第6話

 容赦なく頬を引っ叩かれた椿は、その場によろめいた。かろうじて倒れるのは免れたが、今度は胸倉を摑まれて再びその白い頬を打たれた。

 あやめが耳を澄ませる必要もないほどの怒号が響き渡る。

「貴様のせいで……!」

 初めて聞く父の烈火のような声に、あやめは震え上がった。子供の頃に何度もいたずらをして叱られたことはある。だが、ここまでの激しい怒りは一度も見たことがなかった。

「貴様のせいで、あやめは……!!」

 何を言っているのか、あやめには理解できなかった。土壇場で花嫁をすり替えたのは父本人だ。それがどうして椿のせいになるのだろう。

「やめて……、もうやめて父様……!」

(見るな)

 木の影から様子を窺うあやめを引き戻そうとしたが、がんとして動かなかった。自分の知らないところで、何が起きているというのか。父と姉の間に何があったというのか。

 三度頬を叩かれて、椿は鼻血を噴いてその場に崩れ落ちた。父が華奢な娘の腹を蹴ろうとすると、椿が必死に抵抗をする。

「やめて、お願い! 私、お腹に……」

 腹をかばった椿の腕ごと、思い切り蹴り飛ばした。身体をくの字に折り曲げて、悲鳴をあげて椿の身体が転がっていく。

 さらに追い討ちをかけようと近づく父から逃れようと、椿は池の方へ這って行こうとした。だがか細い彼女の腕ではほんのわずかも逃れることができないまま、両足首を摑まれて引きずり戻される。

「やめて、お願いやめて!」

 うつ伏せになったままの椿の抵抗もむなしく、父は娘の細い腰を結ぶ帯を力ずくで解き、そのまま着物をはぎとった。


(見るな!)

 何が起きているのか、あやめには解らなかった。いや、解っている。だがそれを理解することを、彼女の全身が拒否していた。頭の中が真っ白になったあやめは、容易に龍神に引き戻された。完全に木の影に隠れたあやめには父と姉の姿は見えない。それでも悲鳴と、怒号とが聞こえてくる。耳を塞いでも聞こえてくるようだった。

 まるで死んでしまったかのように動かなくなったあやめを、龍神は目と耳を塞ぐように強く抱きしめた。

 もしわずかでも水に触れていたのなら、そのまま知られぬように池の底へと戻れたものを、岸に上がってしまっていたばかりに──。舌打ちを必死に堪えて、龍神は歯を食いしばった。

 油断した。月に一度の祈りは、普段ならまだ先だ。まして花嫁の儀式があった直後にやってくるとは、さすがの龍神も思わなかった。あるいは獣道とは反対側の岸にでもあがればよかったのだ。今いる場所はふたりの人間がいる場所から近すぎて、池に戻るには見つかってしまうかもしれない。

 ただ悪夢のような時間が過ぎていくのを待つしか、誰にもできなかった。


 池の底に戻ったあやめがようやく口を開いたのは、日も暮れて月が夜空高くに上った頃だった。

「どういうこと?」

 龍神がすべてを知っている、という前提であやめは訊ねた。

 龍神はあのとき、見るなと言った。あやめに見せまいとした。その後で何が起きるか、知っていたのではないか。

「知ってどうする。お前に何ができる」

 あやめにつかず離れずの距離を保って、龍神はうなだれたまま応えた。ふたりとも目を合わせることもなく、重苦しい沈黙に耐えている。

「じゃあ聞くけど、隠すことに意味があるの?」

 あやめはもう見てしまったのだ。恐らくはずっと家族の間に横たわっていたのであろう、重大な秘密を。亡くなった母は知っていたのだろうか。それらをあやめが知ったところで、もう村に戻ることができない彼女にはどうすることもできない。だが、だからといって知らないままで──否、知らぬふりをしたままでいていいのだろうか。

 知らないままでいることもできるだろう。けれど、目を逸らしている自分をあやめはきっと許せない。

「……耐えられるのか」

「わからない。でも、逃げて回るのはいや」

「断る、と言ったら?」

「私を村に帰して。直接訊きに行くから」

「死ぬぞ」

「あんたに関係あるの?」

 ようやくふたりの目が合った。ここに来たときには炎のように烈しかった漆黒の瞳が、まるで死んだ魚の目のようだった。生気を失った顔が痛々しい。

「……俺も正確に覚えてる自信がないがな。お前が生まれるより前の話だ」

 龍神は、天を仰いだ。あのときも月が池の底まで照らしていた──。


 あやめの母は、山をふたつ越えたところの集落から嫁いできた。母の村ではちょうどつりあう年の男がいなかったため、器量が良かったにも関わらず嫁に行き遅れていた。それを嘆いて母の村の村長が見合い話を持ってきたのだ。父よりも年上ということで躊躇したようであったが、一度顔合わせをしようとそのまま父が母の村を訪れた。そこで父は母に一目惚れをした。これは是非にと結婚が決まり、父は結納の日を心から楽しみにしていた。

 そして結納の日、次期村長の花嫁が来たと村をあげてのお祭りになった。

 やがてほどなく母は椿を身篭った。だが臨月間近になり、何かおかしいのではないかと疑問を抱いた父は、慎重に母の身辺を探った。

 母は嫁ぐ前から、若い男と通じていたのだ。椿は父の子ではなく、その若い男の子であった。

 これが露呈すれば父は大恥をかくことになる。しかしこのまま他の男の子を自分の子として育てるのは我慢がならない。

 父が嫉妬に狂って行く姿を見て恐ろしくなった母は、子供が生まれる前に逃げ出そうと思った。だが身重で単身で山を越えられるはずもない。若い男とひっそりと文のやりとりをしていた母は、駆け落ちしようと文をしたためた。そして男は母を連れ出すためにやってきた。

 その男を、父は殺した。止めようとした祖父──当時の村長を勢い余って殺してしまったが、すべての罪を男に着せた。

 家に男が忍び込んできた。妻を襲おうとした男を止めようとして、村長は殺された。そのまま森に逃げようとした男を捕まえて殺した。あまりのことに妻は早産をしてしまったが、幸い無事に女児が生まれた。だが体調が優れないので外には出られない。

 父はそう言った。村人は当然信じた。嫁ぐときにはすでに身篭っていたために、早産であると言わねばつじつまが合わなくなるのだ。しばらく村人の目から隔離することで、疑問を抱かれることはなくなるはずだ。

 父は母が病弱気味であるとして、家の中に閉じ込めるようになった。それはあやめが生まれてからも続いた。やがて母は病に臥し、あやめが三つになる頃にこの世を去った。

 その日の、月が眩しい夜からだった。あの悪夢のような獣の行為が始まったのは──。


「……ああ、それで……」

 驚くほど静かにあやめが呟いた。

「どうりで……」

 子供の頃に月に一度の祈りを捧げに池へと向かった父を追って、森に入って迷ったとき──確かに姉は池の方からやってきた。何事もなかったかのように振舞っていた姉の心中は如何ばかりだったであろう。

 そして何故花嫁をすり替えなければならなかったのか。

 花嫁は清らかでなければならない。父によって穢された姉では勤まらなかったのだ。

 結局父は自分の手で、自分の本当の娘を手放さなければならない状況にしてしまった。そのどうしようもない怒りが姉へと──その向こうにある、母への裏切りへとぶつけられるのだ。

 父は姉ばかりをかわいがっていると思っていた。だが実際にはそうではなく、監視だったのかもしれない。

「なんかもう……疲れちゃった」

 倒れこむようにあやめはその場に横になった。その拍子に懐に入れていた短刀が転がり落ちる。それを手に取り、鞘から刀身を引き出して、そこに映った自分の顔を見てあやめは薄く笑った。

「馬鹿みたい。私ばっかり、何も知らないで……」

「……おい!?」

 明らかに様子のおかしいあやめに、龍神がぎょっとして顔を覗き込む。

「大丈夫よ。もうね、死ぬ気力もないの」

 泣くこともできないあやめの心を代弁するように、月が雲に隠れた。目を開いているか閉じているかも解らない暗闇の中で、何かがあやめの額に触れた。

 龍神の手が、あやめの両目を隠すように覆っていた。

「…………っ」

 ただ小さくすすり泣く声も、やがて闇の中に溶けていった。

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