第2話 ピクシー
遠退いていた意識が戻ってくる。
全身に血が巡り、心臓の鼓動が聞こえてきた。痛みは感じないが、物凄く体が怠い。
「……~い………お~い」
どこからか女性の声が聞こえてくる。
「……死んでんのかい?」
不穏な言葉に重い瞼を開けば夕焼けのような紅い髪が視界の端に映った。
「いや――生きてる」
「なんだ、つまんないね」
怠い体を起こせば、こちらを覗き込むようにしていた少女と目が合った。いや――少女というよりは女性に近い。その整った顔に幼さが残っていることを思えば十六か十七歳辺りだろうか。無理矢理着せられたようなワンピースでその身を覆う彼女は紅い髪に深紅のような瞳をしていて――やはり、ここは異世界のようだと確信する。
「ってことは、刺されたと思ったのは気のせいだったか」
立ち上がって自己完結のように呟くと、紅い髪の彼女はその大きな目をぱちくりと見開いて首を傾げた。
「いや、あんた刺されてるよ?」
疑問符と同時に指された先を見ると、そこには気を失う前と同じ光景があった。おいおい、マジで刺さってるじゃねぇか。服も切れているし、血が出た後もある――が、痛みは無い。
「……とりあえず抜いて――っ……届かねぇ。あの、ちょっとこれ抜いてもらっていいですか?」
「別にいいけど」
躊躇いなく返事をした彼女に背を向けると、剣の柄を掴まれたのを感じた。待ち構えるために息を吐き出していると、痛みを感じて顔を顰めた次の瞬間だった。
「いっ――た!」
ズルリと剣が抜けるのと同時に全身に痛みが走った。悶絶するような痛み、というのを初めて体感した。
「あれ、抜いていいんだよね?」
「そう……いや、ほら、カウントダウンとかさ――うん、まぁ大丈夫。ありがとう」
ジンジンと鈍い痛みと共に心臓の鼓動が痛いほどに高鳴っているが、血は出ていないし生きている。……もしかして、これ異世界じゃなくて夢って可能性もあるか? もしくは妄想。
痛みに涙を堪えながら紅髪の彼女と向き合うと、漸く気が付いた。
「君は……悪魔か?」
「はぁ? アタイのどこが悪魔だよ。ヒューマー」
「いや、額の上に角が……ヒューマー?」
髪の間からちょこんと見えている二本の角に視線を向けながら、俺に投げられた言葉に疑問符を付けた。まぁ、どういう意味かは検討つくが。
「悪魔の角はもっと上だしもっと歪。アタイの種族はピクシーだよ。で、ヒューマーってのはあんたのこと。種族、ヒューマーだろ?」
種族、ピクシー、ヒューマー、聞き慣れない言葉だかりだが、今更ながら言葉は通じるんだな。
「あ~……どうだろうな。よくわからないが……とりあえずその剣、置いてもらっていいか?」
「ん、ああ、剣ね。別に噛み付いたりしないわよ。それよりも、もしかして記憶喪失とか? だとすると相当厄介よ?」
剣を地面に突き立てたのを見て、やっと対等に話せる。
「記憶喪失とは違うが……説明するのはちょっと面倒なんだよな」
もしも、ここが本当に異世界なのだとしたら設定などを気にするよりも状況の判断が先決だ。この世界についての情報を集めなければ。
「少なくともこの辺りの記憶は無さそうね。そうじゃなければ、こんなところで倒れているはずがないもの」
「君はこの辺りに詳しいのか? なら、どこか街とか――村とかに案内してもらえると助かる」
「別にいいけど、ここから町までは距離があるから今日はうちに来てもらう」
「願っても無い。あ、それともう一つ。その剣なんだが、俺は誰に刺されたんだ?」
その問いかけに面食らったような顔を見せたが、すぐに気付いたように頷いていた。
「剣のサイズからしてゴブリンだと思うわ。あいつらは遺伝子的にヒューマーを嫌っているけど、そのくせ対抗するだけの力を持ち合わせていないから一人でいるあんたを好機だと思って狙ったんだろう。普通のヒューマーなら剣くらいじゃ倒れないんだけど……倒れたあんたを見て、驚いて逃げ出したんじゃない?」
なんだこいつ。ただ異世界に転移した俺なんかより余程ミステリー系の主人公に近いんじゃないか?
それはそれとして――ゴブリンね。魔物という予想は当たったわけだが、ゴブリンに負けたわけか……幸先が悪いな。
「まぁ、助かったよ。え~っと――」
「ああ、自己紹介をしていなかった。アタイはロットー。普通にロットって呼んでくれればいい。あんたは?」
「俺は
「こちらこそ、栞。じゃあ、とりあえずこの森を出よう」
「付いてくよ」
正直、訊きたいことは山ほどある。現状でわかっている点は、この世界にはヒューマー――つまり、俺のような人間が居て、ゴブリンのような魔物と戦っている。異世界に来たかった俺からすれば、それだけでも十分過ぎるほどの世界観ではあるが、実際に来てみてわかったことがある。どうやら俺は元の世界にいた時と何も変わっていないし、向いていないのかもしれないな。
「んで、栞。あんたはどうしてあんな所に居たんだい? 知っている者ならこの森に近付くなんてしないんだけどね」
「まぁ、知らないからこそあんな状態だったわけだが……有名な森なのか?」
「通称は
「魔窟の森、ねぇ……」
力試しをしようとしたことは否めないから、何とも言えない。異世界に転移するにしても、どうしてそんな場所だったのか。どうせなら、どこかのベッドの上とかなら有り難いのに。
「……ん? そんなに危険な森なら、どうしてロットはそこに居たんだ?」
「あそこはアタイの散歩コースだよ。言った通り、奥まで入らなければ魔物と遭遇することも少ないからね。ついでに見回っているって感じかな」
「見回り? なんのための?」
話ながら、先を行くロットーが森を抜けて立ち止まった。あとを追うように森を出ると、そこには広大な畑があった。
「アタイの家は農家なんだ。で、ここら一帯はうちの畑。たまに魔物が荒らしに来るから、そのための見回りをしている。あんたは……記憶が無いんだっけ。暫く畑を突っ切ればうちだ。そこで話をしよう」
ここまで話したロットーの印象は、見た目の割に男勝りってことだ。だからなんだ、と問われれば、ああ、これはハーレム展開では無いな、と個人的見解を示しておく。
五分ほどあぜ道を通っていくと、レンガ造りの平屋が見えてきた。気が付けば辺りはすっかりと日が落ちて月明かりだけが――二つの月の明かりだけが、地上を照らしていた。太陽は一つだった気もするが……ダメだ。刺されたことしか思い出せない。とりあえず、月が二つある。つまり、ここは異世界だ!
「まずは両親に栞のことを紹介しないといけないけど……ヒューマーでも、まぁ、あんたなら大丈夫か」
「……ヒューマーだと何か問題なのか?」
「まぁ、種族間の問題だよ」
暗い影の差した表情から察するに、その種族間の問題とやらは相当に根深いもののようだ。
鍵の付いていないドアを開けると、人工の明かりに目を細めた。異世界にも電気は通っているのか。
「パパ、ママ、ただいま。お客だよ」
想定外のパパママ呼びに笑いが込み上げてきた。男勝りと言ってもまだまだ子供らしい。
ロットーの声に家の奥からパタパタと足音が聞こえてきた。そして、姿を現したのはロットーを程よく肉付けした感じの大人の雰囲気をした女性だった。なんというか、母性感?
「おかえりなさい。お客さんって――そちらのヒューマー?」
「そ。でも害の無いヒューマーだと思う。パパなら判断できるんじゃない?」
そう言うのと同時に奥からもう一人、エプロンを付けてロットーと同じ髪色のショートヘアのピクシーが歩いてきた。
「お、帰ってきたか。今日は随分とゆっくりだったね。ん? そっちのヒューマーは――」
「紹介するよ、栞。アタイのパパとママ。パパ、ママ、こっちは栞。見た通りのヒューマーだけど、訳ありらしいの」
「ふむ……訳ありか」
パパと呼ばれたピクシーは、俺の勘違いで無ければその体つきからしておそらく女なのだが……パパ?
こちらを見るその視線は何やら手首に向けられている気がするが、そんなことより複雑な家庭事情が気になって仕方がない。パパと呼ばれるショートカットの女性と、ママと呼ばれるロングヘアの女性。まぁ、確かに両方ママではわかり辛いよな。
「何があったのか知らないが、とりあえずお風呂にでも入ってきなさい」
「え、お風呂……別に大丈夫ですけど……」
大して汗も掻いていないし、本にのめり込んでいる時は二、三日入らないこともあったし、事実として俺の匂いはフローラルだ。
「大丈夫じゃない。血の臭い。酷いわよ」
「……ああ、そうか」
忘れていた。今でこそ傷も塞がっていて痛みも無いが、服には血が染み付いて皮膚にも流れ出た血が固まっていた。
「ロットー、案内してあげて。お洋服はパパのを貸すんで良いとして……ご飯を用意しておくわね」
「はいはい。じゃあ、行くよ、栞。お風呂場は奥だから」
腕を引かれながら、靴も脱がずに家の中を進んでいく。明かりがあるということは電気が通っていて、風呂があるということは水道設備も整っているということだが、この様子だとガスも使えそうだ。まぁ、さすがにIHということは無いだろう。
「ちなみにだが、お湯は出るのか?」
「ボロイ家だからって馬鹿にしてんのかい? 出るに決まっているだろっ! しっかりと湯舟に浸かってきな!」
「っ!」
思い切り背中を蹴られる形で洗面所へ押し込まれた。
洗濯機は見当たらないが、置かれている籠に脱いだ服を入れておけということだろう。まずはボディバッグを置いて、パーカーにTシャツ――完全に穴が空いているな――それとカーゴパンツに、動き易さ重視の黒のボクサーパンツ。ついさっき知り合った者の家の風呂に入るというのも変な気分だが、体にこびり付いた血の痕を見ればそうも言っていられない。
「……おおっ」
浴室に入れば、そこにはヒノキで出来たような、まるで旅館のように巨大な浴槽があった。予想外ではあったが嬉しい誤算だ。元の世界でも温泉には一欠けらの興味も無かった俺が、立ち込める湯気に体が疼かせている。だが、まずは血を洗い流さなければ。
捻ればお湯が出てくる普通のシャワー――しかし、ここで思い知った。固まった血って、落とすのにすげぇ時間が掛かるんだな。結局、湯船に浸かるまで二十分も掛かってしまったが、おかげで体の芯まで温まる気持ちよさがひとしおだ。
お湯に沈めた体が漸く落ち着いた頃、浴室のドアの向こうから物音が聞こえた。
「栞? 血は洗い流せたみたいね」
「ロットーか。ああ、手間取ったけどな」
代わりの服でも持ってきたのだろうと思っていた次の瞬間――ドアが開かれて何も身に着けていないロットーが入ってきた。
「はぁ!? おいおい、そりゃあマズいだろ!」
「ん? 何を慌てているんだい? ヒューマーとピクシーで何かがあるわけ無いだろう。それにこの時間はいつもアタイの風呂の時間なんだよ」
「いや……そうは言ってもなぁ……」
目の前で体を洗い始めたロットーを見つつ、静かに溜め息を吐いた。
そういえば子供の頃からの知識過多のせいか、一度たりとも性的興奮を覚えたことが無かったな。それこそが感情の欠如のような気もするが、この場で俺が思うことは一つだけだ。
ああ――やっぱりハーレム展開だけは無かったな、と。
「なぁ、ロット……ああ、いや。やっぱりいい」
「なに? 途中でやめられると気になるんだけど」
「あ~……ほら、両親のことなんだが……あれ、二人とも女性だよな?」
問い掛けるや否や髪を洗っていたロットーは怪訝な顔をしながら振り返ってきた。
「……そっか。本当に記憶が無いんだね。ピクシーっていうのは好きに性別を変えることが出来るの。例えば、外で農作業をするときは男になって力仕事を、家の中で家事をするときは女になって細かい作業を、とか」
「厳密には記憶が無いわけでは無いんだが……じゃあ、ロットも男になれるのか?」
「いや、アタイは無理だ」
泡を落として髪を結えたロットーは湯船に入り、俺とは対角の位置に腰を落とした。
「無理なのか。ピクシーなのに?」
「そこはちょっと説明が面倒なところだから夕飯の後にしよう。そっちだって、何か話したいことがあるんだろ?」
「まぁ……そうだな」
どこまで話すべきか、どこから話すべきか、慎重に考える必要がありそうだ。
だがしかし――今まだ、もう少しだけこの湯船に浸かっていたい。誰かと風呂に入るなんて初めての経験だが、こんなにも安らぐとは。本だけでは知り得ない知識だな。
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