#5 秘密基地へようこそ
「ミランダ」
「………………何よ」
「そろそろ連中が帰ってくるぞ」
「………………そう、だったら謝らなくっちゃね」
「儂は知らん」
「………………なんで私は生きているのかしら」
ミランダ・ベイカーは溜息を大きく吐いて、チヨは茶を啜って苦い顔をした。
◇
サウス・メインストリート端にあるアール・デコ様式の6階建ての建物。
かつて名の知れたホテルであったその場所の二階に、彼女たちの城がある。
が、事務所の内部はまるで樹海のような様相を呈している。
入り口の向かって左に電話とメモ帳、右側に張り付くようにクローゼット。
その奥に行けば大きなソファが二つとテーブル、そこから見やすい位置に古くて分厚いテレビ、隣に様々な私物が大量に押し込められた棚。
更にその隣、仕切壁の向こうにはパソコン。部屋の最奥にはレストルームと書斎がある。天井には古めかしいシーリングファンが、ややぎこちない動きで回転を続けている。
そこまではいいのだが、問題はその『私物』が溢れんばかりに部屋中に広がり、更には至る所に転がるビールやウィスキーの瓶が彩りを添えているということなのだ。
酒の肴の袋、ハンバーガーの包み紙、おどろおどろしい内容のペーパーバック小説にホラー映画のDVD、約一名以外解読ができないであろう日本語で書かれた古本、弦の外れたギター、その他素性の知れないガラクタ無数。
そんなカオスの中、ミランダはソファの端でうずくまり、チヨは向かい合う位置で茶菓子を摘んでいる。いかにも慣れきった様子で。
……鍵が開く音がする。
「ハ~イ、根暗ども! 十字軍が帰ってきたわよぉ~~~~!!」
甲高い声と共にドアが盛大に開き、グロリアが顔を見せた。続いてキム、最後にシャーリーだ。
「ミランダさん、チヨさん、ただいまっス」
「ど、どうも」
シャーリーは少し頭をぺこりと下げる。ミランダはそのままだが、チヨは僅かに首を縦にかしげた。グロリアには反応しない。
「シャーリーちゃんはソファのそのへんに座っててくださいっス。コーヒーと紅茶、どっちがいいっスか? あ、グリーンティーもありますけど」
いつの間にか略称なのはさておき、シャーリーは言葉に甘えてソファに座った。それからコーヒーを頼んだ。キムがぱたぱたとキッチンへ駆けていく。向かい側にミランダが居て、隣には自分の存在など居ないかのように振る舞うチヨが居る。
さてシャーリーはどうしたものか分からなかった。しかし、この事務所の雑然とした雰囲気だけは存分に感じ取っていた。
「なんていうか、素敵なところ……ですね……」
シャーリーは笑いながら言ったが、少しだけ顔がひきつってしまった。
「そぉ? あたしは汚すぎると思うけどねー」
グロリアはわずか一秒でシャーリーの世辞を無下にして、テレビを付けた。NBAの試合の再放送をやっている。音量を耳障りなほどに上げる。それからテーブルの上に置いてあったスナック菓子の袋を開けて、おもむろに食べ始める。自由がここにあった。
「………………い」
向かい側で、小さく声が聞こえた。
それはミランダだった。
「そこだ、いけロペスッ!! あぁくそっ、何やってんのよ、キンタマついてんのかッ!!!!」
グロリアは聞こえていない。チヨはいつの間にか腕を組んで眠っている。凄まじい集中力。シャーリーの前にコーヒーが運ばれる。会釈する。湯気の奥でミランダが呟く。
「…………テレビの音、うるさいわよ」
だがグロリアには聞こえていない。キムは振り返って苦笑した。シャーリーは困惑する。なんだ、なんだこの……不穏な空気?
「………………テレビの音、うるさいって言ってるんだけど」
やっぱり聞こえていない。
ミランダは濁った目で金髪を見ていた。
そこからは一瞬だった。
「ああっ、駄目っスよミランダさん――」
キムの発言。しかし止められなかった。ミランダはソファから飛び降りて、グロリアの傍に近づいた。それから彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せ、その額に拳銃を押し付けた。
「……ッ!?」
シャーリーは戦慄して身構える。テレビの音は相変わらず響いている。チヨは一瞬目を開けたが、すぐにまた閉じて、不快そうに身動ぎする。皆動きを硬直させている。
「ちょっと……!?」
すわ、仲間割れか、と思った。鈍色の銃口を見ると肝が冷えた。既に見慣れているとはいえ。シャーリーは背筋が凍る思いを感じ取った。
「テレビの音を、下げろって、言ってるのよ、この色ボケ女」
「……」
グロリアとミランダの顔が近い。二人は睨み合う。
……そのまま、数十秒。
シャーリーは緊迫したまま二人を見つめるほかない。
「……ぷ」
片方が、噴き出した。
グロリアだ。
そこから空気が変わった。
「ぷっ…………あっはっは!! あんたヴァカじゃないの!? 音量下げたいならリモコン使えばいいじゃないの!! ねぇ傑作じゃない!? キムあんたも笑いなさいよ、この女最高だわ!! あっはっは!!!!」
「……」
「あー、いや、グロリアさん、ミランダさんちょっと今日調子崩してまして……」
「知らないわよそんなの、あー面白い面白い、あははっ、一日分笑えるわ、あはは」
ミランダは顔を俯けたまま銃口を下げる。その黒い髪が前に垂れ下がって亡霊のようになっている。シャーリーはおろおろと二人を交互に見るしか出来ない。不穏な空気はまだ続いている。キムを見た……彼女は苦笑いしているだけ。
「……私は…………今日、昨日の失態を謝ろうと思ってた……私がもっとしっかり撃っていれば、逃げられることもなかったかもしれないのに…………それなのにあんたは」
グロリアは笑ったまま、ミランダに目線を合わせた。
「それなのにあんたは、そうやって私の考えを無下にして、そこで平気で笑ってるのよね…………流石、フェアリルの淫婦は人の気持ちを踏みにじるのが得意だわ」
「……あ?」
グロリアの顔から笑顔が消えた。
キムは小さく「やべっ」と言って、仕切壁の奥に引っ込んだ。
「えっ!? えっ!?」
シャーリーは対応できない。
そして……火花が、散らされた。
「さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言ってくれるじゃないの30過ぎのババアが!!!! アンタがここに居るだけで空気が淀むのよ、今日だってそうだ、なぁにが謝ろう、だ、そう言やぁアンタは自分を可愛がれるから良いのよねぇ、御大層な身分だこと!!」
「なんですって……あんたが昨日何やってたか言ってあげましょうか?? 腐ったチリドッグを馬鹿みたいに食い散らかしながらキムに迷惑をかけていただけでしょう。何にもしないくせに態度だけは立派なんだから、やっぱりあなたはここよりも元いた薄汚い娼館のほうがお似合いなんじゃないかしら??」
「それならアンタにお似合いなのはくっそ下らない自助グループのくされカウンセリングの薄暗い輪っかの中よ!! そこで仲良く自己啓発だなんだと喋ってりゃいいわ、そうすりゃあんたらはそれで満足ですものねぇ、あぁ羨ましいわ、さぞかし忙しいんだろうなぁ!!」
「よく言うわ、メンバー一番役立たずのくせに!! あんたが来てから私はどんどん悪化してるのよ、私の主治医はね、一刻も早いあんたの排除を望んでるのよ。なんなら今さよならしてもいいけれど??」
「はぁぁぁぁ!? あんたのほうが来たの遅いじゃない、何言ってんのよ、銃にしか頼れない卑怯者なんかにあたしが負けるわけないじゃない、良いわよやってやるわよ!!」
「あぁ!!??」
「ンだゴラァ!!!!」
二人は額をぶつけそうな距離で論争を続けている。シャーリーはあわあわしながら二人を交互に見る。チヨは眠っている。キムは隠れながら苦笑いをしている……メッセージを送る。
(もしかしてこの二人いつもこんな感じなんですか)
返答……(だいたいそうっス。すぐに慣れますよ)。
「あんたなんて◯◯◯の☓☓☓なんだから!!」
「何よ……△△△の□□□しか脳がない売女の癖に――」
二人の論争はやがて卑猥な言語を絡めた低レベルで過激なものへと変わっていく。事務所のあらゆるものが踏み荒らされていく。
テレビ中継の試合は加速的な盛り上がりを見せていく。二人の争いがとうとう拳を交えだした。シャーリーはその間に「ちょっと」とか「落ち着いてください」とか言ってみるが、まるで効果がない。そもそも聞こえていない。
自分は初めてここに来たのに、まるで遠慮がない。シャーリーは心の中で叫ぶ――誰か止めてくれ!!
チヨは眠っている……が、その指がぴくりと動く。
「あんたが居るから私はッ!!」
「あんったさえ居なければッ!!」
――その瞬間。
チヨの目がパチリと開いて、その手足にある『孔』が僅かな光を噴射しながらその場を立った。次の瞬間に彼女は腰に携えていたカタナを素早く振り、宙を掻いた。
突然のことだった。その空間に斬撃の青白い閃光が迸った。キムとシャーリーが、小さく悲鳴を漏らした。
「ッ――」
さしものミランダとグロリアも、突然のその動きには動揺し、沈黙する。
「ち、チヨさん、何やって――」
「蝿が居たので斬った」
あっさりとそう言って、彼女は座った。テーブルの端には、真っ二つになった黒いものが落ちている。
「……」
「……」
ちなみに、彼女の斬撃はといえば、言い合いをしていた二人の髪の毛を少しばかりむしり取り、宙に放っていた。つまり、あと少しズレていればこの二人もただでは済まなかったというわけである。
金髪と黒髪はそれぞれ靴の裏を嗅いだ猫のような表情を浮かべている。
「うるさくて眠れん」
チヨはそれも気にすることなく、リモコンでテレビを消すと、何事もなかったかのようにソファに戻り、再び腕を組んで眠りの境地に入る。……一気に静かになった。
二人はもみ合うのをやめて、ひどくバツが悪そうに背中を向け合う。色々なものが削がれたらしかった。
「……」
開いた口が塞がらないシャーリー。キムがこわばった笑みを浮かべながらソファに戻ってきて、空になったコーヒーカップを回収する。
「あの…………」
シャーリーは、立ち去ろうとするキムに問いかける。彼女は振り向いた。周囲には来た時よりも散らばりが加速しているガラクタの山。山。山。まるで森の中。
「はい?」
「ここって……いっつもこんな感じなんですか??」
キムは――。
「はい。そうっス」
即答した。
「あはは……」
シャーリーは真っ直ぐ続く道の真中に立たされたような気持ちになって、その場で力なく座っている。チヨの小さな寝息が隣から聞こえてくる。
ミランダ・ベイカー。最年長、ただし色々と精神面に難あり。グロリアとは『
チヨ・タカナシ。無関心、無感動。いつも凪のような振る舞い。
「やぁ、来たな」
後ろから聞き覚えのある声。
フェイが書斎から出てきて、姿を見せた。シャーリーはソファから立ち上がる。
「あー、室長。逃げてましたね、この騒ぎから」
キムが口を尖らせて言う。
「馬鹿を言うな。窓を拭いていたのさ」
フェイはシャーリーの方を向いて、改めて言った。
「ようこそ第八機関のオフィスへ。いきなり騒がしいさまを見せてしまって申し訳ないが、うちはこういうところだ。容赦して欲しい」
「は、はぁ……ははは……」
リアクションとしては、いえいえ大丈夫ですよ、も素敵なところですね、も違うように思えた。ゆえにそんな曖昧な言葉となった。奥で、二人はまだ居心地が悪そうにしている。
「2日、ということだったね。その間にやってもらう仕事だが……さっそく、案内しよう」
フェイは歩き出した。シャーリーは続く。
「ここだ」
そこは、キッチン。
の、筈だった。
……リビングルームの比ではないほどの混沌が、そこに広がっている。
シンクの中から飛び出すほどにうず高く積もった使用後の皿。
飛び散った様々な食品の残骸。
換気扇は真っ黒で、当然ヒーター部分もどす黒いヨゴレが無数にこびりついている。
床にも冷凍食品やデリバリーピザの箱が落ちていて、ろくに足の踏み場もない……が、最低限の移動はできるように、それらをかき分けるようにして床に獣道が出来ていたが、それが何かの救いになるわけではない。
とにかくその場所は、絶句したのちに回れ右をしたくなるような状況に置かれていた。
「まずは、ここを掃除してもらいたいわけだが」
「……マジですか」
「マジだよ」
「わお……」
「なんでもすると言ったのは君だろう」
「容赦……ないですね」
「よく言われる」
リビングルームでは、両者が動いていた。
「くそッ、なんか白けちゃった」
「知らないわよ。もう近づかないで気持ち悪い、」
「チヨ、あんた危ないじゃないの!?」
「ああ」
「ああじゃないわよ、くそっむしゃくしゃする……ちょっと迎え酒してくる!!」「とっとと行きなさい。居なくなってせいせいするわ」
「言ってなよ」
ドアが閉まる音がする。
「あの、」
「何かな?」
「ずっとこんな感じ……なんですか」
フェイは、例の謎めいた涼しげな笑みを浮かべながら答える。
「あぁ、そうとも。愉快な連中だろう」
「はい、そうですね……ははは……」
愉快で済ませられるものかよ――そう思いつつ、シャーリーは笑うしかなかった。
「しかし、間違いなく優秀だ。
……その発言で、シャーリーは省みる。
昨日夜の大立ち回りを。あの圧倒的な戦闘を。そして、今日のあの二人の振る舞いを。
「それは……そうですね」
「まぁ、君の願いを聞き入れたことに免じて、そのあたりも受け入れてくれたまえよ」
フェイは彼女の肩を少し叩きつつ、背を向ける。
「キッチンが終わったら、リビングの掃除も頼むよ。あのバカどもが随分と愉快にしてくれたからね」
……フェイは書斎へと引っ込んだ。
シャーリーは、キッチンの前に立っている。
窓の外から、飛行機の音が聞こえた。ハイヤーグラウンドに降り立つのだろう。
その音を聞きながら、思う。
――あまりにも、あまりにも『濃い』人々。昨日この地に降り立った時点では背景に過ぎなかったものが、一気に自分の領域と交わっていく感覚。それは疲労を生み、際限のない驚きを生んだ。なるほど、これでは家政婦が逃げたのも納得だ。
そして、怒涛のような出来事の連続。昨日の今日で、既にこんな場所に自分がいる。第八機関とは何か。アウトレイスとはなんなのか。まだまだ頭の中で分からないことがあった。
だが、これだけは言える。自分が今この場所に居ることに、後悔はない。
確かにこの場の彼女たちは色々と『凄まじい』が、自分はそんな彼女たちに救われて、希望を託そうとしている。その先に、自分の望むものがあるかもしれないのだ。自分も、エスタに対しては、そんな存在であろうとしていたのではなかったか。
で、あるならば。
後は、彼女たちを信じて、ついていくだけだ。それまでに自分は、やれることをやるしかない。それがこの事務所の掃除ならば、それをやるだけ。
なに、ハイヤーグラウンドに居た頃だって、自分で出来ることは自分でこなそうとし続けてきたのだ。今もそれをやるだけだ――。
「……良し」
なかば捨て鉢には違いなかったが、シャーリーはジャケットを脱いで腕まくりし、キッチンの惨状へと向かっていった――。
◇
数時間後。シャーリーは順調に掃除を続けていた。今や頭にタオルを巻き、シャツに手袋という完全防備で臨んでいた。
もとより、掃除というものが彼女は好きだったので、気合いは入れようと思えばいくらでも入れることが出来た。散らばったゴミをまとめてポリ袋に入れて、汚れを執拗なまでに拭き取っていく。一度腹をくくればどこまでも集中することが出来た。
ひとえに、これもエスタのためだった。
「……流石、ハイヤーの人間、というところかしら……?」
後ろからゆっくり飛んできたのは、ミランダの声だった。今、リビングには彼女しか居ない。グロリアは飲みに行き、キムは何やら買い出しに赴いていた。
「そんなことないですよ。ボクが、ごちゃついてるのが苦手なだけです」
褒められたのかどうかはわからなかったが、謙遜を示して言う。
ミランダはソファに横たわりながらパイプを吸っていた。紫煙が、宙をふわふわと舞う。
「あなたは……ハイヤーの人間にしては、とても純粋で……驕ったところがないわね……」
おもむろに。
――やはり、ハイヤーグラウンドの人間というのは。そんな風に思われるものなのか。
シャーリーはあらためて、自分がどこから来たかを思い知った。
しかし、彼女がくれたのは賞賛だった。
「そんなこと、ないです。色々、損する性格だと思います」
手を止めて、また謙遜する。
まもなく、キッチンの清掃が終わろうとしていた。
しかし次に待っているのはリビングルームである。一通りのゴミをまとめると、用具を持って移動する。
ミランダがけだるげに座っているのが見える。
「……あなたは」
彼女は静かに言った。発言のタイミングが掴みづらい。よく見ると、シャーリーの方を向いて言っているわけではなかった。
「……はい?」
「あなたは、友達のことを本当に……大事に思ってるのね」
シャーリーは一瞬間を置いてから、発言の内容を理解して、返事をする。
「エスタはボクの、一番大事な人ですから」
「それは……どうして?」
シャーリーはミランダを見た。彼女は変わらず、自分を見ていない。しかしその声音には、知りたいという気持ちがこもっているように思えた。ゆえにシャーリーは、本当のことを言うことに決めた。
「生まれた場所も、環境も違うのに……偶然出会ったのに仲良くなれたのが、嬉しかったんです。それ以上に、私と仲良くなってから、エスタが笑顔になってくれたのが嬉しくって」
そして、シャーリーは回想する。彼女とともに過ごした日々を。そして、彼女に出会うまでの自分の人生を。
◇
――幼い頃、シャーロット・アーチャーは空っぽだった。エスタに出会うまで。
心を、固く閉ざしていたのだ。何も楽しみがなかった。辛い時代だった。
しかし、ある日エスタに出会った。そして彼女の中にある孤独と、自分の中にある孤独が通じ合った。その日のことをはっきりと覚えている。口数は少なかったが、不意に一緒に遊び始めた。
その感覚……自分と彼女は同じなのだという感覚を、忘れることは出来ない。
エスタは荒んだ環境に居た。幼い自分が聞き及んだことだけでも、彼女が自分よりずっとひどい暮らしをしていることは理解できた。服も、肌も。シャーリーよりずっとみすぼらしくて。
しかしそれでも、彼女はどこまでも優しく、思いやりにあふれた少女だった。だから彼女はシャーリーを思い、シャーリーも彼女を存分に思うことが出来た。
閉ざされていた心は、その頃になるとすっかり雪解けしていた。
「ねえ、シャーリー……」
出会ってからしばらくして――彼女はシャーリーに言った。
「私ね、あなたのおかげで生きるのが辛くないの。つらいことがたくさんあっても、大事なものを見失わないで済んだ……あなたは、私を助けたんだよ、シャーリー。ひとりぼっちだった私を」
「……」
赤いマフラーに二人で首を包みながら、そんな会話をかわしたことが記憶の中にあった。
そうして彼女は、彼女になったのだ。
◇
「エスタと友達になってなかったら、本当につまらないまま人生を過ごして、つまらないまま人生を終えてたんだと思います。だから……そうならなくて本当によかった」
シャーリーは言った。自然と顔が綻んでいた。
だが……ミランダは、黙っていた。
「どうしたんですか……?」
振り返って尋ねると、彼女の瞳がシャーリーの方を向いた。
「あなたはとても純粋……」
彼女は続けた。
「だけど……私には、ちょっと怖いようにも見えるわ……何かにぶつかれば、途端に崩れてしまいそう……」
シャーリーは。
「そんなことは……」
言い返す言葉が、なかった。
頭の中に、ある光景がちらついた。
震動のさなか、伸ばした手、絶望する顔、剣、届かなかった手、その時の感情――。
『――続いてのニュースです。先日ウィルミントンで発生した“純人間連続殺害事件”についてロサンゼルス市警察は、組織的犯行の可能性はありえないとする見解を発表しました――……』
額に瞳のあるキャスターが無機質に吟じる中、外では球技で遊ぶ様々な姿の子供たちの声が響き、車のエンジン音が鳴っている。
空には、羽ばたきながら移動していく獣人達の姿が見える。カリフォルニアの陽光が窓から差し込んで、光の粒を室内に反射させる。
そうして、時間が過ぎていく。
◇
「では、やはり奴の足取りは不明、ということで良いのですね」
フェイは、吸い殻を灰皿に押し付けながら電話越しに言った。
ワインセラーと本棚に囲まれた瀟洒な書斎である。革張りのチェアに腰掛けながら、足を組んでいる。
『そうだ。その存在の質量、能力。何もかもが未知数。信用できるものといえば、奴の引き起こした事象そのものだけだ。それだけは厳然たる事実として現実に起きている。つまり、次元の裂け目が現れて当該者を呑み込んだと言うのなら、それがそのまま真実となるのだ』
電話越しの声は男の声だった。どこか切羽詰まった、真剣味のある声。
「なるほど。そいつは素敵だ」
彼女はもう一本煙草を取り出し、口に咥えて火をつける。
『……すまん』
「なぜ謝るんです?」
フェイはくすりと笑みを漏らしながら、煙を吐いた。ふわふわと白いもやが漂う。
『結局のところお前達には、ディプスの行動に対し、水際での行動を命令せざるを得ない……いつも後出しだ。ひとえに、我々が至らぬからだ』
「貴方はいつも、
フェイはそう言った。電話の向こうで、唸るような声が聞こえる。
「今の我々に水際での行動しか出来ないなら、それをやるだけです」
『しかし……』
「それに――近いうち、何かが起きる。そんな気が、しているんですよ」
声を少し潜めて、言った。すると向こう側の声は、少し声量を下げた。
『それは君の中にある、力の残り香がそう言っているのかね』
「さぁ――それは分かりかねます。なんとも言えませんね、グッドマン」
正直な意見だった。
『そうか……』
しばらく二人は、他愛のない会話を続けた。それから、ディプスが再び行動を起こせば最優先で対処を行うことを宣言し、通話を切った。
すりガラスのドアの向こうで、シャーロット・アーチャーが『雑用』を続けている。
彼女のことはグッドマンに報告しなかった。だがそれでいい。別に正式に雇用するわけではないのだから。
……とはいうものの、フェイは暫くの間、何故か彼女の動く姿が視界から外せなかった。
その理由を深く考える前に、彼女は棚からお気に入りのスコッチを取り出してグラスに注いだ。
◇
浮島の下に漂う陰鬱な陽光の中、時間は過ぎていく。
ラジオの音声が空間を彷徨い、人々の暮らしの中を通って消えていく。
ビル群の上から見る街並み。無数の人々が跋扈し、行き交い、どこかを目指し続けている。まるで移民のように。
光の加減が数秒ごとに変わって、昼が夕方に、夕方が夜になっていく。南国の街路樹もまた、時間が経つごとにその頭を深く下げていく。
街に人工の光の量が増えていく。
一日の残りが、淡々と過ぎていく。
16時頃、事務所のドアを盛大に開けてグロリアが戻ってきた。
大方の予想通り酷く泥酔しており、素性の知れない土産物を大量に持ち込んではキムを困惑させ、チヨに無関心な態度を取らせた。
その後再びミランダとの口論が発生し、シャーリーはその仲裁に尽力したが終始無視を続けられてしまったため、部屋の清掃を続けることにした。
その後窓の外は藍色に包まれ、事務所のある窓だけが明るい光りに包まれていた。その中で皆それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。
キムとミランダはシャーリーの掃除を手伝おうとしたが、そこにフェイがやってきて、彼女がやるべきことだと言ってそれをやめさせた。シャーリーとしてはそれでも構わなかった。
夕食はデリバリーのピザにした。グロリアがシャーリーに飲酒を勧めてきたが、徹底して断った。そこで再びミランダと口論が発生していた。フェイ曰くこの店のピザはサラミソーセージが前より質が下がったとのことだった。
夜の暗さは加速していき、室内の人工の光だけが明るく目立っている。20時を過ぎても、何も起きることはなかった。毎日何かしらが起きているのだが、何もないというのは珍しいとのことだった。
というわけで皆事務所を離れ、それぞれの寝床に帰っていった。よほどのことがあれば事務所に泊まるが、大抵はろくなことにならないのでフェイが帰らせているとのことだった。
シャーリーもその日一日の掃除を終えて、フェイに挨拶をして事務所を離れた。明日、また来ることになる。
事務所を出て階段を降りると、そこにチヨが居た。彼女は「ホテルまで送る」と言ってくれた。フェイが手を回していたらしい。
シャーリーとしては感謝の念でいっぱいだった……昨日のようなことがあってからというもの、夜の道を一人で歩くなど、ぞっとしない想像だったからだ。
そうしてシャーリーは、チヨの運転するバイク……スズキ・カタナの後ろに乗ってホテルに着いた。到着すると彼女はあっさりと身を翻して、感謝を言う暇もなく去っていった。そういう人物なのだろう、とシャーリーは思った。
ホテルに戻って、シャワーを浴びて就寝の準備を済ませる。
「……ふぅ」
下着だけになって、ベッドの上に身を投げだした。髪の毛が広がった状態で、手足を大の字に脱力させる。
窓の外には明かり。遠くには、天まで昇る電飾。ヘヴンズソード。
それを見て、呟く。
「随分……遠くまで、来ちゃったな」
……色々なことがありすぎた二日間だった。未だに、頭の中がごちゃついていてまとまりを得ることが出来ない。
しかし、意味のあることだと思いたかった。全ての行動が、確実にエスタへの道に続いているものだと信じたかった。
電気もつけずに、薄暗い部屋の中、手を天井へと伸ばしてみる。
「ボクの……手」
――ミランダの言ったことが、不意に頭をよぎった。
――“何かにぶつかれば、とたんに崩れてしまいそう。”
そうして蘇るのは、またあの日の光景だ。
……『その瞬間』から、ずっと繰り返している。
「怖くなんか」
自らに言い聞かせるように、彼女は呟く。
「怖くなんか……あるもんか」
やがて時間が過ぎ、運命の時刻にたどり着こうとしていた。
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