チビリ!

@ASAKUSASEN

第1話「藤井」峯村信行(四月)

 正門がいた。

 松高入学から二日目の朝七時、空はまだ青白い。斜めに降る陽射しが冬枯れの桜を素通りして、正門の黒く張り出した瓦屋根を鈍く光らせている。吐いた息は白い霧になって、焼杉の脇戸の板目を滲ませる。俺は大きく息を吸い込んで、門に向かって歩き出す。

 俺はサッカー部、いや、まだ言い慣れない「サッカー班」に、入学前の春休みからたまたま参加させてもらっている。今週はまだ、朝練には参加することができない。けれどもこの開門を見るために、卒業までの三年間、七時前には登校し続けようと決めていた。



 松高は信州上田城、三の丸の藩主邸跡に建っている。この格式高い正門は、藩主だけが通ることを許されていた表門だ。俺はここを初めてくぐった時、なぜだか誇らしい気持ちになった。理由を探して振り返ると、門にはいささかの傷みもなく、その向こうには、田舎育ちの俺が幼い頃に憧れた、上田の中心街のビル群が見えた。その時ふと思った。誇りは、単なる過去の遺物には宿らない。山河でも大樹でも建物でも人の事績でもなんでもいい、周りの人間が価値を見出して守り育て、次の世代へと手渡し続けていく営みこそが、誇りの正体なのかも知れない。俺自身もまた、この正門の誇りを手渡されて、守り育てる責任を負ったのではないだろうか。

 俺はカミサマのことも思った。体系化された信仰とは違う、俺が勝手に感じるカミサマだ。それは誇りとよく似ていることに気付いた。昔話でも伝説でも世間話でも構わない。きっかけ、というものを生み出して、人々の間に存在感を示し続ける何か。俺はそれをカミサマと呼んでいる。だから俺は、産まれた時から詣でている生島足島いくしまたるしま神社、イクシマさんだけじゃなくて、松高の正門、庭から眺める独鈷山とっこさん、上田駅前の真田幸村像にさえも、カミサマを感じることがあった。

 こんな俺の感性は、育った環境の影響が大きいと考えている。俺のウチは城下町のソト、下之郷しものごうという地区にある。いわゆる田舎の本家で、年中、親戚が出入りしている。ちょっとした寄り合いでも二十人は集まるし、結婚式や法事では一族だけで二百人を超えることもある。俺はこのウチの長男で、今は祖父が名乗っている「長兵衛ちょうべい」という屋号をいつか襲うことになる。初代の伝承、四代目の逸話、先々代の活躍。俺は峯村長兵衛という歴史の一部になってそれら全部を受け取って、次の世代に手渡さなくてはならない。

 ウチの行事とサッカー、そして学業が今の俺の本分だ。それについては迷いはない。ただ、俺にも男子高校生としての欲求や憧れがある。仲間と馬鹿騒ぎをしてみたいし、恋愛もしたい。彼女という存在をつくって、地元から離れた上田の街中まちなかくらい、二人きりで歩いてみたい。だから俺は、責任を果たして本分を尽くしつつ、引き換えに与えられた自由を満喫するつもりでいた。



 一年B組の教室はまだ薄暗かった。室内なのに息が白い。左端の最後尾、窓際。俺は昨日決まったばかりの自分の席に着いて、サッカークリニックを読んでいた。

「ミネムラノブユキ!」

 高く澄んでいて、明るい響きだった。ただ、いきなり呼び捨てだ。若い女教師なんていたのかと思いながら仰ぎ見ると、ショートカットが良く似合う女子だった。小さな顔に細いアゴ、整った目鼻立ち。青くて長いキュロットに白いブラウス。かなり小柄な身体には一回り大きいサイズで、童顔と相まってかなり幼く見える。手のひらは、半分が袖に隠れていた。

「うす。藤井梓、梓弓の梓だな?」

 俺も呼び捨てで応えると、ぶっ、藤井はツバでも飛びそうな勢いで、子供みたいに吹き出した。今どきアズサユミって! そう呟きながら笑い終えると、口を押さえた手を離す。

「私のこと覚えてるんだ? チェック早いね!」

 俺は別にチェックをして覚えたわけじゃない。ただ、確かに女子のチェックは行われていた。昨日、出会ったばかりの丸山将太と堀田ほった雄二だ。二人とも中学時代はサッカー部で、俺のことを入学前から知っていたらしい。奴等はクラスの女子のうち、まずは五人の名前を調べて報告に来た。目立つ子リストを作ってみましたがいかがでしょう? そんな雰囲気すらあった。

「他には誰をチェックしたの?」

 藤井は俺の前の席に立ち、椅子の背もたれに両手をついて、座面をまたぎながら聞いてきた。裾が上がって、白く細いふくらはぎが覗き始める。隠していた素肌が目の前で顕わになる、それだけで俺はいささか落ち着かず、思わず視線を外した。

「チェックなんてしてねえよ。覚えただけだ。藤井梓、原美津代、白井莉奈りな、青柳啓子、奥村紀子、市木依子よりこ、多田都子みやこ、女の丸山。……十八人全員覚えてるけど、言おうか?」

 藤井の丸い目が、もっと大きくなった。瞳の輝きがやけに目立つ。

「すごいっ!」

 俺は身内や仲間、そして敵に関しては顔と名前をすぐに覚える。好むことと嫌がること、得意なことと苦手なこと、それからクセもだいたい覚えてしまう。両親も年長の親戚も同じことができるから、すごいのかどうかは俺には分からない。むしろ俺には欠点があった。身内でも仲間でも敵でもないヨソ者には、ほとんど注意を払っていないことだ。

「私の場合、話しないと覚えらんないから。男子はまだ四人しか知らない」

「誰?」

「ショータ、ユージ、タカシ、それからノブ」

「丸山と堀田か。ノブってのは、俺のことか?」

 藤井は目を細めた。

「いい響きじゃない? よく行ってたお店と同じ名前で覚えやすいし」

「東京に住んでたんだろ? 誰の名前でもありそうじゃねえか」

 自己紹介で、父親の仕事の都合で引っ越してきたと言っていた。東京からの受験入学は珍しい。

「そんなことないよ。名前を縮めて呼んでみたのは、今のところノブだけ」

「みんなの名前を呼び捨てにするつもりなのか?」

「呼んでみた反応次第。ノブは驚かなかったね」

「いきなり呼び捨てにされるのは、初めてじゃねえからな」

「あははっ! いるんだ、そういう非常識な人」

 非常識という自覚はあったんだな。

「中二のときにサッカーの県選抜の練習があって、そんとき一人いたぜ。男だけどな」

 三中のマサ、小山田正勝。今は丘高に行ってるはずだ。

 ふと、俺が名前を呼び捨てにしている相手はそれほど多くないことに気付いた。松高では今のところ、E組になったケンだけだ。

「その人とは、仲良くなれたの?」

「ああ、仲いぜ。会ったときはな」

「お茶したり、遊びに行ったりしないの?」

「練習試合で会うしなぁ。そんなもんじゃねえか?」

 いつもつるんでる奴は別として、男同士なんてそんなものだろう。気が合う奴とは、どんなに久しぶりでも会った瞬間に馴染みを取り戻すことができる。

「そういやタカシって誰だ? もしかして、あの唐沢って奴?」

「そうだけど、あの唐沢、なんて言い方するなんて、ノブは人を見下すタイプ?」

 藤井の口調は、責めているわけではなさそうだった。

 率直に言うと唐沢は、女子が進んで会話をしたがる雰囲気の奴ではなかった。三十代と言っても通じる老け顔で小太り。身のこなしがどこかズレている。自己紹介の声も小さくこもっていて、写真が好きです、以外は聞き取れなかった。

「いや、そんなつもりはねえよ。女子には近付きづらい感じじゃねえか? とは思ってるけど」

「じゃあ、ノブはみんなに平等なんだ?」

「そりゃ無理だろ。どっちが上でどっちが下ってわけじゃねえけど、みんなが平等とか対等って、現実には無いと思うぜ?」

 藤井からの呼び捨てを丸山や堀田が許してるのも、藤井が目立つからだと思うぜ? 心の中でそう言って、藤井の整った小さな顔をまじまじと見た。藤井も俺の顔を真っ直ぐに見ている。垢抜けてるのにスレてない。計算高そうな様子もない。どこか気品がある。好奇心旺盛な感じで、話を聞く時に目がキラッキラするから、つい喋り過ぎてしまいそうになる。

「んー、まぁ、そうだね。ノブは、綺麗事を言わないんだね」

「いや、むしろ人一倍言い続けてる。みんなで頑張ろうぜとか、最後まで諦めんなとか」

 俺はサッカー部のキャプテンだった。そして、一族の本家の長男だ。現実では、頑張り切れない奴の方が多い。絶望的な状況で、やっぱり駄目だったことの方が多い。でも俺は、綺麗事を言い続けてきた。言わなければ、集団は希望を失うからだ。

 人の替えが利くのが優れた組織だと言う人もいるけれど、田舎しか知らない青二才の俺には、それはまだ同感できない。目的に対して最適な組織を編む余裕なんかなくて、たまたま集まった人間全員が生き残るために組織っぽくまとまるだけだ。俺はいつだって代わりが利かない個性の集まりの中で、才能の有無も、長所も短所も、性格の善し悪しも全部呑み込んでギリギリのやり繰りをしてきた。ウチの行事もサッカーも、そして学校のクラスも。もしかしたら、地区選抜のチームでさえも同じようなものかも知れない。

「ふーん。もしかして今まで、なにかとリーダーやってた人?」

「まぁ、今まではそうかもな。望んでやったことはねえけど」

「今までは、ってどういうこと?」

「たまたま。その場所とかその世代に居合わせた中で、たまたま最初に生まれたからとか、たまたま身体がデカかったからとか」

「望んでないのはなんで? なりたい人だって多いと思うのに」

「プレッシャーとか責任とかハンパねえぞ、マジで。キッチリやろうとすると、偉くなるほど割に合わねえ」

「でもその分、いいこともあるんじゃない? 尊敬されたり、モテたり」

「んなわけねえよ! 尊敬されて喜んでる奴なんか、尊敬できねえだろ?」

「あははっ、そーかも。でも、モテるのは?」

「リーダーだからって理由じゃモテねえだろ。モテる奴がリーダーをやることが多いだけじゃねえのか?」

「あははっ、そーだね!」

 食べきれないほどチョコレートを貰ったとか、卒業式で制服のボタンが全部無くなったとか、それをモテると言うのだったら俺はモテた。でも、良いことなんて特になかった。女子同士で足を引っ張り合っている話も耳に入ってきたし、告白してくれた後輩が苛められかけたこともあった。結局俺には、この人じゃなきゃ、と思える好きな女も、ましてや彼女もできた試しはなかった。

 ふと思う。藤井からモテるんだったら、嬉しいかも知れないし、楽しいかも知れない。

「藤井は、どんな奴が好みなんだ?」

「えっ、私の好み? ノブ、話がストレートだね」

 少し眉を寄せながら考える藤井。瞳は相変わらずキラッキラしている。子供みたいだ。

「うーん。身近に好きな人ができたこともないし、付き合ったこともない」

「俺もそうだ」

「意外! ……ってこともないのかな。モテ過ぎてもそうなるのかもね」

「俺がモテ過ぎてるなんて有り得ねえだろ」

「そんなことないよ? ノブと、D組の黒崎って人が断トツ人気」

 女子も同じなんだな。丸山と堀田の目立つ子リストを思い出す。

「まぁ結局、好きな人に好かれなきゃ意味がねえよ」

「いいこと言うね! ただ、その好きな人がいないんだけどね。案外、突然バーッと迫られて、勢いで付き合って、それから好きになっちゃうのかも」

 バーッで勢いか。分からないでもない。ツイてる時の流れって、そういうものだ。

「でも珍しいな。この歳まで好きな男がいなかったなんて」

「そう? 幼稚園からずっと女ばっかりだったし」

「女学校だったのか?」

 藤井は一瞬目を丸くしたあと、こらえ切れなかったのか、ぶっ、と吹き出して笑った。ツバの小さな飛沫が一滴、俺のアゴに飛んだ。藤井はあっ、と言って真顔になって、ゴメンと言いながら咄嗟に腕を伸ばす。

 藤井の腕はけられたはずだったのに、その判断ができなかった。俺は、胸元の谷間とか短いスカートとか、上目遣いとか腕を絡まれるとか、そういうのは嫌いじゃないけどウンザリもしていた。計算しているように思えたからだ。でも藤井は違う。椅子をまたいだときに見えたふくらはぎ、気取らない笑顔、キラッキラする瞳、思わずツバを飛ばすくらいの本気の笑い、それを拭おうとする腕の細さ。

 手の甲に被さったシャツの袖が、俺のアゴを撫でた。おぉ、わりぃ、と思わず声が漏れる。少し気恥ずかしい雰囲気になった。俺から話を戻そう、そう思った矢先に藤井が口を開いた。

「あははっ、女学校なんて今どき言わないよ!」

「わりぃ。女子校か?」

「女子学院だったけどね。……そうそう、松高に入れたの、本当に嬉しかったんだよ?」

「なんでだ?」

「私ね、地方の旧制中学の誇りと伝統、って言葉にすごく憧れがあったから。特にここの正門、すっごく感動した」

「あ、正門、俺も」

 不意に共鳴できた驚きと喜びで、かえって返事に詰まった。なんとか想いを伝えようと藤井の顔を見直すと、やっぱり瞳がキラッキラしてる。少したじろいで視線を引くと、今度は全身が目に入った。背筋が真っ直ぐ伸びている。子供みたいに椅子をまたいで開いている脚もなぜだか下品ではなくて、お嬢様が馬にでもまたがっているようにみえた。

 俺は正門をくぐる時のように、大きく息を吸い込んだ。

「藤井梓、アズサ」

「ん? どうしたの?」

「俺、やっぱり女子全員なんて覚えてなかったわ。アズサ一人だけ、やっと知り合いになりかけたところだ」

 アズサは顔一杯で笑った。飾りっ気なしの、爽快な笑顔だった。

「ノブ!」

「ん?」

「その名前、似合ってるね!」

 教室にはぼちぼち、クラスメートが集まり始めていた。アズサは満足した様子で、じゃあ、と言い残して席を立つ。足でも痺れたのか、少しよろけて左脚を座面にぶつけて、照れ笑いを浮かべて立ち去っていった。

 俺は読みかけのサッカークリニックを机に広げて、教室内の様子と一緒に眺める。

 アズサは、さっき俺に対してしたように、一人ずつ声をかけて言葉を交わしていく。二言三言で終わったり、少し話し込んでみたり。

 八時過ぎ。同じ中学だった原が教室に入って来た。おはよぉアズサ! 原は唐沢と喋り始めたばかりのアズサの腕に自分の腕を絡めて、唐沢の前から連れ去っていった。



「ノブ君、放課後カラオケ行かねー?」

 まだ昼休みだというのに、丸山が聞いてきた。隣には堀田がいる。だいたい察しは付いた。

「誰来んの?」

「男は俺と堀田。あと女子は、白井さんのグループ」

「は? もうグループなんてできてんのか?」

「ああ。できてるっぽい」

 しらばっくれてはみたが、教室を眺めていれば分かる。白井、原、青柳だ。原は中学時代から、目立つ女子ばかり集めてまとまりたがる。

「まぁ、楽しんでこい」

「ちょー待って! ノブ君来ないとヤバいから」

「人数合わせだろ? その辺の奴、適当に誘えよ」

「いや、四人とも来なくなっちゃう」

「四人?」

「ああ四人。原さん、白井さん、青柳さん、アズサ」

 俺もゲンキンな奴だ。アズサが褒めたノブの名が、聞いて呆れる。

「班活終わってから合流でもいいか? 六時過ぎるけど」

「いいよ! ノブ君、超助かるわー!」

 丸山と堀田は、慌しげに俺の机から去っていく。奴等が向かう先では、原と青柳がこちらの様子を窺っていて、その真ん中で白井が、退屈そうに窓の外を眺めているのが見えた。

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