#6 再会の街で

 2日後もシャーリーは事務所を掃除していた。無論頭にバンダナを巻き、今度は口周りにマスクを付けた状態。

 昨日の段階でかなりのゴミを処理し、床や壁を綺麗にしたのだが、結局戻ってきたグロリア達のせいで半分ほど元通りになってしまっていたのだ。


 なので今、シャーリーはとてつもなく機嫌が悪い。


「……」


「――ねぇ、今日あの子愛想悪くない? 悪いハッパでもやった?」


「どう考えてもグロリアさんのせいっスよ……」


 キムたちがひそひそと言っていることは全部聞こえていた。相変わらずチヨは無関心だし、ミランダはソファの上でパイプを吸っている。


「……おっ」


 キムが小さく声を上げる。彼女の前にあるパソコンの画面に通知が届いた。電子メールらしい。


「えっと、送り主は……『スター・ファッカーズ・インク』……」


「うげぇ、センスの無い名前」


「でも、これアレですよ。この前行った情報屋さんからっス。多分『結果』が出たんじゃないっスかね」


「へぇ。早かったじゃない」


 ……後方でガタッと音がした。シャーリーが動きを止めた。それからバンダナもマスクも剥ぎ取って、つんのめりそうになりながらパソコンの方に寄った。機嫌の悪さは吹き飛んでいた。


「ほ、ほんとですかっ!?」


「ちょっと、落ち着きなよ」


「今開くっス」


 シャーリーとキム、グロリアの三人が画面を注視する。後方では書斎から出てきたフェイがチヨに何か言い、ミランダの耳元で何かを囁いた。彼女はフェイに中指をくれる。チヨはあくびをする。


「なになに、ええっと」



 頼まれた通りの仕事は果たした。

 エスタ・フレミングとかいう女は下の場所で頻繁に目撃されてる。建物の中に入っていくのを見られてるから、多分寝床もそこだ。それ以上の情報はねぇ。


【ダウンタウン・スキッドロウ――タウンアベニュー、フレッドの店左隣のアパート二階】


 p.s. もう2度と俺にツラを見せるな。


                                     』


 シャーリーは心臓の鼓動が強くなるのを感じた。その文字列を見た瞬間、自分の中から冷静さが剥ぎ取られていく気がした。

 体の芯が火照って、抑えきれない何かが生まれようとする感覚をおぼえた。


「ここに……エスタが……」


「あー、ここに……」

「どうする?」

「とりあえず、室長に言いに行きますか」


 二人に従って、書斎に入る。もうすぐエスタに会える。そのことだけが頭に浮かんで、他のすべてが消え失せていた。ミランダとキムは意味ありげにシャーリーの背中を見ている。

 掃除道具は放置されたまま、陽の光を浴びて乾いていく。


「なるほどね」


 フェイは煙草から口を離して言った。


「ボク、今すぐにでもその場所に行きたいです。我儘かもしれませんが、もしよければそこまで連れて行って貰えませんか!」


 身を乗り出して、シャーリーは言った。要求することが多くなりすぎていたが、なりふり構っていられなかった。鼻息荒く、フェイに顔を近づける。


「ちょ、ちょっと落ち着きなさい……」


「す、すいません」


 顔を離し、付け焼き刃で冷静になる。

 その後ろで、グロリアとキムが顔を見合わせる。


「……だが、まぁ。もともとそういう契約だったわけだ。その場所に連れて行くのはやぶさかではないし、逆にそうすべきだとも思える」


「ほんとですか、ありがとうございますっ!!」


「うん……車はわたしフェイが出そう。チヨを呼んでくれ。彼女も同乗させる」


「分かりました」


 キムが部屋を出て、チヨを中に入れた。彼女は相変わらず無関心そうな表情を崩さないまま、腕を組んでいる。


「あの。ほんとにありがとうございます……これだけでここに来た意味が……」


「……あぁ」


 シャーリーの身体は震えていた。会えると決まっていたわけでもない。だが、彼女は生きている。間違いなく存在している。『あの時』以降も、居たのだ。それが分かっただけでも嬉しかった。


 ……そんな歓喜に包まれていたから、感謝を述べるシャーリーの手前で、フェイが顔を曇らせているのには気付かなかった。


「ああ、悪いがシャーロット君。キーを渡すから、下のガレージに行ってエンジンを温めてきてくれないか」


 シャーリーは落ち着かない様子でその言葉に従い、キーを受け取って書斎を出た。

 部屋にはグロリアとチヨ、そしてフェイが残った。


「……本当に、いいの? あの子」


「良いも悪いもあるものか。彼女が望んだことだ」


「でも……」


「上に戻るいい機会だろう。あやつはただのおなごに過ぎんよ」


 チヨが、あっさりとそう言った。そっけない言い回しではあったが、全くの無感情というわけでもないようだった。そして、シャーリーに続いて部屋を出る。


 グロリアは歩き、フェイの後ろ側へとまわり、そっとその身体を彼女に近づけた。手は、触れるか触れないか微妙な位置に置かれる。そして、顔を俯かせる。


「この地は……」


 フェイが目を細める。その黒い睫毛が、瞳が、耳が、グロリアの傍にあった。彼女もまた、どこか悲しげな顔をした。


「あのような子には、過酷が過ぎる」


「そうね……」


 フェイが紫煙をくゆらせる向こうで、シャーリーが扉を開けて階下に降りていく。



 十数分後。


 運転席にフェイ、後部座席にチヨとシャーリーを載せた車はダウンタウンの街路を進んでいく。その光景は徐々に、整理されたものから印象が変貌していく。


「このあたりは……街がこうなる前から治安が悪い」


 間もなく、『スキッド・ロウ』と呼ばれる地域に入った。道路にはゴミが散らばり、その傍には粗雑なブルーシートで作られたテントが並んでいる。


 建物はどれも高さの低いバラック式で、道端には決して身なりが良いとは言えない若者たちが座り込み、シャーリー達の乗っているシトロエンを睨みつけている。金の鎖やタトゥーの者達……その目には恨みのようなものが滲んでいる。


「車の通りも……少ないですね」


「まぁ好き好んで通る奴は居ないだろうな。『例の場所』を除けば、ロスで一番面倒な場所だ」


 フェイは軽い調子で言う。チヨは眠っている。だがシャーリーとしては……冗談ではない。


 散らばるショッピングカートの残骸……フェンスや壁に殴りつけるように描かれた威圧的なスプレー落書き。

 その奥では何やら怪しい焚き火が行われ、周囲をフードを目深に被った獣人モロウ達が取り囲んでいる。

 誰かが誰かを殴りつけている。だが止めもしない……ダウンタウンの中心街でこそ見られた暴力や混沌は、ここでは更に性質が変容していた。道行く者達はまるで亡霊のように。メインの街よりも更に粗雑な身なりをした者達。その多さ。


 カツ、カツ、と音がする。石が車に投げられていた。見ると、裸足の子供たちだ。それぞれ、牛の角が生えた子供と、足に車輪がついた子供。シャーリーは、直視出来なかった。


「こんなところに……エスタが……」


 シャーリーは唾を呑み込んでいた。

 そして、気付きはしなかったが……。


 彼女は、全身が震えていた。拳だけが、固く、固く、シートの下で握られていた。


 少し開いたチヨの目がそれを見ていたが、何を言うこともなく、再び目を閉じた。

 車は、間もなく指定された場所に到着した。


 薄汚れ、細かなヒビが壁面に走ったベージュ色のアパートである。

 まず、フェイが乗り込んだ。シャーリーはそれを見つめたまま、しばらく静止する。


「……どうした?」


「いえ……」


 シャーリーも登っていく。


 埃の充満した薄暗い階段。足を踏みしめるたびに虚ろな金属の音が響く。


 部屋の連なる廊下に出た。敷かれたカーペットはボロ布同然となって端に寄っている。階段のすぐ近くに浮浪者が座っていた。濁った目。薬物とアルコールにまみれた者特有の。

 3人を見ると、汚く唾を吐き散らしながらまくし立てる。


「ふざけやがって、てめぇらがいるせいで俺たちはこんな身体になっちまった、俺達は……」


 3人は通り過ぎた。シャーリーは頬に汗を垂らしながら彼の姿を見た。彼の身体の一部は鈍色に光っていたが、それも錆びついていた。


 三人は部屋の前に飾られた表札を見ていった。エスタを探していく。

 探していく……。


 最後の一部屋に到達する。名札が剥がされている。そして、扉が半開きになっている。


 奥から、何やら声が聞こえる。


「もしかして、ここが……」


 シャーリーを間に挟む形で、ゆっくりと部屋に入っていく。


 小さなテーブルと粗末なベッド以外、殆ど何もない板張りの部屋。


 そのベッドの上、薄いシーツを乱れさせながら、誰かが男にのしかかられていた。

 薄汚れた労働者風の出で立ちの奥側に、長い髪の毛が見える――女だ。


「……ッ!」


 シャーリーは全身の血が沸き立つような感覚をおぼえた。今まで見たどの表札にもエスタを示すものはなかった。そして最後。髪の毛。女。答えは1つだった。彼女は前に出ようとした。


 しかし、フェイの腕が伸びて、それを制した。


「……チヨ」


 煙草の煙を吐いて、そう言った。

 彼女は頷いた。


 太った薄汚い男は、間違いなくその女を襲っていた。もしかしたら、手も出ているかもしれない。馬乗りになって、抵抗を受けながらも、やめることなく。


 今、その脂肪にまみれた分厚い肩に、細い手がかけられた。


「おい」


 その一言。


「……あぁ?」


 隠せない興奮を紫がかった顔面に浮かべたまま、どろりと振り返る。


 ――チヨの腕が伸びて、男の顔面に拳を叩き込んだ。


 男は鼻血を噴出させながらベッドの横、窓際の壁に叩きつけられる。チヨは手首をコキコキと鳴らす。無感情に。襲われていた女のもとへ、シャーリーが駆け寄っていく。


 チヨが、尻もちをついて頭を振り乱す男のもとへ一歩ずつ近づいていく。音も立てずに。


「てめぇ……――」


 男はへしゃげ、血に塗れた顔を憎悪と困惑で彩りながら、足を震えさせたまま立ち上がる。そして、懐から大ぶりのナイフを取り出す。チヨはそれを何の感慨もなく見つめる。


「があああああっ!!」


 男はそのままナイフを真っ直ぐに向け、突撃してくる。チヨは動かない。間もなく彼女の薄い身体に、その刃が突き刺さる――。


 ことはない。直線に向かってきた右手のナイフに、チヨは左手をまっすぐに向けた。そして僅か数インチの差でナイフを持つ手首を掴んだ。その時既に彼女の身体は男の懐にある。


「――……ッ!?」


 チヨはそのまま手首を捻りあげる。制御を失った手からナイフが離れて地に落ちる。流水のように自分の目の前に現れた少女に、男は対応できない。チヨの空いた片手が、男の首に伸びた。


 ……その片腕から『孔』が露出して、淡い光を放ち、彼女は一瞬『加速』した。床が僅かにめくれ、男は次の瞬間には首ごと窓ガラスに叩きつけられていた。


 ……ガラスの割れる音。ぱらぱらと窓の外に破片が降り注ぐ。今や男の首は窓の外にあり、その身体の全てはチヨに掌握されていた。


「ひ、ひ……っ」


「……」


 男はバタバタと手足を動かそうとするが、チヨの小さな体は予想以上に強い力で男を押さえ込んでいた。男の顔が恐怖に染まっていく。威勢などもはやなかった。


「――まだやるか?」


「な、なんなんだてめぇ、いきなり現れやがって――」


「質問に。答えろ」


「や、やらねぇ!! やらねぇから離してくれッ!!」


「……」


 フェイの声が届く。


「チヨ。その辺にしておけ」


「……ふむ」


 チヨは力を緩めて、男を窓際から解放する。男はよたよたとよろめいて後方に倒れ、それから四肢をもつれさせながらチヨに背を向けて部屋を出ていった。情けない悲鳴をその空間に残しながら。


「……歯ごたえのない」


 チヨは手首を軽く振りながら、少し残念そうな声音で言った。


「お前の基準に照らし合わせれば、世の男の殆どはそうなるよ……」


 呆れ顔のフェイ。

 彼女は振り返る。


 ベッドの上で、その2人が、対面していた。

 目を見開くシャーリーの前に、女が居る。


「……」


 彼女の前に居るのは、薄いワンピースを纏った茶髪の少女。

 やや赤く腫れた頬を押さえながらも、彼女は呆然とした顔をしている。


 そして、シャーリーが、決定的な一言を口にした。



「エスタ……だよね……?」

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