すいりゅうさん【取れちゃった】

「うわあっ」


 叫び声に微睡まどろみから覚める。麗らかな春の一日。何処からか運ばれてくる雪桜の香りに包まれてうつらうつらしていた私は、欠伸をしながら声のした方に顔を向けた。柔らかな下草の生えた丘の真ん中で、スイレンが呆然とこちらを見上げている。その手に握られているものを見て、私はもうひとつ欠伸をした。眠い。


「どうしよう、すいりゅうさん……」


 どうしようもこうしようも。


「取れちゃった」


 取れちゃったものは仕様が無い。


「どうしようすいりゅうさん」


 涙目のスイレンが私を見上げる。


「ぼく、飛べなくなっちゃった」


 げたはねを握りしめて。




 そうか。月日はもうそんなに流れたのか。


 眼下でおろおろと騒いでいるスイレンを放ったまま、私は遥か山の稜線に視線を投げた。淡い雪桜の花弁に覆い尽くされた山並みは白く煙っている。幾度もの春が訪れ、そして去った。千回春が訪れれば千年の時が流れる。

 視線を戻せば躯を預けた松の木には若い芽が立ち上がり、丘を覆う下草には可憐な黄の小花が揺れている。繰り返される生命いのちの営み。生まれ、育ち、やがて朽ちたその後に、また芽吹く。

 育つのは植物ばかりではない。小さな子供もまた、健やかに育ってゆく。


「もう、すいりゅうさんと一緒に雨を降らしに行けないよう」


 スイレンは騒ぎ続けている。近頃思慮深くなってきたかと思っていたが、いやはや、てんで子供だ。


「すいりゅうさぁん」


 ああやかましい。

 私は尾の先を伸ばしてスイレンを絡めとった。そのまま、方向も定めずにぽんと放る。


「う……わあぁぁっっ」


 スイレンは情けない叫び声を上げて飛んで行った。


「やめてぇぇぇぇっ。ぼく、飛べなくなっちゃったんだよおぉぉ」


 愚かな。己のことくらい見定められなくてどうする。

 私は再び尾を松の木に巻きつけて欠伸をした。目を閉じて梢に顔を埋める。春とは兎角とかく眠気を誘う季節だ。


「いやあぁぁ…………あ、あれ?」


 遠くの空で戸惑ったような声が上がる。私は薄目を開けて様子を窺った。

 見れば、空に留まったままのスイレンが己の背をぺたぺたと擦りながら首を捻っている。


「あれ? あれ? あれえっ? 何でー?」


 私はふっと笑って目を閉じた。



 月日の流れるのは早い。泣きながら私に手を伸ばしてきた小さなあの子が、今では私と二回り程しか変わらない。あれからもう千年も経つのか。


 スイレンは騒ぎ続けている。煩いことこの上ないが、まあいいだろう。そのうち鬣や角も生えてくるが、その度にこの騒ぎではさぞ鬱陶しかろうな。

 くつくつと笑う私の頬を風が撫でてゆく。


 楽しみだ。



 千年生きれば、みずちは龍になる。

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