#7 ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル

「ああそうさ、奴が暴れたせいで俺の店はまた半壊だ。もう何度目か分からねえよ。全くアウトレイスの野郎どもは――……あぁ、そうとも。俺は純粋な人間だよ。だのにこんな場所で店構えてんだ。何故かって? そんなこと聞くもんじゃねえよ。この街に居る奴はな。多かれ少なかれ、皆何かを抱えてんだ……さぁ、用がないなら出てってくれ。丁度いいからこの店もリフォームだ。テキサスじゃあるまいし、いい加減カウボーイハットなんざゴメンだったんだよ……」

 ――男性(47歳)・サウス・グランドアベニュー在住


「結局あの事件は誰が真犯人だったの? 私はニュースを半端にしか見れていないのだけど。あら、じゃああのモロウがやったってわけ? あら嫌だわ、ほんとうに嫌だ。私常日頃からモロウの連中にはうんざりしているのよ。連中ときたら獣臭いし、頭は悪いし、何かにつけてすぐ暴力や非行に走るでしょう? その点私達エンゲリオは優秀よね、なんせ私も家事が……ちょっと、じゃあ犯人はエンゲリオだったっていうの? 馬鹿なことを言わないでちょうだい! 不愉快よ、さぁ出ていって、出ていってちょうだい!!」

 ――女性(55歳)・バーモント・ハーバー在住


「確かにダウンタウンはどこもかしこもひどい目に遭ったけど。俺の暮らしが変わるわけないさ。毎日毎日、オーナーにどやされながら荷物運び。あーあ、俺にも強い力が備わってれば良いのにな。そしたら、もしかしたら何かが変わるかもしれない……いや、冗談だよ。俺はあんなことやらないさ。母さんの病気のことで、頭がいっぱいだからな」

 ――男性(19歳)・チャイナタウン在住


 一夜が明けたアンダーグラウンドのダウンタウンは、凄惨な有様を示していた。


 いたるところに刻まれた破壊、破壊、破壊。


 ビルの群れが斜めになぎ倒され、アスファルトにひきつれた亀裂。陥没。クレヴァス。窓ガラスや破片が路面全体を雪のように覆い、横転し、凹んだ車が至る所になぎ倒される。


 文字の見えなくなった看板や標識も散乱し、それら全てを眺めながら警察官たちが途方に暮れた顔をしている。


 だがそれでも、人々は変わらない。


 ストリートに詰め込まれた車。クラクション。時折怒声。歩道では様々な姿をした者達が、明日への、将来への不安、現実への怒り、憂い。その他の色々を顔に浮かべながら通行していく。

 その全体を、上空のハイヤーグラウンドによって生じた影と薄暗い霞が覆っている。


「――てめぇ今ぶつかったろうがぁッ!!」

「ひいいいいッ――」


 おや、早速、路上で何かが起きたようだ。怒号しているのはモロウか、はたまたエンゲリオか……いずれにせよ、嗚呼この街は、驚くほどにいつも通り――。



「昨晩の報道がオンエアされてないってのは本当なのか!?」


「間違いないよ。ダニエルの野郎が怒り狂ってた」


「そんな、間違いなくヘリは飛ばしてたんだぞ……一体誰がそんな細工を」


「……これで何度目だ。何回泡を食えば気が済むんだ、俺達は」


「じゃあ、口コミはどうなってる? あの現場見てた人間は大勢居たはずだ」


「そいつも残念ながらかなわんよ」


「ディレクター……!?」


「あの場に居た奴に話を聞いても呆けた顔して『知らない』の一点張りだ。何も見てないんだとさ」


「そんな馬鹿な……記憶が消されたみたいに……」


「居るんだよ、そういうことを出来る奴らが。そいつらはこの街のどこかに潜んでる。俺達も知らないどこかに」


「くそッ……警察に探りを入れても連中はダンマリと来てる」


「シャドーボクシングもそのあたりにしておけよ……案外、そいつらのお陰で俺達は生きながらえてるのかもしれん」


「くそったれ!」


(しかし毎度のことながら、一体何者なんだ。この街が危機に陥るときに現れて、そのたびに全てを解決して去っていく連中……一体、どんな化け物どもなんだ……)



「俺がやったことは……まぁ、馬鹿なことだったんだろうな」


 アンダーグラウンド郊外の拘置所の中で、男は女と向かい合った状態でそう言った。


 灰色のコンクリートに囲まれた部屋の中に、朝の光の粒が入ってくる。それを受けながら、知らぬ間に騒動のさなかに入り込んでいた哀れな男は座り込んでいた。透明な壁を隔てて。


「そうかもしれないな」


 女は静かに、淡々とそう言った。彼女は薄い笑いを浮かべていたが、対面する男は不思議と腹を立てなかった。女のその態度は、彼女が世の中全体に対して取っているスタンスなのだと、ぼんやりと理解できたからだ。


「なぁ」


「ん?」


 男は一度俯き……改めて女の顔を見た。なかば懇願するように。


「俺はどうするべきだったんだろうか。あのままだといずれ俺の暮らしは破綻してた……そうなりゃ、どのみち、俺は……」


 男はそこで言いよどんだ。何もかもが、そこで打ち切られた感覚があった。とどのつまり。行き詰まり。


 男は暗澹たる気持ちになって俯いた。それから十数秒間、沈黙が訪れる。


「……新しい」


「――?」


 女は、男の顔を見て、再び微笑んでから言った。その一言で全てが決した。


「……新しい女でも見つけて、とっととファックをすればよかったのさ」


「……」


 男はしばらく呆けたように女を見たが、やがて何もかもに合点がいったとでも言うように、肩を震わせて大声で笑った。


 その時、男の心の中にあった凝りが天に昇って、消えていった。


「なるほど、なるほど……」


 くっくっ、と、笑いの余韻を残して、男は目尻の涙を拭う。


「こりゃ、勝てねぇわけだ」


 ――男は肩をすくめて、言った。

 もう、それ以上は何も必要なかった。


 女は――フェイは、何もかもを薄く撫でていくような笑みだけを残して、男に身を翻す。そして、敬礼する制服姿の男を労うように手を振ってから、その部屋を出て行く。


「あの男の余罪はなし。数日前、大立ち回りをやってのけたことだけが問題にされるわけだ。勘弁してほしいね」


 建物の外を出た女の傍で、壁にもたれた男が言った。

 浅黒い肌の、スーツ姿の優男。


「そう言うな、リカルド。全ての発端は、次元の裂け目におわすあの色男にあるのだから」


「……違いない」


 リカルドは彼女の方を見ずに、ライターを差し出した。フェイは煙草を咥えて、そこから火を頂戴した。


 ――すっぱーーーーーーーーー。


 長く、長く、煙を吐く。

 全てを洗い流すように。


「今回の件のヒーローが誰かも、マスコミは知らないまま。いや、『知らないことになっている』……」


「そうかい」


 リカルドはそこで女の方を向いた。


「あんたの所の黒服が……やったんだろ?」


「さぁ――……なんのことか、さっぱりだな」


 女は彼の方を向いて、くっくっと喉を鳴らして笑った。

 ――リカルドは溜息をつく。


 女は駐車場に歩いていって、シトロエンDSを解錠する。


「帰り道で、犬の小便にでも引っかかってほしいと思うよ」


「そりゃどうも。あの女傑によろしく」


 そう言って女は、彼に中指を向けた。

 リカルドは肩をすくめて、そっぽを向く。

 ――それを見てもう一度笑うと、車に乗り込む。


 エンジンを掛けて、その場を後にし始める。

 いざ、麗しき故郷――ダウンタウンへ。


 景色が流れていく。破壊の跡が色濃く残る街並みが後ろへ後ろへ消えていく。

 まさにその最中、彼女に電話があった。

 カーステレオのR&Bを消して、通話する。


「もしもし――フェイだが」


『私だ、グッドマンだ。先日はご苦労だった』


 向こう側で男の声。簡潔に、いきなり主題。


「いえ――それが仕事ですから」


 彼は、そういう男だ。

 その諒解があっても、やはり苦笑せざるを得ない。


「くくっ……」


『どうした?』


「いや。ねぎらいなら、調査部員ストーカー達に分けてやってくださいよ」


『そうだな……』


 男の声は思慮深げに沈み込み、大真面目に数秒間沈黙した。フェイの口の端はそれを受けて、また少しだけ緩む。窓の外には、相変わらずのダウンタウンの情景。破壊の轍があちこちに刻まれている――巨大な獣道のように。


 それを受けてもなお、受ける印象は変わらない。陰鬱な空気と、雑然とした風景。そして、賑やかな音。声。


 それが良いことかどうかは、また別の話――。


『ときに、フェイ』


 声。黙って、続きを促す。


『奴は――ディプスはその時、確かに“そう言った”のだな?』


「……」


 そして彼女の脳裏に、先日の激動が蘇る。

 急激なる覚醒。怒涛の如き決着。


 空から顔を出すあの男――まるで宣誓のごとく告げられたその言葉。決意を新たにした少女が辿ることになる運命は、彼女にも新たな道を示しているように思われて……。


 あまりにも急激に進展した事態。


 ……何か大きなうねりのようなものがこの街の中を漂い、どこかへ彼女たち全体をいざなっているような。


「えぇ――『彼女』の覚醒と成長。それがヤツの狙いであり、この先の目標というところでしょう」


『どうにも読めんな。奴はその先で何を考えているのか』


「分かりませんよ。奴の考えは――いつだって」


『それでもお前は』


「?」


『信じているのだな。お前と同じ本質を持つ彼女の存在を』


「……」



 あの騒動からすぐに。

 フェイ・リー第八機関室長は、『彼女』を自分たちの仲間として迎え入れることを決断した。それは本人の希望でもあった。


「……それは本当なの、フェイ……?」


 ミランダが、いつもと変わらぬ憂いを秘めた瞳で問うた。フェイは煙草に火をつけつつ、黙って頷く。聞かれたことは全て答えるつもりだった……それが、仲間に対する真摯な姿勢というものだ。


「彼女はわたしフェイと同様、『ザイン』だ。彼女の加入は我々にとっても大きな戦力増強のチャンスとなりうる」


「でも、待って。彼女はハイヤーグラウンドの出身よ。いずれそのことが、大きな問題に繋がることも……無いとは言えないわ」


 ――ミランダが懸念する。

 それは最もだ――そう言いたげに、フェイは軽く頷く。


 アンダーとハイヤーの軋轢。それを生んだ社会背景。全てを考えていけば、彼女を背負い込むということが生半可なことでは済まない。


「それでも、だ。皆」


 彼女は皆を見た……自らがそれぞれの場所へと赴いて、その過去を知り――そして引き入れた者達。ミランダ。キム。そして、チヨにグロリア。


「彼女の存在が、ディプスにとって『何者か』である時点で、我々は既に彼女を引き入れる以外に選択肢などなくなっているに等しい。グッドマンもその件については了承している。いや、せざるを得なかった。あの高笑いと宣誓を、お前たちも覚えているはずだ」


「……――……それを、言われれば」


 ミランダが歯噛みする。それは皆も同様。


 彼女は一体ディプスにとって何なのか。それを知る意味でも、彼女はもはや無関係ではない。全く違う場所からやってきて、今や共に何かを乗り越えていくほかないのだ。


 ――だが。それだけではないことも、フェイは知っていた。


「……それに、彼女の存在が。我々にとっての希望になりうる可能性も考えるべき

だ」


「どういうこと…………?」


「――少しばかり、夢見てしまったんだよ」


 フェイはそこで息を吸い込んで――語った。


「ハイヤーグラウンドの出身であるという彼女の『ザイン』としての力が……地上と天上をつなぎ、この地に新たな風を吹き込んでくれる、という希望をな」


 何のまやかしもなく、言った。

 誰もが押し黙っていた。


わたしフェイも……お前たちも。降りかかる苦難は同じ。だが、胸には折れることのないたった一つの剣がある。だからこそこの街に対して何事も諦めることなく立ち向かえる。彼女にはそれを感じた……彼女の剣を。それは我々それぞれの力に影響を与えて、我々をより強固に繋げる。あの時……たった一人の少女のために自身を変革させたあの姿には、それだけの可能性がある。わたしフェイは――その可能性に賭けたい。たとえ、彼女が何者であったとしても」


 フェイはそこで言葉を切って――改めて、言った。


わたしフェイに……乗ってくれるか?」


 皆、黙っていた。だが、そこで一人表情を崩して手を上げた。

 キムだ。


「まぁ、フェイさんの言う事なら。従うっスよ。それに、あたしのはじめての年下っスから」


 にへら、と彼女は笑う。


「あんたはそうよね、そう言うと思ったわ」


 と、グロリア。彼女には是非を問う必要さえないようだった。既にフェイの傍に居た。


「お前たちは……どうだ」


「私も……納得は出来ないけど、あなたに従うわ。それ以外に方法はないように思えるし……それに、いつまでもここに置いておくと決めたわけでもないでしょうし……」


 ミランダが言う。だが、そこには僅かに陰りがあった。完全なる同意に至っている様子ではなかった。グロリアはそれが不満らしく、小さく鼻を鳴らした。


「……儂もそうだが」


 チヨが小さく、腕を組みながら言う。


「理解はした。だが……納得はしない」


「ちょっと、チヨ――」


「いい。今はそれで、構わない」


 グロリアを遮って、フェイが言った。


「……そこまで言うのなら。決断を鈍らせるなよ。儂はお前を信じてここまで来た。お前が崩れた時には……儂は容赦なく、お前を――」


 フェイはそこで……確信的に、笑って言った。


「さぁ、まずは手始めに――わたしフェイを信じてみることだ」


 そうして、皆がフェイの決定に同意した――。



 ――そう。あの時、何かに導かれるようにして彼女に出会った。

 そして、『ここまで』やってきた。そのこと自体、今のフェイにとっても後悔はない。


 しかしながら、驚くほどに――彼女はその流れを、『あるべきもの』として受け入れていた。


 考えてみれば、それがどこかしら不気味であるような気がした。


 ――フェイの思考が一度絶たれて、別の予感が流れ込んでくる。

 それは、『もしかしたら』という言葉……。


 ……もしかしたら。


 もしかしたら、その先導をするのは自分なのか?

 だとしたら、自分が彼女たちを、そして『彼女』を導こうとしている場所は――。


 ……背中に冷たい氷が押し当てられたような感覚。

 その瞬間に彼女の中に迸った想念は、過去の光景の連なり。

 まるで閃光のように頭の中に蘇って、駆け抜けていった。


 ――あの、忘れ得ぬ日々。『わたしと、彼女』の……。



 不意に、自分が前方を見ないまま運転している事に気づいた。

 車が蛇行して僅かに車道を逸れかけて、反対車線の車にぶつかりそうになる。


「バカ野郎が!!!! ケツを撃たれてぇか!!!!」


 首が鉄に置き換わった赤ら顔の作業服の男が、トラックから顔を出して怒号した。それが後方へと流れていき、ようやく彼女は頭を振る。今しがた蘇った幻影を完全に打ち払う。


 頬を張って、運転に集中する。目的地に近づいている。


『では、こちらでも奴の狙いを探っておくことにしよう。――…………大丈夫か?』


「……――あぁ。なんでもありませんよ。うるさい蚊が、わたしフェイの首筋を撫でたものでね」


 図らずも、含みのある物言いになってしまった。自嘲気味に、フェイはそのことを後悔した。


『……そうか』


 男は重みのある返事を寄越して、続けて言った。


『また、お前達には苦労をかけるな……』


「……」


 その言葉が、ほんの少しだけ。

 彼女の心を軽くした。ような、気がした。


 少しだけ吐息してから、返答する。


「あなたは本当に、世界一のいい男だ。ディプスなどよりも、よほど」


『……冗談はよせ』


 難色を示す声音。本当に、どこまでも実直な男。

 しかし、それがどこか救いであるようだった。


「半ば本気ですよ……この世界に対しては、勿体無いぐらいだ」


 車は、一棟のアパートの前に停まる。その向かい側にはスプレー落書き塗れの路地裏と、ゴミの散らばる柵のみ。その合間合間に棕櫚の木が生えて、周辺を軽装の若い男がたむろしている。


 例外なく、暗い顔をしている。

 ……この街の常で、ここも治安が良くはない。


『――フェイ』


「……なんでしょう?」


『我々が乗り越えるべきものは、強大なものばかりだ。ディプス、それに――評議会チャプターハウス


「……」


 評議会チャプターハウス

 ハイヤーグラウンドに拠点を置き、政治・経済それら全てを包括しながら、天と地の両方を実効支配している勢力。彼らの存在がこの街の歪な構造を作り、支え続けている。


 ……敵、とは言い切れない。だが、第八機関にとっては、決して無視できない存在。


 空を見上げれば、アンダーグラウンドの上には巨大な浮島があることを思い知らされる。ダウンタウンはその島の影で常に薄暗い。日常に埋没していればすぐにでも忘れそうだが、その事実は常に街に寄り添っている――そして、その上に彼らが居る。


『だが、それでも……結局はこの一言に帰結する――』


 そうして語られた一言が、彼女にとって何よりの救いと、励みとなった。


『これからも……街を、頼む』


「……えぇ。了解です」


 今度こそ、何の忌憚もない笑みを浮かべることが出来た。


 ……アパートの玄関に、降りてくる足音が聞こえる。

 最後に彼女は車を降りてから、彼に言った。


「なに、大丈夫ですよ。彼女なら、きっと――……」


 そこには祈りのような響きがあった。

 いや、違う。

 何かもっと、切実で、重く、濁ったもの――。


 そこで、彼女の思考は中断された。


 そうして玄関にて対面したのは、赤いマフラーと結んだ髪の少女。

 彼女は迎えに来た女性の顔を見ると、少しだけ緊張を見せた。


 だが、フェイがふっと綻んだ笑いを浮かべると、ある一つの覚悟のようなものを顔に浮かべて、唇をきっと引き結んだ。

 ――少女のマフラーがたなびいて、二人はシトロエンDSに乗り込んだ。



「緊張はないか?」


 運転席から、フェイが声をかけてきた。

 その質問に答えるのは難しかったが、しばらく経過してからシャーリーは言った。


「大丈夫、です」


「そうか」


 シトロエンDSはダウンタウンを行く。

 ごった返す人の群れ。その中から垣間見える、この街の状況。


 機械の両手に美しいフェアリルを抱えながら、大手を振って歩く男。そこから僅かに視線を逸らせば、路地裏で荒んだ目をして座り込む若者たちが居る。例外なく、その身体には一つの特徴があり、それが彼らをその場所に縛り付けているように見えた。


「……」


 目を凝らせば、流れていく景色の中に、そんな状況がいくつも見受けられる。それが、この街の現状。シャーリーは、膝の上で拳をギュッと握る。


「色々、考えましたけど」


「……ん」


 フェイは静かに続きを促す。カーステレオの音量は最小限に。


「やろうと思ったことに、変わりはありませんでした」


「……」


「たとえ少しの間でも、ようやくエスタと分かり合えた。だからこそボクは……今度こそ、彼女との時間を取り戻したい。この一週間……色んな道を考えたけど。結局、それしかない」


 シャーリーは、前を向く。

 先程よりも、声を大きくして。フェイに、宣言するように。


「だからボクは……ひとまずこの力を、皆さんのところで使います。エスタが戻ってきた時に、この街があの子にとって――もっといい場所になっているように」


 伸ばした右手を、開いて、閉じて。開いて、閉じて。


 あの時の力の奔流は、今はない。だがそこには確かに、今までにはないものが通っていた。それこそがシャーリーを、これまでとは違う場所にいざなおうとしているようだった。そしてそれに対して、恐怖と不安はあっても……躊躇いはなかった。少なくとも、今のところは。

 

 ――そう、今のところは。


「……」


 隣でフェイが、少しだけ目を見開いて何かを考えていることにシャーリーは気付かなかった。そこには彼女の知り得ない過去の時間と、思いが流れていた。


 フェイは、一言、呟く。


「そろそろ、到着だ」


 車は角を曲がり、サウス・メインストリートに滑り込む。

 ……アール・デコ様式の連なる街並み。

 彼女たちの城が見えてくる。

 シャーリーは改めて、拳を強く握った。



「――だぁからぁッ!! 調味料をどうテーブルに置こうがそんなもんどうだって良いでしょうがッ!! ンなこといちいち気にしてっから老け込むのよ、オバサン!!!!」


「……ハインツは逆さ向きだってことさえ分からない癖にいっぱしの女を気取らないで貰えるかしら。いい加減不愉快なのよ。それだけじゃあないわよ? 貴女の今日やらかした罪だけで5ダースは埋まる。今からそれを数えて差し上げましょうか……?」


「あーあーあーあー、ファックの仕方も忘れて股ぐらがカッサカサになったババアの言葉に傾ける耳なんてありませーん!!」


「そのクソ耳にピーナッツバターでも詰まってるんでしょう。不潔ね……」


「あ“ぁ”!?」


「何よ……やる気??」


 暗い日差しの差し込む室内で、二人の女が衝突している。黒髪と金髪。互いに罵り合い、つかみ合い、ある程度整理されていた室内が次々蹂躙されていく。


 戸棚がひっくり返り、そこから有象無象のガラクタがこぼれ落ちる。だが二人の進撃は止まらない。いつしかその抗争は低次元なFワードのぶつけ合いとなり、やがて目に見えて疲労が浮かぶようになる。


 だが、それそのものが生きる糧と言わんばかりに闘いが続いていく。


「……――たわけどもが」


 そのすぐ近くで、ソファに座りながら茶をすする和装の少女。二人の言い争いに眉をひそめつつも、心底どうでも良さそうな風に、凪のような態度を取り続けている。しかし、彼女がその場から離れることはしなかった。不快であるならば、いつでも離れられるというのに。


 ……彼女はテーブルの上にある茶菓子をつまんで、その小さな口に放り込んだ。

 喉が鳴って、彼女は少しだけ口元を綻ばせた。その表情は、先程よりも随分と幼い少女のようだった。


『続いてのニュースです。NBAレイカーズの◯◯選手は、同チーム監督の妻である◯◯氏に対し――“あれは単なるホームビデオに過ぎない。ソフト、ハード問わず、そこにはいかなるポルノ的内容も含まれていない。周囲の憶測は風評被害にすぎない”との見解を発表しました――』


 テレビの声。二人の言い争い。茶を啜る音。


「あはは……」


 それら全てを包み込むような苦笑を浮かべながら、ソバージュの少女はパソコンを起動させる。デスクトップ周辺には象の置物が幾つか。彼女はそれを愛おしげに眺める。


 間もなく画面は、なんらかのアメリカン・コミックスにまつわるファンジン・サイトを展開させた。彼女は後方の喧騒をうまい具合に聞き流しながらも、そこに書かれた数々の速報に目を丸くし、全身を歓喜で震わせる。


「きたきたきたぁ!! えっちょっヤバいっスよこれ……推しがこの値段で……無理、財布溶ける……尊い……」


 やがて彼女は背中をぶるぶるさせながら感慨の中に溺れていった。和装の少女はその様子を見ながら、再び「たわけめ」と言った。だが、不快感は浮かんでいなかった。



 ドアの向こう側で騒がしい幾つもの声が聞こえてくる。


「……いいか?」


 フェイが、隣でそう問いかけてきた。

 シャーリーは目を瞑る。

 そして、これまでを回想する。


 ――かつて見た景色が、いつまでも続くと思っていたあの頃。だが現実は違った。


 それは絶えず自分たちを襲い、幾度となく変化を要求してくる。耐えられなければ、自らの死期を悟って消えていく。もしくは何もかもをかなぐり捨てて、薄暗い靄の中に包まれたまま、虚無とともに生きていくことになる。


 ……自分も、そうなってしまうものだと思っていた。


 だが、そうはならない。もう絶対に、そんなことにはならない。


 赤いマフラーに触れると、十年前の記憶が、あの時の光景が蘇る。その時あの子が言った言葉は、自分が聞いた言葉は、今もこの胸に残り続けている。


 かつては呪いだった。それは、その時の自分に、十年分の重みとともにその言葉を受け止めるだけの勇気が、覚悟がなかったから。


 でも、今は違う。それは祝福となって、これからの自分が前に進むための道標に変わっている。


 だから――大丈夫。

 自分にとって大切なものが、この心の中にある限り。


 現実がどんな変化を伴って、自分に襲いかかったとしても。

 自分はそれに対して挑むことが出来る。戦う価値がある。それを教えてくれた人達が居る。だから……――大丈夫。


 不安と恐怖は、まだ自分の中にある。押し寄せてくる後悔も、過去の時間も。振り返れば、すぐそばにある。


 ――何故なら、そう。自分の原点は。

 あの子に出会うよりも前。


 そう、自分は、あそこから逃げてきた。そこで全てが起きて始まった。それがなければ、あの子と出会うこともなかった。そう、本当は分かっている、あの子と出会ったのだって、あそこから逃げるため。、決して――。


 しかし、そこでその想念を振りほどく。浮かび上がったその光景を。かつて、彼女と出会うよりも前に自分の宿業となっていたあの人々の記憶を。

 そして、言い聞かせる。 


 ――そうだとも。

 たとえ自分にとっての記憶から逃げられないとしても。

 後悔だけは、背負わずに済むはずだ。

 だって、エスタに対する思いは、絶対に変わらないのだから。


 ここから離れた病院のベッドには、彼女が静かに眠っている。その横には、ゼラニウムの造花がある。決して枯れることのない、赤。


 ――その色合いを思い出し、シャーリーは背筋を伸ばす。一瞬頭をよぎった過去の時間から抜け出す。そのための力を得た。


 ……時間が戻る。僅か数秒だった。

 だから、フェイに返答した。


「――はいっ!」


 ドアが開く。


 彼女たちの姿が見えてくる。

 言い争うミランダ・ベイカー。グロリア・カサヴェテス。

 ソファに座るチヨ・タカナシ。パソコンの前に居るキンバリー・ジンダル。


 そして、フェイ・リー。自分をここに導いた張本人。

 彼女たちの顔が、現状を宙吊りにしたまま、部屋の中にあふれる光とともに、シャーリーの方を向いた。


 ……そこへ、一歩踏み出す。

 彼女たちに、自らの姿を晒す。

 間もなくフェイが、全ての始まりを告げるかのように、微笑みとともに言った。


「――さぁ。ジャングルへようこそ」



 シャーリーは頷いて。

 部屋の中に、自分を待つ仲間たちの所に進んでいく――。

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