すいりゅうさん【水神】

 神というと万能で何もかも思いのままに出来ると思う者もいるかもしれないが、そうではない。神とは、何とも不自由で何ひとつ持たぬ者だ。


 己が一体いつから水を司る者となったのか、私は憶えていない。あまりに永くその役を担ってきたので、私はもうそれ以外の一切を忘れてしまった。ただ求められるままに雨を呼び、濁流を鎮めそれを澄ませ、時にそのすべてを奪う。


 変わり映えのない毎日。単調で退屈な役目。

 民草が嘆こうとも、歓喜しようとも、私の心には細波さざなみすら立たない。


 それでも私は民草の為に水を治める。

 神とは民の為に在る者。司るべきものの為に在る者。

 己という一切を捨て、私はそれになった。




   🐉🐉🐉




 村外れにある松の木は私の気に入りだ。そこは小さな生き物たちが住むとてもとても小さな村で、彼らの単位での「村外れ」であって、私から見れば松の木の根元に村があるように見えるがな。

 その松の木に巻きついて日がな一日うつらうつらするのがこの頃の私の日課だ。

 とても大きな木で、ゆったりと巻きついても尾を引き摺らないのが好い。欠伸をするだけで梢を揺らせてしまうので多少申し訳なく思いもするが、松はそんなことで文句を言ったりはしない。小高い丘の上に立つその木に近づく者は殆ど無く、とても静かだ。


 私はいつもと同じように雨を呼び、歓喜する民を一瞥してここへ戻ってきた。松の木に身体を預けうつらうつらし始めた頃だ。その小さな声が聞こえたのは。


「あ、あの……こんにちは」


 他の者には聞き取れないだろう。それはとても小さな声だった。

 私は千里先の民の祈りを聞くことが出来る。万里先の雨の音を感じることが出来る。私だからこそ、その声を聞くことが出来たのだ。


「あの……あの、すいりゅうさん? 少しの間、お姿を眺めていてもいいですか?」


 その小さな声は、小さな小さな蜥蜴の子が発しているらしかった。くるりと下に目を遣れば、私の爪の先ほどもなさそうなうす茶色の身体を必死に伸ばしてこちらに手を振っている。


 私の名は「水龍」などではない。私の名は……と考えかけて思考が止まる。私は何という名だったか。そも、名などあったのだろうか。もう随分長いこと「水神」としか呼ばれていない。水神は、私の役目であって名ではない。


 私は神となって一切を失った。知らぬに名まで失っていたらしい。

 滑稽だ。

 皆に崇め奉られても、私は何ひとつ持っていない。


「すいりゅうさぁん」


 松の根方で小さな声が呼ぶ。私はゆったりと尾を振った。返事をしてやりたい衝動に駆られたが、私の「声」には足元の小さな命なぞ一瞬で圧し潰してしまうほどの重みがある。


 私の尾が揺れると、蜥蜴の子のおもてに驚きと喜びが広がった。その笑顔は冷えた私の心に柔らかなあかりを点す。


「ありがとう。すいりゅうさん!」


 だから、私の名は水龍などではない。

 だが、お前がそう呼び掛け続けるなら、


 いつかそれが、私の名となろう。

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