る。


 そこには少しだけ項垂れているグロリアの顔があった。まるで叱られた大型犬の風情だ。その口は暗い表情を誤魔化すように薄い笑みが浮かんでいて、その様子がなんとも幼さを感じさせた。


 そこには、いっぱしのバツの悪さのようなものが滲んでいる。どうやら彼女は、それなりの罪悪感のようなものを抱いているらしかった。流石に昨晩の狂乱は度が過ぎていていたと、(今更ながら)反省している様子だった――と思わせるだけの態度だった。


「…………良いですよ」


「ごめんね。やりすぎたよ」


「もう二度と、やらないでくださいね」


「ん。分かった」


 ……グロリアは安堵したように少し笑う。

 何とも言えない、胸の詰まったような気持ちになる。

 ええい、シャーロット・アーチャーめ、人が良すぎるぞ。


 だが――その赦しは、不意に無効となる。

 シャーリーが、尋ねたからである。


「そういえば……ボクを脱がせたまでは良いとして。なんで先輩までハダカだったんですか」


「…………――」


 グロリアは。


 顔を、そらした。


 そして。


 ……なんらかのジェスチュアを、指で示した。

 裸。見知らぬ男女。乱れた彼女の髪。

 全てを察するには、それだけで十分だった。


「…………――――」



 数十分後。

 シャーリーは何もかもにだんまりを決め込みながらストリートを歩く。早足で、急き立てられるように。


 その後ろを、金髪と胸を揺らしながらグロリアがついてくる。周囲には変わらない喧騒。


「あのさーーーーーーーーーー!!!!!! だから悪かったってばぁぁぁぁ!!!!」


「…………」


「あいつら帰したでしょーーーーーーーー!!!!!!!! もう許してってばあああああああ、もうあんたの部屋であんなことしないって!!!!!!!!!!」


「…………」


 シャーリーは一瞬後ろを向きかけるが、すぐ意地になって前を向く。グロリアが歩調を速める。そして追いつく。彼女の背中にへばりついて、申し訳無さそうな声音を出す。


「ごめん……ほんとごめん…………ね????」


「…………二度としないでください。ボクを部屋に戻してくれたこととは別です」


「うん、ごめんごめん……じゃあ、許してくれるのね??」


 シャーリーは、深く……深く、溜息をつく。


「…………分かりましたよ」


 そうしてやはり、シャーリーは自分の人の良さを恨むことになるのだが……。

 そこで、変化が起きる。グロリアのリアクションを確かめる前に。



「おい、逃げろ逃げろッ、やべぇぞッ!!!!」

「朝っぱらからなんなのよ、もおおおおおッ!!!!」

「テロか!!!???」

「違う違う、もっとクソッタレだよ!!!!」


 人々が――アウトレイスがストリートの向こう側から逃げてきて、シャーリーとグロリアの横を通り過ぎていく。ひどく余裕がなく、焦った様子で。その人選に統一性はない。人々は口々に焦りと恐怖を口にしながら逃げていく。

 ――何かから。


「……――先輩」


「……うん。向こうで、何かあるっぽいね」


 シャーリーとグロリアは顔を見合わせて、頷き合う。そして、逃げていく人々の流れに逆らうかのように、その流れの根源にある『何か』に向かう。


 ――その『何か』が、『世界の危機』である可能性も、ないわけではないからだ。



『中継は現在サウスブロードウェイに繋いでいます、私ダニエルワナメイカーがお送りしています!!現在強盗グループと警察による激しい銃撃戦が続いています――!!!!』

 

 先日の事件の傷跡が生々しく残るダウンタウンのサウス・ブロードウェイ。


 その通りにあるホープ銀行の前では、武装した警官隊が改造ライフルを構えながら銃撃を一斉に放っていた。


 その向こう側にはドミノマスクをした男達と防弾改造を施されたワゴン車。当然そちらからも銃撃が飛んできて、空気には激しい音色がゴウン、ゴウンと響き渡る。白昼のさなか展開される突然の銃撃戦に、人々は悲鳴を上げながら大慌てで逃げていく。


 ある者は足を増やし、ある者は翼を生やし。またある者は、その場で静止して身を護る。街の状況は例外なく皆に降りかかるが、その対処法はそれぞれだった。


 重金属の折り重なる音色はそれからも続いたが、不意にその状況が変化する。武装した男たちの前面に、一人の男が姿を現した。魁偉な風貌の巨漢である。革ジャケットを羽織り、黒く脂っぽい髪を後ろでまとめている。

 そして、何かを後方から引きずっている。


 警察官達は怪訝な顔をする――が、間もなくその表情が恐怖へと変貌する。


 巨漢は亀裂の如き笑みを顔に浮かべるやいなや、それをぶん回し、前方へと投げ込んだ。


 それは巨大な鉄塊だった。彼の後方から引きずられたというのは間違いで、正確に言えば彼の左腕の先端から鎖と共に伸びていた。テロドの一人たる証――その性質が、凶悪な方向性と共に提示された。


 鉄塊は弾丸のごとく真っ直ぐに伸び、警官たちの居る場所全体に炸裂する。その瞬間大地が震撼し、太く思い衝撃音を奏でる。警察車両数台が後方に纏めて吹っ飛ぶのが見える。へしゃげながら、窓ガラスを吐き散らしながら。当然複数人の警官たちも巻き添えである。


 その瞬間まではスローだったが……結果は現実時間として出力される。へしゃげた車と、既に身体中の骨を折られて息絶えた警官はそのまますぐ近くのビル壁に叩きつけられ、炎上する。

 黒い煙がもうもうと立ち込めて、さらなる悲鳴が上がる。何かが起きるたび、いつも聞こえてくる声。ただただ現実を嘆く声、どうにもならない事をなじる声、エトセトラ。


 だが、それを実際に引き起こして聞くのではまるで違うらしく、男は顔の表面に浮かべた亀裂を更に深める。

 鎖を手繰り寄せて、鉄塊を自分の元へ戻す。前方の生き残った警察車両が引き下がっていき、警察官達の銃撃も遠慮がちになる。全ては鉄塊によってガードされた。


 男の後方の車にはドミノマスクの者達が乗り込んで、走り去っていく――目の端で、それを確認する。すべては重畳なり、というわけだ。


「……あいつ……」


 シャーリー達は、逃げ惑う人々に導かれるようにしてその場所にたどり着き、状況を見た。グロリアの方を見て、問う。『我々はどうすべきか』。


「本来なら、フェイを呼んでるかもしれないわね。でも、今回はギャラリーに徹しましょう」


「……??」


「多分、面白いものが見られるわよ」


 期待の宿る笑みを浮かべて、彼女がシャーリーを見た。



「ははははは!! 歯ごたえがねぇなぁ警察ってのは!! こんなに順調じゃあくびが出ちまうぜ!!!!」


 男は、盛大に快哉を叫ぶ。


「そいつぁどうかな」


 別の声――拡張された声が、そこに折り重なった。

 警察側の後方から、別のパトロールカーが現れる。


 地面に倒れ伏して呻く警官を轢きかけながら、強引にやってきた。銃を構えた警官たちが一斉にそちらを見る。歓迎の顔つきではなかった。数台やってくる。行儀がいいとは言えない駐車方法で、ぞくぞくと。


 そこから、降り立つ者達。


 ――一見しただけで彼らを警察官と見なせる者が居たら、そいつはあまりにもこの街に慣れすぎている。

 申し訳程度に羽織った防弾チョッキとその隙間から遠慮がちに見えるLAPDのサイン。それ以外はラフ極まりない服装と、荒くれた装飾で埋め尽くされている。そんな男たち。

 手に持った銃は先程までこの場で使用されていたものよりもずっと強力な仕様。例外なく人相の悪い者達。だが、彼らも間違いなく警察官だった。


 その荒くれ達はガムを噛みながら、あるいはヘッドホンで音楽を聴きながら、怪訝な顔をしているテロドを威圧する。断じてギャングやマフィアではない。その証拠に、後方から呻き声と共に飛んでくる野次に応戦するでもなく、受け流すことを選んでいたからだ。


「畜生……来やがった、現場泥棒のやくざどもめ…………お前らのせいで我々は……」


 一人がそう言った後、別の声が重なる。冷淡な低い男の声。


「文句垂れるなら戦線の維持ぐらいしてみせろよ、貧弱共」


 メガホンを構えて車の一台から降り立ったのは、モッズスーツとスニーカーを着こなした、マッシュルームカットの男である。

 その目つきは剣呑であると同時に眠たげであり、なんとも油断のならない雰囲気を作り出す。

 その彼が、メガホンを構えて前方のテロドへと声を投げかける。ぶっきらぼうで、ぞんざいな声だ。ここが戦いの真っ只中であることなど、欠片も考えていないような声音である。


「あーあー、聞こえてるか」


 しかし、調子が悪い。声にノイズが入る。彼は小さくFワードを吐き捨ててから、再び声を出す。状況の全ては困惑と共にあり、両者の戦闘は中断されていた。


「聞こえてるか、旦那。投降するなら今のうちだぞ。既にお前は当分娑婆に戻れないだけの罪状を重ねている――数年がかりでな」


 当然、後方のビルの煙は未だ立ち上り続け、その麓には野次馬達が群がっている。


「投降だぁ??? ……嫌だね。さっきの俺の攻撃を見たろうが。お前らが何人集まろうが、結局無駄なのさ。お前らはアウトレイスでありながら、そいつを持て余してるんだからな……クソ規則バンザイだ!! そいつのおかげで俺はこうして立っていられるんだ!! ははははは!!!!」


 男は笑う。心底愉快そうに。そのたびに身体が揺れて、鎖がじゃらじゃらと音を立てる。


 モッズスーツの男はその声を聞きながら、ポケットから煙草――ジタンを取り出して、咥える。メガホンを後ろに放り投げる。

 近くに居た部下らしき男がそれをキャッチする。煙草に火をつける。長い息を吐く。白い煙が口から漏れ出して、空に舞う。彼はそれをしばらく見つめた。


「なんだ、そうかよ」


 煙草の箱をくしゃりと曲げながら、ポケットにしまい込む。


「あぁ――!?」


 彼は、パトカーの内側から無線を引っ張り出し、そこへ何かを吹き込んだ。


「だったら、お前は助からない」


「何を喋って――」


 ……間もなく。

 空から何かが落下して、彼らの間へと突き刺さった。落下音とともに、アスファルトが衝撃でめくり上がり、粉っぽい煙が巻き上がる。男は顔を覆った。

 

 だが、反対側の者達は一切動揺しない。そうなることが当然のように。何かが、その地へと、降り立った。


 ……煙が晴れてくる。


 灰色の向こう側に、そのシルエットが見えてくる。


「……――」


「ッあー、足首捻っちまった。クソッタレが」


 その姿は、異形で溢れ返るこの街のストリートの中にあっても明らかに目立ちすぎるほどに特異だった。首をひねりながら、酒焼けした低い声で女が言った。そしてその姿は。


 燃えるような金色の髪に、紫を基調にしたゴシックロリィタ。殺意すら感じるほどに山盛りにされたマスカラ。白磁のような肌に真っ赤なルージュ。装飾品。不満げに結ばれた歯。その先に挟まれた煙草に――真っ直ぐに射抜くような三白眼。

 

 おとぎ話の人形が残虐な自我を持ち、持ち主に叛逆をする物語があったとしたら、誰もが考える。そんな出で立ちの女が――空から降り注ぎ、そして現れた。

 彼女は地面に作り出された亀裂を何の感慨もなく見下ろしてから、前方を見据えた。前方の敵を。


 ……そう、紛れもなく。この女は、空の上から降りてきた。


「さぁーてと。ショウダウンと行くかぁ」


「――まともに来れねぇのか、てめぇは」


 両腕をぐるぐると回転させながら意気込む女の後ろから、モッズスーツの男の冷たい突っ込み。


「あぁ? こーやって降りたほうが格好いいだろうが」


 女は振り返り、歯をむき出しにしながら吐き捨てる。中型犬の威嚇のごとく。

 言われた男は頭を振って溜息。それ以上何も言わなかった。


「て、てめぇは…………」


 鉄塊の男は、女を見て呆然と言った。


「ん? あぁ――」


「てめぇはまさか…………SCCの……」


「おー、今気付いたのか。スペシャル・ケース・カウンター一班のリーダー、キーラ・アストンだ。よろしくな」


 女はからからと笑いながら、スカートの端を少し持ち上げて返事をした。ほんの少

し小馬鹿にするように。


 すると同時に、逃げ惑っていた周囲の人々が立ち止まり、その姿を見てざわつき始めた。


「おい、マジかよ……」

「なんてこった……」

「最悪だ、ここも大変なことになるぞ……」


 それは決して好意的なものではなかった。誰もが唖然とし、その表情に、良くないものが浮かんでいく。

 やがてその調子が悲嘆に変貌し、そこへ実況中継の拡大音声が覆い被さる。


『今ッ――今、彼女が……彼女達がやってきました、やってきてしまいました!!!! なんてこった、この間もボロボロになったばかりなんだぞ!!!! ああああああ、ここもおしまいだあああああ!!!!』


 それが端緒となって――人々の困惑は怒りに、ざわめきは混声合唱に変貌した。全ては彼女達に向けられた。様々な姿をしたこの街の住人たちが、ならず者(にしか見えない)達に怒声を浴びせかかる。その光景そのものが、まるで一つのパレードのごとく。


「引っ込めええええええ!!!!」

「てめえらが居るから街は余計に無茶苦茶になるんだろうが!!!!」

「うちの息子に悪影響なのよ!!その格好をやめなさい!!!!」

「サインくださいキーラ様!!!!!!」


 キーラと呼ばれたゴスロリ女はそんな怒れる民衆たちに対して電撃的に振り向いて、彼らに負けないような怒声を浴びせた。


「あぁ!!?? てめぇら守ってんのは誰だと思ってんだゴルァ!!!! ぶっ飛ばされたくなけりゃ黙って引っ込んでやがれッ!!!!」


 猛烈な勢いで中指を立てる。まるで烈火のように。当然その『問題発言』を、彼らが見逃すはずはない。民衆の声は更に強まり、その上に好機とばかりにダニエル・ワナメイカーの声が覆い被さる。彼は常々、コウモリの如き男だった。だがそれこそが、この街を生き抜くための手段の一つである。


『キーラ・アストン!!!! キーラ・アストンの登場です!!!! 事件解決の傍ら、起こした騒ぎは数知れず!!!! 人呼んでLAの火薬庫!!!! 今度は一体何をしでかす気なのかぁ!!!!』


「おいテレビィ!!!! てめぇらがどこかに居るのは分かってんだぞ!!!!」


 ……騒動は続く。構図はいつの間にか変わっている。


 そして、二項対立の狭間に居て、知らぬうちに蚊帳の外になっていたのは――あの鉄塊男だ。しばし彼は突如現れたゴスロリの変態女と民衆の言い争いを、呆けた顔で見つめていたが……やがてふつふつと湧いてくる怒りに眉間の筋を浮き立たせた。


 彼の怒りは――すぐさま行動に昇華される。


「てめえええッ!!!! 無視すんじゃねえぞおおおおお!!!!」


 叫びつつ、彼は再び腕の先の鉄塊を射出した。大地が揺れ、轟音とともにキーラに迫る。


 彼女は――未だ怒りの声を上げ続ける人々から視界を外して、そちらを向く。

 ……途端に、彼女の目が剣呑に細くなり……。


 鉄塊が、目の前に、迫る――。


「ッ、おらぁッ!!!!」


 気合いの雄叫びとともに彼女は腕を振るった。渾身の右ストレート。無謀、あまりにも無謀。誰もがそう――思わなかった。


 それは空気を打ち砕きながら鉄塊に向かい――衝突。

 間もなく、拳は撃ち出された鉄の塊を、まるでザクロのごとく粉々に粉砕した。


 時間の流れが、多くの者に緩慢に映った――その中で、光景が刻印される。


 彼女は長い息を吐いた。その視線は男をはっきりと見据えていた。怒りはなかった。ただただ、純粋な『指向性』だけがあった。拳には体重が、いや――彼女の全存在が乗っていた。

 ウェーブのかかった髪が乱れ、花びらのような彼女のスカートが優雅に舞う。何が起きているかわからない人々の顔。勘のいい者達は既に気付いている。キーラの向かい側と同じ顔――唖然。

 警察官達はノーリアクション。それが起きて当然、と言うように。鉄塊は球体から徐々に形を失い、砕け、欠片となってほうぼうへ散っていく。男に向かって。


 ――最後にモッズスーツの男が天を仰ぎながらタバコの煙を吐いた時、一気に時間の流れが戻った。


 衝撃波が起きて、結果が開放される。欠片が飛び散って轟音を立てる。キーラがつんのめりそうになりながら残身する。その先に――砕けた鉄塊がある。


「は――……」


 鉄片は地面に重い音を立てて落ち、男は急激に勢いをなくした腕の先に動揺してよろめいた。


「――やりやがった」

「あいつ、やっぱり…………」


 沈黙していた周囲の者達も、徐々に十分な状況理解を得て、口々に話をし始める。 先程までの怒りはどこへやら。彼らの目の前には、拳を前に突き出しながら呼吸を整えるキーラ・アストンと、鎖の先を砕かれて脱力し、呆然とする大男。その二人の情景。


「――……嘘だろ」


 男は……つい、ポロッと口に出した。まるで、そうすることで自分に憐れみが与えられるとでも言うように。


「……そりゃお前。無茶ってもんだ」


 パトカーにもたれかけながら、モッズスーツの男が小さく呟く。

 ……『やることがなくなっちまった』という旨を、言外に滲ませて。


「――奴はキーラ・アストンだぞ。よほどのバカでもなけりゃ、あいつの拳に挑もうなんざ考えねぇよ」


 その言葉に飾られた女は――みるみるうちに、哀れなまでに覇気をなくしていく男に対して、髪をかきあげてから腰に手を当てて……気だるげに指さして、言った。そこには、何かを達成したような表情と、呆れたような表情の両方が浮かんでいる。


「おい、お前。そろそろ諦めたほうが良いんじゃねぇか? 見たところ、その腕は再生するタイプじゃないらしい」


「……ば」


 ぎくりとして、男が一気にまくしたてる。顔が引きつり、無理をした笑みを作り出す。


「バカ言うな、もう遅いぜ……俺の役目は終わったんだ! 今頃仲間はとっくに――」


『アロー、アロー。キーラ、聞こえてます? 現金抱えて逃走してる連中を捕まえましたよ』


 そこに、どこからかの無線が割り込んだ。キーラはそれを受け取る。


「よーし、よくやったリカルド」


 男は呆然として、間抜けな声を出す。


「……へ????」


 彼が状況を理解したのは、それから数秒後のことだった。



「――えぇ、俺とロットンで拿捕しました。後ろがうるさいですか? 勘弁してやってくださいよ。先日第八に出し抜かれたのが相当腹に据えかねてるみたいで」


 ダウンタウンのとあるストリート。やや人気の少ないその場所で、その男――リカルドは同僚に返答した。

 指先が鈍色の機械に置き換わり、その浅黒い肌が色気をそそる美男子である。彼は満足感と疲労感両方を抱えた顔だった。

 そんな彼の指先は黒く塗り込められた孔になっていて、そこからは小さく煙が立ち上っている。


 その後ろ側には、ずたずたのスクラップ同然となって道に転がっている車がある。 そのドア部分やボンネットは蜂の巣のように小さな穴だらけになって、地面に混乱の轍を半月状に刻んでいた。

 後部からは絶え間なくオイルと黒い煙が流れ続けていて、その前に――彼らが居た。


 車の側面前方に引きずり出され、拘束具で簀巻きにされている傷だらけのドミノマスクの男達。傍には大きな黒いバッグが幾つか。端が破けて、そこからドル札が見える。

 そんな彼らに対して怒鳴り散らしているのは――腕から顔にかけて黒淵の獣毛をざわざわと展開させて逆立たせて唸る、歯並びの悪いあの男……ロットン坊やである。


「――あぁ!? よくこれだけの金額を盗み出せたもんだ!!」


「知らねぇな、連中が間抜けだっただけじゃねぇのか!!??」


「やかましいぞこそ泥どもが!! 一体何に使うつもりだクズども――」


「へっ、そんなもんわざわざ言――」

「高飛びさ!! とっととこんな街から抜け出してぇからなぁ!!」

「バカ、言うんじゃねぇ!!」


「てめぇらの行く場所はハワイでもなけりゃグアムでもねぇ、冷たい床の鉄格子の向こうだクズどもッ!!!!」


「言ったなぁ、国の狗の化け物共がぁッ!!」


「何だとゴルァ!!!!!!!!」


 男達は疲労と苦痛を身体中に刻印されながらも、目の冴えるような美しい悪態を投げつける。それに対してロットンも負けじと応戦する。

 彼の後ろ側では部下らしき者達が肩をすくめている。『坊や』に対する見解は同僚のうちでも概ね一致しているらしかった。


 リカルドは片耳をゆるく塞ぎながら通信する。


「というわけで……こちらはこちらでカタがついたんで。二班三班は署に戻ります」


『おう。ご苦労さん。後は任せろ』


 ぶっきらぼうな掠れた女の口調の中に、労いの調子が混じる。彼の後ろでは未だにロットンと強盗たちが口角泡を飛ばし合っている。リカルドは小さく笑いを漏らしてから、言い含めた。そこには、吐息が混じっていた。


「くれぐれも……やりすぎないでくださいよ。キーラ」


『おう、当たり前だろ。通信終わり!』


 会話は強引に断ち切られた。


「……」


 そう――それは、諦めの吐息である。



「……凄い」


 シャーリーの口から漏れる。まるで完璧だ。彼女は、突如現れたゴシックロリータ姿の女に、圧倒されていた。そしてどういうわけか、その行動の一部始終に……目が釘付けだった。魅了されていた、と言っても良かったかもしれない。


 行動の全てに迷いがなく、確実に全てを実行していく――ろくでもない連中を、倒すために。


「あれが……」


「そう。とんでもない連中でしょ? ほんとにヤになるわよね――」


 違う。

 ――シャーリーが思ったのは、そうではない。

 そこに見入ったのは……。


「ボクも、あんな風に……なれたら……」


 今の自分にない何かを、その女に感じたからだ。

 そしてその欠落が何であるかを、彼女はその後に知る事となる――。



「……てなわけだが」


 部下との通信を終えたキーラが、端末をぞんざいに車の中へ投げ込んで、男の正面を向いて改めて言った。一段落して彼女の表情は落ち着いていた。


「さて、お前はどうする???」


「――ふ」


 男は目を見開いて口を開いて、乾いた空気とともに言葉を吐き出した。彼の顔は汗で染まり、当初の余裕の全てを失っていた。彼の前方で、荒くれ者たちが胡乱な視線を向けてくる。絶体絶命、四面楚歌。――そこで、男は叫んだ。


「ふざけんじゃねぇ、俺はこんなところで終わってたまるかよッ!!!! 出てきやがれッ!!!!」


 男は指を鳴らした。

 次の瞬間である。


「ヒイイイイーーーーーヒャッハアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」


 轟音とけたたましい哄笑がその場全てに広がって、間もなく男の横際に車が滑り込んでくる。悲鳴のようなドリフト音を響かせながら。


「……?」


 それは武装を満載したトラックだった。口元にスカーフを巻き、髪の毛を逆立たせた男達が唸りを上げながらその場に現れる。そして、男の後方へと現れる。突然のことに民衆は悲鳴を上げ、後方へ後ずさっていく。だが、キーラ達は…………欠片も動揺していない。


「…………」


 それどころか――既に、次の手を打とうとしていた。


「こいつらは俺の部下だ!!!! これだけの武装を持ったコイツらにお前らは勝てるかなぁ、さぁやってみろよ!!!!」


 半ば自暴自棄になって男は両手を広げ、引きつった笑いを浮かべながら叫んだ。その言葉の通り、彼の後方には幾つもの銃口。前方の警察部隊に向けられている。ニヤついた笑い。ガムを噛む音。男は更に挑発する。


「――おいどうしたぁ、怖気づいたかてめぇら!! 今ぶっ放すぞ、3、2、1……」


「――やれ」


 行動は実行に移された。全ては一瞬で起きた。

 キーラはぴしゃりと言った後指を鳴らした。


 その直後、彼女の後方に構えていた警察官が前に躍り出て、何の躊躇いもなく――大口径のロケットランチャーを……ぶっ放した。


「ギャアアアアアーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!」


 炸裂し轟音が上がり、爆風が勃発する。そして急遽用意されたならず者達ははるか後方にふっ飛ばされる。突風が起きて人々を後ずさらせるがキーラは一切動じていない。

 全ては喜劇のごとく。まるで弾けた油の粒のごとく男達は後方へ吹っ飛び動かなくなる。橙色の爆発とともに。そして男の周囲には――。


「…………」


 一瞬のうちに、誰も居なくなる。


「撃ちやがった…………」

「何の躊躇いもなく…………」


 沈黙、静寂。地面がぷすぷす焼け焦げる音。その向こう側で呻く者たち。誰かが言った言葉は、そのまま警察の者達以外の全ての存在の気持ちを代弁した。


「なぁに、死にゃしねぇさ。オレの部下は、瀕死にさせるのだけは上手いんだ」


 キーラは軽い調子で――まるで失恋を慰めるような声音で言って、改めて男に指を突きつけた。呆然とし、顔中に汗をしたたらせ、開けた口を乾燥させ続けている、哀れなほどに何にもなくなってしまった男に対して。


「さて――後は。てめぇだけだぞ」


 その言葉が、男に……突き刺さった。

 死刑宣告のごとく。


「…………ッ」


 男は言葉を発しようとした――だが彼の喉は渇いて、小さな呻きが漏れただけだった。汗はどろりとしたものへと変質し、足元の影が彼の心を映し出すかのように色濃くなる。

 その身体がプルプルと震え、ぎょろりと剥かれた目玉は正面に拘束されたまま動けない。そのまま、しばらく彼は痙攣した。もはや彼の周囲には何もなかった。


 ……何も、なかった。


「ふ――」


 彼の口から、その一音が漏れて。


「ふざけんじゃねぇぞ、街の狗があッ!!!」


 次の瞬間――彼は咆哮し、目を血走らせながら腕に鎖を巻き付け……走り出した。


 それは狂走。時折よろめきながら、余裕など全てかなぐり捨てて、悶えたような雄叫びを上げながら、ゴシックロリィタの女に向けて爆走する。彼の視線はその女を、いや、その向こう側の何かを見ているようだった。


「………………――バカがッ!! 後悔すんじゃねぇぞ!!!!」


 彼女は目を瞑って荒々しく髪を掻いた後、その身体に憤りのようなものを滲ませて――唾を吐き、彼に対応するように同じく駆け出す。二人の衝突が間もなく勃発する。


 ……後方に控える彼女の部下達は、銃を構えながらも……手出しをしない。至って平常運転である、というように、佇まいが凪いでいた。


「キーラさん、荒れてますねぇ」


 パトカーの運転席側に座った黒人の若い男が、車外に出てドアにもたれかかっているモッズスーツの男――クリス・カヴィルに言った。キーラは間もなく相手に到達する。


「……この間の『ハルク騒ぎ』の時、あいつ入院してて出動出来なかったろ。それで鬱憤溜まってんだ」


 どことなく疲労の蓄積した表情でジタンを吸いながら、気だるげに。


「あぁ……そうでしたね」


 黒人の男もまた、遠い目をする。


 ……つい先月の話。

 我らがキーラ・アストンSCC第一班班長は、とあるギャング組織の本拠地に単身突入――その自慢の拳で並み居る荒くれ共に対して八面六臂の大立ち回りを演じた挙げ句、敵の首魁を拿捕し、戦力の全てを叩き潰して無力化するという大戦果を上げたが、同時に彼女自身もその際に瀕死の重傷を負ったのだった。全ては彼女の日常である。


 そんな彼女が、今まさに。


 男の顔面に――拳を、叩き込んだ。

 瞬間、彼の顔が歪み、へしゃげ――空気が静止する。


 キーラは歯を食いしばり、そして叫ぶ。


「…………ッらぁ!!!!」


 男は、きりもみ回転を起こしながら盛大に吹き飛んだ。呻く暇すらなかった。突風が巻き起こり、彼の鎖はその勢いで引きちぎられて宙に舞った。


 煽られた風が彼女の髪を後方へ広げ、振り切った拳が地面すれすれで暴れる。片足がスイングして後方へ。体重を支える足が地面にめり込んで、みしりと音を立てながらアスファルトの欠片を吹きこぼれさせる。


「か……はッ――」


 空中で男は血を、抜けた歯を吐いた。白目を剥き、意識を失う。だが死んではいない。彼の身体の芯にこそ、彼の力の根源があった。


 それはあの鉄塊を作り出したもの。故に彼は……キーラによって、盛大にぶん殴られ、吹き飛ばされることを選択されてしまった。そう、死にはしないのだから。


「……」


 クリスは、そして部下達は――周囲の市民たちは見た。吹っ飛んでいく男を。

 ホームランで飛んでいく白球を遠く眺めるように。


「決まった……」


 キーラの口から、言葉が漏れた。そこで男は倒れ込み、見事に彼女が勝利を収め――一連の強盗騒ぎは、見事決着と相成る。



「……」


 シャーリーは圧倒されて黙り込んでいた。そこへ。


「おーい、そこの彼女ォ!!」


 声がかかった。


 雷に打たれたように反応する――それは他でもない、キーラから飛んできた言葉だった。彼女はギャラリーの中でひときわ食い入るように状況を見つめていたシャーリーに気付いて、手を振ってきたのだ。


「すげぇだろ、オレ様はよォ!!!! ちゃんと見てたかァ!!!!」


 まるで弾けるような、子供のような笑顔だった。シャーリーは驚き、しばらく反応ができなかったが――やがて、大袈裟に首を上下に振って、肯定した。必死に、食らいつくように。それが素直な気持ちの表現だった。グロリアは苦笑してシャーリーを見ている。


「……へへ」


 キーラはやりとげた顔をして額の汗を拭う。


 自分を見ていた少女は連れ合いと共に、その場所から離れようとしていた。


 ――なるほど、飛んでくるのは野次ばかりというわけではないわけだ。

 彼女の今日の大仕事が、達成感と共に終わりを迎える。


 ……はず、だったのだが。

 男は吹っ飛んだ。吹っ飛んだ。弾丸のように。


 その、ぶん殴られた勢いのまま。

 キーラの視線の先にあるビルへと突っ込み、その身体がめり込んだ。重く響く音とともに彼の姿が見えなくなって、白い煙が立ち込める。


「……あ?」


 彼女は異変に気づいた。

 しかし、遅かった。


 ――間もなく、轟音とともに……先日の事件での傷跡も生々しいそのビルディングは崩壊を始めた。猛然と煙を撒き散らしながら、下へ下へと沈み込んでいく。地面が揺れて、人々が悲鳴を上げる。逃げ惑っていく。


「ビル崩れるぞ!!!!」

「みんな逃げろおおおおおおお!!!!」


「……――」


 キーラは……男を殴った姿勢のまま固まっていた。


 前方にはパニックの光景。人々が右往左往し、その先には地盤沈下の如く沈み込んでいく一棟のビルの姿。男はそこにめり込んだまま気を失っているが、もはや姿が見えない。


 もう間もなく……その建物は、完膚なきまでに使い物にならなくなる。


「……やっべぇ」


 キーラは騒ぎの中、痙攣した表情を浮かべながら、油の足りない人形のように首を動かして、部下達を見た。


 彼らは――遠い目をしていた。

 それは優しい表情に見えたが……葬式帰りにも見えた。


 ……黒人の男は、運転席で口を開けたまま呆けている。


 クリス・カヴィルは、こちらを見ているゴスロリの上司に疲れた目を差し向けながら、たっぷりと煙草の煙を吐いた後――ただ一言、これだけ言った。



「………………………………アホ」

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