×××について

 そこには、少女がいた。万年筆を手に机へ向かうその背中を見つめ、カヲルは言葉を投げかける。


「先生、俺に冷たくなったよね。俺が子どものころは、あんなに優しかったのに」

『そうですね。否定はしません』


 変声機を通した歪な少女の声が、返った。しかし、少女の瞳がカヲルを映すことはない。カヲルは、そのことが不満でならなかった。マフラーの下に隠した首を押さえながら、口を開く。


「ねえ。俺のこと、嫌いになったの? 俺が、人間じゃないから?」


 平静を装ったつもりだったのに、声には自分でも笑えるくらいに感情がにじみ出ていた。それでもなお、少女の背中はカヲルに向けられたままで、返る声も変わらず単調だった。


『あなたの好きなように考えればいいのではないですか』

「俺はあんたに聞いてるんだけど」

『では、可愛げがなくなったとは思います』

「ふうん。俺も、まんざら捨てられたものではないってわけだ」

『呆れるほどにポジティブな性格ですね。仕事の邪魔です。帰ってください』


 突き放すように言われても、カヲルはその場を動かない。以前は見あげていた背中を見おろしながら、静かに問うた。


「先生、あんたはなんで歳を取らないの?」

『逆に聞きますが、あなたはどうしてそんなに早く成長していくのですかね』


 答える気のないだろう返答に、カヲルの眉根が寄る。知らず、声が低くなった。


「はぐらかさないでくれる」

『いつも言っているはずですよ。ただ、事実は小説よりも奇なりというだけです』


 まるで答えになっていなかった。いつもと、同じだった。苛立つ気持ちが、大きくなる。


「先生、俺をコケにしてるわけ? そんな、わけのわからない言葉で誤魔化されると? いい加減にやめてくれないかな?」


 舌打ちをこらえ、カヲルが問いつめれば、そこでようやく少女の手が止まった。そうして、張りぼての面がカヲルを振り返る。素顔が見えないことなんて、それこそいつものことだというのに、今は妙に腹が立ってしかたがなかった。


『カヲルくん、今日は早く帰ったほうがいい。今日のあなたは異常です』


 ひどく落ち着いた調子で言われる。カヲルは鼻で笑った。


「異常? 俺が? 俺なんかより、先生のほうがよっぽど異常だ。正体不明で、どれだけ調べても作家としての存在を確認できない。それどころか、俺の回りにいる人間たちは口をそろえて、あんたのことなんて知らないって言う。作家であること以前に、人間かどうかすら怪しいくらいだ」


 いっそ、傷つけるつもりで放った言葉だった。近づきたくても近づけず、知りたくても知ることのできない自分の苦しみを、別のカタチでその胸に刻みつけられればいいと思っていた。だのに、カヲルの目の前にいる少女が、取り乱すことは少しもなくて、


『気は、すみましたか』

「気がすむ? 何を言って」

『今のあなたは冷静さを欠いてます。少し、呼吸も荒い。体調を崩しているのではないですか。季節の変わり目です。あなたが気をつけていても風邪をひくときはひきます。あなたは、人間ですから』


 はっと息を呑んだ。


「先生、あんたは――まだ、俺を」


 人間として扱ってくれるの。続けようとした問いかけは、音にならなかった。まっすぐに自分を見あげる少女の姿勢に、いつかの面影を見る。


 激しい後悔が押し寄せた。何をしているのだと自分を責めると同時、変わらない少女の本質に、どうしようもないほど安堵する。少女は、彼女は、この人は、かつてカヲルに手を差し伸べてくれたときと、本当は何ひとつとして変わっていない。


 とたんに、世界がくらんだ。慌てたような声が、与えられたこの名を呼ぶ。何が起こったのか、一瞬わからなかった。身体が抱き起こされるのを感じて、カヲルはようやく自分が倒れたのだと理解した。


『……やっぱり、熱がある』


 少女の小さな呟きとともに、カヲルの意識は遠のいていく。だけれど、それは眠りに落ちるときのものとは異なっていた。懐かしい記憶から、覚醒へと向かう感覚――


 ああそうかと、胸の内で呟いた。これは、遠い日の夢だ。忌々しい枷によって消せない傷を負った日。自分が、「彼女」と会った最後の日の記憶だ。


 すべてを理解したうえで目を開ければ、見慣れた自室の天井が視界に映る。ベッドから起きあがって確認した時計は、サイン会が終わる時刻の少し前を示していた。


「そろそろか」


 呟いて、襟を立てたコートを羽織る。夢の終わり際、細い指が撫でた首の傷痕を手で押さえ、カヲルはマフラーを巻いた。


 高層マンションの最上階にある部屋を出て、サイン会が行われているショッピングモールへと向かう。今からでは、終了時刻までに到着できないことなんて、とうに計算済みだった。


 そもそも、カヲルはサイン会へ足を運ぶつもりなど、さらさらない。なぜなら、今のカヲルにとって用があるのは、「彼女」であって作家としての「彼女」ではないのだ。「彼女」自身と話をするには、サイン会という場は不都合でしかない。


 だからこそ、ゆかりからフライヤーを渡されたとき、そのままショッピングモールへ向かわなかった。あるいは、ゆかりが一緒であれば話は別だったのだが、それは叶わなかったため、今となってはたらればの話でしかない。


 そのとき、ふいに、カヲルの背筋を悪寒が走った。胸が、ざわつく。声が、「きこえる」。ツカマエタ――


 ふと顔をあげた先に見えたのは、ショッピングモールの立体駐車場だった。つい先日までそろっていた屋上のフェンスが、一箇所だけ欠けている。何かあったのだろうか。カヲルは眉をひそめる。直後、そこから落ちていく人影が見えた。常人の視力では遠すぎて確認することのできないそれも、カヲルの目は鮮明にとらえる。気づけば、アスファルトを蹴って、走りだしていた。


 生まれつき、常軌を逸した動体視力をもあわせもつカヲルの目は、裏社会に生きるうえでは非常に有用で、信頼がおける。この目で銃撃をとらえ、それをかわしたのも、つい先日のことだ。


 しかし、辿り着いた先で、自らの目がとらえたその光景を、カヲルは信じることができなかった。地面に広がっていく赤の中に、その姿があることを、認めたくなかった。それでも、たしかに、そこに倒れ伏しているのは、


「先生?」


 一度、そう口にしてしまえば、急激にすべてが現実味を帯びてくる。唇が、慄いた。弾かれたように駆け寄り、血だまりの中に膝をつく。抱き起した身体は、まだ温かい。


「先生、先生! しっかり――しっかりしてください!」

「……その、声」

「しゃべらないで、すぐに手当てするから」


 腕の中の身体を強く抱き、カヲルはコートの内ポケットから携帯端末を取り出す。人間の医者は当てにできない。自宅で処置をしようと、常連でもある運び屋の番号を手早く押した。だのに、相手は一向に出る気配がない。


「くそっ、こんなときに限って」


 カヲルが悪態を吐いた、そのときだった。血にぬれた腕が、携帯端末へと伸びる。


「先生。だめだよ、動いちゃいけない」

「いい、んです」


 切れ切れになる声で、仮面をつけたその人は言う。落下の衝撃で壊れたのか、変声機はもはや意味を成していない。


「きっと、これで、終わる――もう、これ以上は――」


 一瞬、何を言われているのか、カヲルにはわからなかった。わかりたく、なかった。言葉の意味するところを理解したとたんに、世界が一色に染まる。


「させない――死なせない! あんたは、あんただけは、絶対に俺が死なせない!」


 カヲルは声を荒げていた。


 役に立たない携帯を投げ捨てる。少しでも呼吸を繋げさせようと、少女の顔を覆う仮面に手をかける。抵抗らしい抵抗もなかった。これまで、決して外れることのなかった仮面は、あっけなく剥がれ落ちる。


「――ああ、どうして」


 カヲルはうめいた。小さな身体を掻き抱いて、「どうして」と、繰り返した。どうしてあなたがこんな目に合わなくてはならない、どうしてあなたを守れなかった、どうしてこんなときになって――


 刹那、覚えのある声がした。

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