乱世の快男子

村上俊介

乱世の快男子1 天正10年正月島津藩の家臣である中浦正光はつつがない正月を迎えていたのです、中浦家は元から島津家の家臣ではない、日向の国南那珂郡の地侍であり長く日向の伊東


乱世の快男子1


天正10年正月島津藩の家臣である中浦正光はつつがない正月を迎えていたのです、中浦家は元から島津家の家臣ではない、日向の国南那珂郡の地侍であり長く日向の伊東家に仕えていた、

のだが、元亀5年の木崎原の戦いに伊東軍が敗れてから、衰退の一途を辿り天正10年には完全に、島津に征服されてしまったのです、中浦家は島津藩との境にあり長く伊東藩の島津に対、

する押さえの役目をになっていたのです、


正光は中々の戦巧者で何度も島津軍の日向侵攻を、この中浦城で食い止めていたのです、しかし勢いを得た島津軍が、二方向から日向に侵攻したのです、島津義弘率いる本体2万は都城口、

島津隆久率いる別働隊5千は大隅口から侵攻を開始したのです、やがて、別働隊は中浦城を5千の兵で取囲み城方は300にも満たない城兵です、隆久は半日で踏み潰せると思ったのですが、


色んな仕掛けがしてあり容易には攻略できなかったのです、援軍がくると信じて持ちこたえる事20日あまりが達ち本体の義弘軍は次々と城を落とし伊東軍は崩壊寸前だったのです、しかし、

別働隊は中浦に足止めをくっていたのです、本体の島津義弘は別働隊が合流しないと、伊東軍の後ろ縦となっている大友軍が出てくれば日向攻略はままならないと、イライラしながら待つ、

ていたのです、


そんなおり、こともあろうか伊東軍は家臣の裏切りにあい崩壊して、伊東家の親族は大友宗麟をたよって豊後に落ち延びてしまったのです、残るは中浦城がのこるのみです、降伏勧告に、

正光は家臣に自由に城を出て敵にくだってもいいが、わしは1人でも島津軍と戦うといい、別れの祝宴をひらいたのです、しかし、家臣は正光と一緒に城をまくらに討ち死にすると言っ、

て城を出ようとはしなかったのです、


日向一国を手中にした島津義弘は軍を返して、別働隊と合流して中浦城を取囲んだのです、兵300に対して2万5000の大軍です、義弘が3ケ月ちかくも持ちこたえるとは正光は大した男だ、

のう、殺すには勿体無い何とかわしに下る方法はないかと家臣に聞くと、正光は武の者にてとうてい降伏はしないでしょう、3000は兵を失う覚悟で総攻撃するか御大将みずから正光と、

勝負をして打ち負かすしか御座いませんと言ったのです、


そうか兵3000の命が必要か、しかし、我々はこれから大友宗麟を始めとして九州を攻め取らなくてはならない、3000の兵の損出は痛い、わしが直接正光と勝負しょうではないか、わしが、

負ければ正光いか全ての兵の命は助けて、この中浦城は正光に与えるという条件を伝えてこいと部下に言ったのです、部下がこの申し入れを正光に伝えると、承服しかねる、わしが負け、

た場合にも、


城は没収しても構わないが、わしの命と引き換えに城兵の命は助けて、自由の身とすると言う条件でない限り受けられないと言ったのです、部下これを持ち帰ると、隆久が何を生意気な、

兄上一気に踏み潰しましょうと言うと、ばかな事をお前は5000の兵で落とす事ができなかったのだろう、正光との戦いにわしが敗れれば、お前が島津家を次ぎ知行を安堵して家臣に加え、

るのだ、


お前の為にきっと役に立つだろう、ゆめゆめ約定を違えるではないぞと言い、承知したとつたえろと言うので、再び口上を伝えると、正光が承知した、これから出て行って勝負しょうと、

皆の者さらばじあというと、馬にまたがり城門を開けて、われこそは平の孫、中浦正光である、島津義弘殿いざ勝負と言うと、義弘が馬にまたがり、源の孫、島津義弘じや相手つかまつ、

るというと、馬の横腹を足で叩き槍を持ち突進したのです、


激しい槍の戦いです、正光がやりの先をむんづと掴み、ねじ上げると義弘が馬から転げ落ちたのです、正光はやりをほうり投げて、みずからも馬をおり刀を抜いて切りかかったのです、

激しく刃がぶつかり、一進一退です何度かの切りあいで正光の刀が、義弘の刀を跳ね飛ばしたのです、正光がこれまでで御座るな、義弘殿と勝負して満足でござる、拙者の一命にて、

城兵の命をお助けくだされと、


そこに座り鎧を外して、脇差を抜きはらに突き立てようとした時、義弘が手を押さえて、何をなされる勝負はわしの負けじゃ、ここの知行は安堵して更に5000石を加増しょう、わしの、

家来になってはくれまいかと言うと、伊東軍は島津軍に負けたので御座る負けた者に恩賞などされるものではありませんぞ、5000石の加増はお断り申す、義弘殿の家臣にはなりますが、


伊東家再興のおりには島津家を辞して、伊東家の家臣に戻りますがそれで宜しいなら、それまでの間義弘殿に臣従いたしますと言うと、それで良い、いい戦いであった、かっての自分、

ょ見るみたいであったぞと義弘が笑ったのです、それでは両方の兵どもで勝ち鬨を挙げようと言うと、義弘と正光が一緒にえい、えい、オーと声をかけると、敵味方が勝ち鬨を上げた、

のです、


当日は城に義弘以下重臣を入れて宴席を開いたのです、正光が息子に御座いますと長男正行18才と次男正直16才に御座いますと紹介すると、義弘が親父殿のように豪の物になれよ、

と声をかけ、翌日後日鶴丸城にこられよと言って義弘軍は帰っていったのです、そして天正10年になり正行23才、正直21才になっていたのです、この時点で島津義弘は九州の半分、

を手中に入れており


正光は南那珂郡2万石を領していたのです、天正10年7月になり京都から本能寺において、明智光秀に織田信長が殺されたと言う変事がもたらされたのです、正光は京都に草の者を忍ば、

せており、中原の情報を掴んでいたのです、正行、正直を呼びこれで天下の情勢は混沌として来た、おそらくは羽柴秀吉が後を注ぐ事になろうというと、正直が子供はいないのです、

かと聞くと、


長子は変事のおり京都で殺されている、後はたいして器のない者との事だと言ったのです、続いて正光の予言したとおり、羽柴秀吉が明智光秀を倒して天下取りに名を上げた事が伝え、

られたのです、草の者の頭源蔵から、羽柴秀吉に仕える為に伊東家の長子、伊東祐兵が大阪にいるが、つてがないので中々難しく難渋しているとの知らせである、生きておられたかと言、

と、


正直が若様は生きておいででしたかと言うので、お前は祐兵殿の近習であったなと言い、それではお前はこれより大阪に、おも向き祐兵殿を助けてお家再興の手助けをせい、金寸は源蔵、

に渡すので受け取るがよい、なんとしても羽柴秀吉の家臣に加えてもらうのだ、天下を取るには九州も取らねばならない、やがて九州攻めをするだろうと言うと、正直がそれでは父上と、

戦う事になりますと言うので、


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