ここではないどこか

 しばらくうつむいていた。私に話しかけて来る子に、「どっかいけ」と思念を送りながら。しかし、その子は「どっかいく」どころか、私の隣に座って、動かなくなってしまった。


 あなたは、どうしてここにいるの。


 それはね、おねーちゃんがさみしそうだから。


 その時からおねーちゃん、と私は呼ばれるようになった。その子は私より小さくて、「さみしそう」という言葉も覚えたての発音で、ぎこちなかった。

 その後、無言が続いた。寄せては返す波を、ただひたすらに眺めていた。私はその時、ああ、こんなことになるなら、シノちゃんも誘って来ればよかったと思っていた。



 どのくらい経ったのだろう、空が赤く焼けてきて、大きな球体が海に吸い寄せられていく。


 私はその球体に吸い寄せられるような感覚に陥った。


 そのまま球体に貼り付いて、身動きを取ることもできずに、一緒に海に沈んでゆく。


 光は消えて、息はできなくて、苦しい。苦しいけど、心地よい。


 このままでいたい。心臓の鼓動が大きくなる。それが波を打って、海と溶け合って……。

 

 最後に吸った息が、いつだったか、覚えていられなくなるまで。


 ずっと、ずっと、ずっと。


 ……。



 ぷはっ! はぁ、はぁ……。


 おねーちゃん、だいじょうぶ?


 私は息をするのを忘れていた。隣に座っていた子は突然息が荒くなった私を心配してくれた。私は手の平で大丈夫、と合図をして、深呼吸した。生き物が、生きて、死んでいく、そんなにおいがした。

 私は少し、怖くなった。このまま帰れないかもしれない、いや、もしかしたらもう、この世界に私とこの子、二人しかいないのかもしれない。


 あなたは、どこからきたの。


 すぐそこから。


 隣に座っているのを確かめるように、私は聞く。その子は民家のある方を指差して、そう答えた。民家はいくつか並んでいて、どれを指しているのかわからなかった。私は少し安心して、少し不安になった。


 おねーちゃん、おうちにかえらないの?


 うん。帰らない。


 太陽はもう少しで海に浸かるところだった。じきに辺りは暗くなる。子供はもう帰らなくてはいけない。見知らぬところで、夜に、一人。また、不安になった。もう既に白川さん辺りが私のことを探し回っているかも知れない。でも、見つけられたくはなかった。

 

 かえらないと、だめだよ。おばけにさらわれて、おばけになっちゃうんだ。


 そんなの、うそよ。


 その子は呑気におばけの真似をして、言った。私はそんな年頃、もうとっくに過ぎている。だけど、信じたくなくて、その子の言うことをはねつけた。


 じゃあ、ぼくのうち、きてよ。おとうさんも、おかあさんも、まってるんだ。


 いいの?


 彼は立ち上がって、手を差し伸べてくれた。実際よりも大きく見えた彼の手は、静寂に包まれたこの世界から、私を連れ出してくれた。

 

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