図書委員会が大人しいとは限らない

アーキトレーブ

人形が動かないとは限らない

「楓先輩。聞きたいことがあるんです」

「コウ。図書室では静かにしなさい」


 楓先輩に睨み付けられて、僕、コウは立ち止まってしまう。

 内心しまったと思った。彼女はこの図書室の主。そして、規律には異常なほど厳格な人で、いつもなら何かで殴られる。


 でも、遅れて今日は違うのだと思い出した。

 現在、楓先輩は眼鏡を失って、気配だけで通常業務をこなしているらしい。僕がやると言い張ったのに、頑固な彼女は任せられないと言い張って、結局一緒にやることになった。

 それでも本のタイトルすらわからないので、返却された本が積まれた台を、老人用手押し車のように押していた。


 放課後、図書室には他に誰もいない。


 我が嵯峨沼高校は図書室の利用者数は少ない。返却された本はたった数冊。


 貸し出しカウンターの業務は呼び出しベルに任せて、僕らは図書準備室のいつもの席に座る。


 その部屋は僕らの部室のような場所だった。貸し出しカウンターからしか出入りできない密室で、部屋の中央に長机が二つ配置され、パイプ椅子が三席。部屋の周囲には、滅多に使わない歪んだロッカーと埃を被った本棚たち。

 窓辺には、楓先輩よりもさらに前の図書委員の方が残していった観葉植物。僕たちのスクールバッグが、荷物置き用の机の上に置かれていた。


 一般的な高校だと、図書委員会は各学年のクラスからメンバーが選出されて、その中で図書室の貸出業務などをおこなうらしい。しかし、我が高校では図書委員会は特例として認められた部活のようなもので、文芸部員でもある僕たちが図書室を運営していた。


 僕は、目の前に座っている楓先輩に首根っこを掴まれて、この委員会に所属している。好んで雑用する奉仕精神なんて、生まれてから一度も持ち合わせていない。


 いつもの気怠い業務の時間だった。


 そして、彼女、我が嵯峨沼高校図書委員長、水無月楓は泣く子も黙る本の砦の長である。

 先代の図書委員長である実の姉に決闘状を叩き込み、今の座を勝ち取った。全て彼女から聞いた話なので、本当かどうかは知らない。

 眼鏡に黒髪ロング、いかにもなインドア派の風貌をしているのに、中身は葉巻が似合うベトナム帰還兵だった。『嵯峨沼の闘う図書館』とは彼女のことをいう。


「余計なこと思ったでしょう」


 長机の上で、彼女は見えない視界でじっと座っていた。いつもなら準備室内では文房具を武器に弄ばれる。だけど、今日は違う。眼鏡をかけていない彼女の戦闘力は百分の一に減って、まるで牙の抜けた獣のようで、全く脅威を感じない。

 文句があるとすれば、目付きが恐い。そういう意味では眼鏡をかけて欲しかった。


「はは、僕がそんなこと思うわけないじゃないですか。お茶入れますね、楓先輩」

「ええ、そうして」


 図書委員の特権として使えるポットに急須。慣れた手つきで緑茶を差し出すと、準備室のドアが勢いよく開いた。


「姉貴―! 眼鏡持ってきたぜ。お、コウ先輩ちーっす!」


 無駄にうるさい後輩がやってきた。楓先輩の妹、水無月渚は僕の一つ下の高校一年生。飛び込んできた勢いで黒いショートが跳ねる。委員会の常連の一人だった。


「ありがとう。渚」

「全然良いよ。眼鏡書けてない方が似合ってるのに。コンタクトにしたら?」

「そうね、考えとく」


 そう言って楓先輩が眼鏡をかけた途端、絶句した。


「ひっ!?」


 そして、立ち上がって、横に突っ立ていた妹の渚の背後に回り込む。机の上に置いてある物体から距離をとる。そうこれについて僕は聞きたかったのだ。


 けれど、楓先輩は答えられるような様子ではない。動物に例えると飢えたライオンのような、あの楓先輩が子鹿のように震えていた。


「はっはーん、コウ先輩。その人形どうしたんですか?」


 渚は悪いことを企んでいる表情になる。

 机の上には日本人形。背丈は二十センチほどの大きさで、昼休みから図書準備室の机の上に置いてあった。真っ赤な着物を着た市松人形だった。


「うちの姉貴、それが苦手なんですよ。あれは長野のお祖母ちゃん家に夏休みに言ったときだったかな」

「やめて!!」


 カエルが踏みつぶされたような渚の悲鳴。

 妹の背後に隠れていた委員長が、その首をチョークスリーパーで締め上げる。咄嗟に出てくる技ではない。


 渚は手をばたつかせて、机の上の日本人形を掴み取り、楓先輩の顔面に突きつけた。

 まるで水戸黄門の印籠の見せつけられたように、楓は鼻先に突きつけられた人形を見て、楓先輩は部屋の隅に追い詰められていく。


「この馬鹿姉貴。死ぬ! 窒息死するから!!」

「渚、ごめん! お願いだからやめて! 今のは私が悪かったから!」


 楓先輩のしおらしい声を聞いて、僕は思わず二度目してしまう。あの彼女が怯えたように、準備室の隅に座り込んでいた。

 目から鱗の発見だった。人形一つでこんなにも立場が変わるとは、あの人形がこの悪逆非道な政治に対する、勝利の女神に見えてきた。


「と、ともかく。これは私が回収しておくから」


 楓先輩は人形を渚から奪い取って、部屋の隅にあるロッカーに押し込んで、勢いよく扉を閉じる。そして、バッグからキーを取り出して鍵を閉めた。


 いつもの業務に戻ろうと逃げるように、楓先輩は図書準備室から出る。


 ドアがしっかりと閉まったのを確認して、僕は渚に声をかけた。良いことを思いついたのだ。


「なあ、渚後輩」


「どうしましたコウ先輩」と彼女はまだ首が痛むようで、さすりながら僕を見た。


 僕は椅子からゆっくり立ち上がって、閉まったはずの金属扉をカチャリと開けた。


「先輩は鍵が壊れていることを知らない」


 このロッカーはだいぶ昔からあって、数ヶ月前から鍵が空回りして施錠できないのだ。その鍵を持っている彼女は、ほとんどこれを使用しない。だから、中には何も入っていなかった。

 そして、楓先輩はドアが開くなんて思っていないだろう。この前掃除を任されて偶然見つけた、僕だけの秘密。何かに使えるかと思って、そのまま何も入れなかった。まさかこんなにも早く反撃のチャンスが来るとは思わなかった。


「コウ先輩もなかなかのワルですね」


 と自らの姉の生態を知り尽くした彼女が、ニヤリと笑う。常日頃から彼女から不当な暴力を受けてきた身である僕たち二人、思いつくことは一緒だった。


**********


「渚ったら余計なこと言って、ところであの人形がどうして準備室にあるの?」

「それがわからないんですよ。今日の昼休みに来たら置いてあったんですけど、帰ろうとしたら消えていたんです」


 先輩なら必ずそう聞くと思っていた。


「それは不思議ね」と先輩の声が僅かに震えた。


「そして、放課後に僕が図書室を開けると、またあの準備室にいたんです。もちろん、カウンターにいましたし、今日の昼休みの当番は僕だけです。何故かあの人形は昼休みの間に消えて、放課後にまた現れたんです。まるで勝手に動いたように」

「そんなっ!!」


 楓先輩は自分が大きな声を発したことに申し訳なさそう下を向いて、


「そんなことあるわけないじゃない」と小声になった。


 もちろん嘘である。あの人形は放課後から置いてあった。何故そこにあったのかは知らないし、それをもともと先輩に聞こうと思っていた。

 でも、そんなことはどうでもいい。


「僕もそう思いますよ」


 そう、人形が勝手に動くことなんてない。そのイメージを連想させてあげれば良かった。


「実はちょっと思い当たるところがあるんです」

「どんな……?」


 楓先輩が予想以上に食付く。ホラー話が好きなのは知っていた。明らかに恐いのだろうと予想しながらも、先輩はしっかりと聞いてくれた。ここからが僕の腕の見せ所である。


「実はですね。この嵯峨沼高校には四十年前から潜んでいる市松人形がいるんです――」


 話を広げようとした時に、鈍い音が準備室から聞こえた。

 ちょっとタイミングが早かった。僕はその音の理由を知っていた。けれど、先輩は別だった。


 目を見開いて、準備室のドアを見る。


 ロッカーを叩きつけるくぐもった音だ。その中には渚が入っていた。

 先輩が図書室の書架整理を始めたのを見計らって、図書室入り口に待機していた渚を呼び戻し、悪戯の仕込みをしたのだ。

 あの密室の中には誰もいない。先輩はそう思っているはずだ。


「ねえ、今の音って何?」

「さあ? 何かが暴れている音ですかね」

「……っ!?」


 と楓先輩は無言の悲鳴を上げた。

 それでも渚はロッカーを叩くのをやめない。ますます楓先輩が青ざめていく。

 しかし、委員長の責任があるからなのか、図書準備室のドアに手をかける。僕は全く知らない素振りで後から着いていった。打ち合わせ通り、十秒ほどで渚が静かになる。


 ドアを開けると、

 楓先輩は飛び上がった。


「きゃあ!」


 僕らの長机の上に、その人形が仁王立ちしていた。夕日で赤く染まったあかね空を背景に、真っ赤な着物を着た彼女がこっちを見ていた。


 その異様な雰囲気に、仕掛けた僕自身もビックリしてしまう。

 楓先輩が女の子のような悲鳴を上げた事実にも驚いてしまう。


「な……なっ!!」


 楓先輩は語彙力が低下していた。おそらくなんでここにあるのと言いたかったのだろう。


 普段、冴え渡る頭脳も人形の前では、発揮できないらしい。

 頭を抱えながら震える楓先輩を見て、僕は笑い転げそうになる。渚も笑っているようでロッカーがガタゴトと震えている。その効果音は偶然にも、先輩の追い打ちになってしまう。


 ネタばらしはするつもりはなかった。バレたらきっと殺されるだろう。図書室を閉めた後に、忘れ物を取りに行くふりをして、渚を回収するつもりだった。

 渚には汚れ仕事させてしまった。『先輩、私は大丈夫です。目的は一緒ですから』なんて言っていた。今度、ケーキでも奢ってやろう。


 後は人形に適当な因縁を付ければいい。暴力を振るえば呪われるなんてのはどうだろう。ちょっと子供じみてないか。でも、この先輩なら信じそうな気がしてきた。

 夢を膨らませながら慎重に戦略を練っていると、


「お、どうした。今日は賑やかだな」

「先生!?」


 青木先生が準備室に入ってきた。熊のような風貌で、担当科目は現国。図書委員会という部活の顧問でもある。


「おお! ここにあったか!」


 まずい。非常にまずい。僕は命の危機を察知した。


「やっぱりここにあったか。どこかに置き忘れてしまってな。先月、通販で買ったばかりだというのに」

「通販……?」

「そうだ、通販だ」


「四十年前からあるんじゃ……?」と楓先輩が冷静になっていく。


「そんな昔からうちの高校はないよ。うちはできれから三十年ちょっとだ」


 じゃあなと豪快な笑い声と共に去って行く。図書準備室のドアがパタリと閉じた。それはラウンド開始を知らせるゴングの音のようだった。


 先輩の眼鏡がきらりと光る。これは逃げ切れないときのゾッとするほどの笑顔だった。


 ロッカーの中にいる渚も息を殺す。しかし、間に合わなかった。


 先輩はその金属の箱に歩み寄って、渾身のパンチを叩き込んだ。


「ぎゃあ」と反動で壊れた扉が開き、渚が崩れ落ちるように飛び出してきて、


「すみませんしたー!!」


 と渚は華麗に土下座を決め込んだ。


「すみませんしたー!! コウ先輩が人形を動かしただけなの。ロッカーが実は壊れてて、それを知らないからって悪戯をしようって。私言おうとしたんだけど、先輩がダメだって」

「な――」


 閃光のごとき速さで裏切られた。

 もうこの密室には人形はいない。確かに僕たちを守るものはなかった。彼女の判断は正しかった。伊達に十何年も姉妹をやっていないと言うことか。


 外はもう日が沈みかけていた。悲しそうな夕日の光が、先輩の眼鏡に反射する。

 手には武器を持っている。机の上にいつも置かれている、彼女愛用の百科事典である。人形がいなくなって、眼鏡を手に入れて、片手には武器を持っていた。渚はもう終わりだと、土下座しながら肩を震わせていた。


「楓先輩落ち着いて下さい! そして、おろして! その振り上げた腕をおろして下さい! 図書委員長なら、先人の知恵の偉大さを知っているでしょう!? ブリタニカが分厚いのは鈍器に使うためじゃない!」


 僕の言い訳も空しく、頭蓋骨が割れるほどの衝撃が、脳天に直撃した。

 先人の知恵の物理力はすさまじかった。


**********


 頭がずきずきと痛む中で、帰り支度をしている。渚は図書委員会ではないが、罰として片付けを手伝わされている。家に戻ったら、さらに酷い目に合うらしく、帰りたくないと泣いていた。


 例の人形について、僕は一つだけ疑問が残っていた。


「ところで渚、人形って動かしたのか?」

「え? 置いたのは窓際じゃないんですか? 遠くで見つめてた方が恐いって結論になったじゃないですか」


「いや、ここに置いてあったんだ」と机の上をトントンと叩き、


「僕は動かしてないよ」と念を押すように、重ねて答えた。


 図書準備室の窓辺の観葉植物の横に、あの人形を置いたはずだった。

 でも、人形がいたのは部屋の中央の長机の上。僕はてっきり渚がドッキリのクオリティを上げようと移動させたものだと思っていた。

 確かにそっちの方がビックリしたし、僕自身も思わず声が出てしまった。


「先輩が動かしたんじゃないですか。あの中にずっといましたよ。外で物音がしたのでてっきり先輩が動かしたんだと」

「だから、渚をそこに入れてから、僕はこの部屋に入ってない。そんな人形が勝手に動くなんて――」


 図書準備室が沈黙で埋まる。


 三人揃ってその場から逃げだした。

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