第5話

 翌朝、あやめは白無垢を脱ぎ捨てて茜色の綿の着物に着替えた。

 子供の頃に姉が仕立ててくれた着物に色がよく似ていた。派手な色を好まなかった姉と母のお古の着物は、子供心にいかにも地味でみすぼらしかった。あやめのわがままに姉は森で一日がかりで染料となる植物を探し出し、染めてくれたのだ。その色は、姉の優しさの象徴だった。

 昨日床に突き刺したままだった短刀は、きちんと鞘に収められてすぐそばに置かれていた。触れてみて、一度鞘から抜いてみたが、何か細工をされている様子もない。龍神の意図を図りかねるが、とりあえず肌身離さず懐に隠し持つことにした。

 水面からは光が降り注いでくる。清らかな水は太陽の光を底まで届け、群れをなして泳ぐ小魚たちの鱗に反射してきらきらと輝いている。水に遮られて外の音が届かない池の底は静謐そのもので、昨日あれほど騒ぎ立てたあやめの心さえ嘘のように宥めてしまった。

 天を仰ぐように立ち尽くしていたあやめは、少し離れた場所で横になっている龍神を見た。こちらを向いてはいるが、目は閉じている。この美しい池の様子も、龍神には見飽きた景色でしかないのだろう。退屈そうに、ただ時間が過ぎていくのを待っているようにも見える。

 龍神は捨てられてここで半龍になったという。あやめはその龍神に嫁ぐという形で村から追放された。もうお互いに帰る場所も、行くあてもない。似た者同志でただここに存在するだけというのも、思うほど悪くはないのかもしれない。

「ねえ。ちょっと」

 あやめの呼びかけに、龍神は眉間にしわを寄せて面倒くさそうに目を開いた。

「池の外に出たいんだけど」

 龍神は実に──実に面倒くさそうに半身を起こし、あぐらをかいた。ぼりぼりと頭をかいて、

「馬鹿か」

 一言、吐き捨てた。

「昨日俺が言ったことを忘れたのか。それともそもそも聞いちゃいなかったか」

「聞いてたし覚えてる。そういうあんたこそ最後まで話を聞け。誰も帰りたいなんて言ってない」

 訝しむ龍神に、あやめは続ける。

「要は村に帰らなきゃいいんでしょ。だったら池の外に出たって問題ないでしょう? どうせ池には誰も近づかないんだから」

「面倒くさい。だいたい池の外でどうするつもりだ」

「……池を見たい?」

 あやめの素っ頓狂な発言に、龍神はあっけにとられたようだった。

「お前、馬鹿だろう」

「さっきから馬鹿馬鹿うるさい! あんたは池の中に棲んでるんだから飽き飽きしてるかもしれないけどね、こっちは子供の頃から池の話は聞かされるけど近づいちゃいけないし、見たのだって昨日が初めてだったんだからね! でもちゃんと見れてないし、ずーっと話に聞かされてた池をちゃんと見て見たいって思って何が悪いのよ!」

 一気に大声でまくし立てられ、さすがの龍神も辟易した様子で耳を両手で覆ってしまった。

「別に面倒だっていうんなら、私ひとりで勝手に行くからここから出してよ! 何よ、雨も降らせない役立たずのくせに、態度ばっかりでかくてあんた何様のつもり!?」

「……ぎゃあぎゃあとやかましい」

 ゆっくりと立ち上がり、金色の双眸で睨みつけても一歩も怯まない小娘に、龍神は大きなため息をついて、

「言っておくがな。俺は確かに天候は操れない。だが水を操ることと、水質を維持することはできる。この池がこれだけ澄んでいるのは誰のおかげだと思っている」

「この池の水がきれいだからって、別に村は何の恩恵もないし。雨を降らせられないなら、あんた本気で村にとって役立たずなだけなんだけど」

 まったく口の減らないあやめに、龍神はとうとう言葉を失った。自分の命に価値を見出せなくなったあやめに、もはや怖いものなどない。相手が龍神であることなど、何ら意味をなさなかった。

 どう言い返そうかずいぶんと悩んだようだったが、龍神の中でこのまま口論を続ける不毛さと、池の外に連れて行ってやることの面倒くささが天秤にかけられた結果、後者を選んだ方が楽であるという結論が導き出されたようだった。

 龍神はあやめの着物の襟をつかむと、

「まったく、龍神に対してそこまで横柄な口をきいたのはお前ぐらいだ」

 水の膜がふたりを覆い、ふわりと浮かび上がった。

 池の底から見上げた水面は遙かに遠くに感じたのに、するすると浮かび上がると、あっという間に池の水面の上に立っていた。何が起きているのか理解できなかったあやめは、しばらく呆然としていたが、まだ襟を摑まれたままであることを思い出し、龍神の手を振り払おうとした。

「……お前は落ち着かんな。俺が手を離したらお前はこのまま池の中にどぼんだ。岸に着くまで待て」

「え……ちょっと、本当に?」

「水を操ると言っただろう。そして少なくとも水に触れている間は、人間に見られることも声を聞かれることもない。この池にいる以上、俺もお前も人間に存在を知られることはない。だが陸に上がったら話は別だ。いいか、岸には上げてやる。だが俺のそばから離れるな」

「もし、私が逃げたら?」

「好きにするがいい。だがお前は逃げない」

 水面を歩いていた龍神は、ひょいとあやめを持ち上げて岸に下ろす。村へと続く獣道からは少し離れたところなので、もし度胸試しの子供がやってきたとしても、そう簡単に姿を見つかることはない。

「私が逃げないなんてどうして言い切れるのよ」

 断言されたことが癇に障った。だが、龍神は不敵に──どこか寂しそうに笑うと、

「わかっているのだろう」

 短く言って、自分も岸に上がって近くの岩に腰を下ろした。

 わかっている。うんざりするほど、あやめはよく理解している。

 龍神もきっとそうなのだろう。

 ここを離れてどこかへ行こうとしても、結局はここに戻ってくるしかないのだ。

「……そうだったね」

 自嘲するように呟いて、あやめは改めて池の全景を見た。

 鬱蒼と茂る森を鏡のように映す池は緑色に染まり、時折吹く風が気まぐれに起こす波が、憎らしいほど照らしつける太陽を反射して眩しいほどに輝いている。神聖ゆえに村人の干渉を免れた池は、どこまでも澄んでその静けさを保っている。時の流れさえ忘れるほどの静寂に、鳥のさえずりがさざなみを起こす。

 田畑が干上がった村が嘘であるかのような風景が、目の前に広がっていた。

「この水、村に分けることってできないの?」

 水を操れるのであれば、干上がった小川やため池に水を移すこともできるのではないか。あやめは名案を思いついたつもりだったのだが、龍神は首を横に振った。

「この池は水源を別にする。地下で繋がっていれば話は別だが、ここはそうではない。ここから水を汲んで持っていってくれる分には構わんが、水を持ってあの獣道は厳しかろうよ」

 そのために森を拓くとしても簡単なことではない。何より村人は神聖視するこの池の水には絶対に手を出さない。雨が降るのを天に祈るしかないのだ。

 小さくため息をついて、あやめはうつむいた。すぐ足元を何かが泳いでいく。

「あ、どじょう」

 水面に影が映らないように注意しながら、あやめは足を忍ばせて岸にそってどじょうの後を追いかける。自分を狙う人間に気付いているのか否か、どじょうはその自慢のひげを揺らしながら悠然と泳いでいく。

 無言の追いかけっこを少し離れたところで眺めていた龍神だったが、あやめが獣道の方へと近づいていることに気付き、呼び戻そうとした。

「──!?」

 あやめは突然龍神に腕を引っ張られて倒れかかった。抗議を口にしたくても、背後から右手で抱え込まれる形で両腕を押さえられ、左手で口を塞がれてしまって身動きがとれない。引きずられるようにして木の影に連れ込まれると、ようやく間近く龍神の顔が見えた。

(静かにしろ。誰かいる)

 耳元で小さく言われ、あやめはこくりと頷いた。龍神の戒めを解かれ、そっと深呼吸する。

 ここは村人にとって絶対不可侵の神聖な場所だ。一体何者だろうかと、こっそりと様子を窺った。

(え……!?)

 声を出しかけて、再び龍神に口を両手で塞がれた。

 その手を振り払うことさえ思いつかないほど、あやめの頭の中は真っ白だった。


 どうして──どうして今、目の前で──父が姉の顔を平手で打っているのだろうう──。

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