いつか空の行き止まりまで

サキノ

いつか空の行き止まりまで:本編

 フィンデル空港周辺に幽霊がでた、という話は出先でも同僚や、ハブ空港を同じくするルクスエアの知り合いからのメールやSNSでの話で知っていた。それ自体は別に怖くなかったのだが、なんでもその幽霊はしばしば立ち現われては降り立つ機体を確かめながら、どうやらずっと特定の機体、それもカーゴルクス機を探しているようなのだという。旅客型ならまだしも、わざわざ貨物航空会社の特定の一機を探す人なんて、生きてる人でもそうそういるものだろうか?

 でた、という表現もあまり正しくはなくて、どうも律儀に電車やTGVなど乗り継ぎながら隣国のほうからやってきたらしいという噂も伝え聞いている。随分変わった幽霊だ、そういえば幽霊って運賃は必要なのかなと思ったけれど、自分は電車に乗ったことがないのでそのへんはよくわからなかった。




 何日かぶりにルクセンブルク-フィンデル空港に降り立ち、グラウンドスタッフの人たちと着陸後の諸チェックを終える。次のフライトは貨物積み下ろしの関係で日付が変わるころの予定になっていて、それまではゆっくりできそうだった。


 と、暮れなずむ空港の出発ロビーに佇む人影の一人になんとなく目がとまる。既に照明が点いて明るくなっているロビーに背を向け、まっすぐにこちら、滑走路側を見つめているらしいその姿は大柄な女性のようだった。そしてその影が、ふっと消えた。


「?」


 瞬きしても、さっきまで彼女が立っていたあたりには誰もいないし、近くの人さえそれに気づいている様子はない。あれが件の幽霊だったのだろうかと首を傾げながら貨物建屋の方へ歩き出して、そのままカーゴルクスさんに帰投の報告に向かった。


「シティ・オブ・ヴィアンデンです、只今戻りました」


「おかえりヴィアンデン、ホーチミンは暑かったかい」


「あっち行った時は雨でしたね、行きに寄ったドーハのほうが暑かったですよ」


 丁度積み込む貨物の確認作業中だったようで、それぞれの便への振り分けの指示をしていたカーゴルクスさんが振り向いて笑う。彼は僕からログを受け取り軽くめくっていたが、途中で不意に手を止めた。


「何か?」


「ああうん。君も聞いているだろう、幽霊のことだよ」


 たしか君はまだ会っていなかったはずだね、と彼は書類から目を上げる。彼の言うに、エアールクスさんのところの小型機たちが怖がっているらしいのだが、件の幽霊のほうも一度彼らに鉢合わせて泣かれてからはあまり姿を見せなくなったらしい。気兼ねするなんて優しそうではある。


「さっき見かけました」


「そうか、」


 何か言わんとするように彼の唇が開きかけたが、そこにちょうど携帯が鳴りだした。彼は慌ててポケットを探りながら、ログは後で確認しておくと言いながら奥を指す。


「夕食の用意はできてるみたいだから、ちょっと早いけど食べておいで」





窓の外は夕闇も深まり、ロビーを行き交う人波も昼間よりは大分落ち着きつつある。


 食事を済ませ、空港のコーヒーショップにコーヒーを買いに行って戻る途中、いきなり手首を掴まれるような感触がした。腕に目をやっても姿は見えず驚いたが、見えないだれかがくいくいと手を引いているようだったので、不思議に思いながらもついていく。なぜか、怖いとは感じなかった。その手に乱暴さはなく、朧気ながらあたたかさを感じたせいかもしれない。



 空港関係者以外立入禁止と書かれたドアを過ぎて少し、廊下の角をひとつ曲がったあたりのところで、それは瞬きほどのあいだに姿を現した。思っていたとおり、その背格好は着陸のときロビーに見えた人影に相違ない。柔和そうな顔立ちに見えて、その瞳には強い意志の影があって、そしてどこか見知った顔にも思えた。


「貴方がジャック・ワッデル?」


 まっすぐに僕の目を見据え、半ば確信を持ちながら訊いているらしい彼女を前にして呆気にとられながら、幽霊ってこんな押しが強いものなのかなと思う。


「……その名前で呼ぶ人がまだいたとはね」



 僕は貨物航空会社で普通の貨物機として働いているけれど、ひとつ他の機体より多少特別なことがあるとしたら、僕がもともとはボーイング747-8型機の試験機1号だったことだろう。


 1969年生まれの747型初号「シティ・オブ・エバレット」から下ること約40年、僕は大幅な改良を加え747型のリスタートの口火を切る747-8型試験機として、747の長兄が記念すべき初飛行をしたときのパイロットを務めた人物の名前を賜った。それが「ジャック・ワッデル」。


 今はもうカーゴルクスさんに貰った新しい名前があって、試験機の頃の名前で僕を呼ぶ人はほぼいない。いるとして、何か不具合でも起こしたときにやってくるボーイングさんとこの整備の人が、ごく稀にそう呼ぶことがあるかどうか。


彼女は僕の返答に少し目を見開いたが、そう、とだけ短く答えた。


「君は誰?」


 問いかけるが、幽霊、といっても自然人の幽霊のようではなかった。しかし法人でもないだろう。僕は最初からカーゴルクスさんが受領予定だったし、貨物型の747-8を受領前に倒産した企業はなかったはずだ。わざわざ僕を探す法人の幽霊なんていないだろう……、となると、僕と同じ機人か。


 赤い安全靴を履いているらしい彼女の足元が、風に吹き流される煙のようにふわふわ薄くぼやけて消えている。淡いモスグリーンの服の上下にはあちこち継ぎ接ぎのような模様があり、いくらか丈も足りておらず、エアラインの制服よりは急ごしらえの作業着か何かのようだった。


「貴方達が生まれないようにしたかった機種といえばわかる?」


 彼女は僕を見据えて言ったけれど、責めるような口調、というよりは、どこか迷いのようなものが感じられた気もした。



 その機種のことは僕も、生まれた頃からよく知っている。僕等747-8に先んじてデビューした彼等のことを、メーカーであり僕等の父であるボーイングはかなり苦々しく思っていたのだろう。エアバス社がボーイング747型に対抗して打ち出した総2階建て超大型旅客機。それまで僕等の兄姉達である先代の747型の系譜が持っていた巨人機としての数々の記録を、彼等は塗り替えてみせた。


「……A380」


「そうよ」


彼女は目を伏せた。







 そもそもの発端はと言うと、やっぱり約半世紀前のあのとき747型という機種が生まれたから、ということになるのだろう。そして彼等A380が生まれたのは747型のせいで、僕等747-8が生まれたのはA380のせいなのだ。



 747型は元々最初からそういうものを作ろうと思って生み出されたわけではない。当時、父であるボーイングは米空軍の超大型輸送機導入計画に際して輸送機の案を提出した。父以外の他社も案を提出していて、最終選考に残ったのが父とダグラス、ロッキードの3社。後に語られたことによると設計自体は父のものが一番優れていたという話だけれど、まあいろんな事情から採用されたのは結局ロッキード案だった。人員と開発費用とを割いてせっかく提出した輸送機案が没になってしまった父だったが、父から持ちかけられた計画に応えたのが当時世界最大規模であり、業界全体に対しても強い影響を持っていた航空会社のパンアメリカン航空、通称パンナム。ローンチカスタマーとなった彼もまた、747型の親といえる。


 パンナムはパンナムで思惑があって、超大型旅客機が欲しかったのだという。当時航空業界は高速化の時代、プロペラ機に代わりジェット機が台頭し、また各国で超音速旅客機SSTの開発も進んでおり、さらなる高速化の方向へ進むと誰もが信じて疑わなかった。各国の航空会社がコンコルドを発注し、パンナム自身父や国にSSTを作らせたがっていたらしいが、その一方でSSTでの旅客輸送では輸送費が高額となるのも事実で、当時ただでさえ陸路や海路に比べて割高だった航空輸送が、より限られた富める人々のみのものになってしまう可能性もあった。これに際し、スピードは二の次とするとしても、それまでの大型機種707を遥かに上回るような多くの席数で、相対的に安価に大量旅客輸送ができる旅客機もと望まれたわけだ。


 パンナムが「今すぐにでも欲しい」と望み、また設計段階でも父のもとで働く技師が推していたのは現在の彼女達A380のような総2階建ての機体であった。しかし「747型の父」として知られる主任のサッター氏が、緊急脱出時の懸念からこれが最善であるとして決定したのは1階建て広胴機ワイドボディ案だった。貨物積載能力を考慮してその上部にふくらみが加えられたのが、現在まで続く747の基礎。


 たとえこれからSSTが空の主役になってこっちはいらなくなっても、その時は改修して大容量を活かした貨物機にしてしまえばいい。最初から貨物輸送に適した設計にしよう。輸送機案のために積み上げられた研究成果と集められた人員も、かくて前代未聞のサイズの巨人機の開発へ活かされることになった。



 僕自身はパンナムに会ったことはなくて、父から彼にまつわる思い出話を聞いたことがあるだけだけれど、「あの頃の彼は本当にしたたかで怖い客だったよ」と苦笑する父の目が全然笑っていなかったのが印象に残っている。まず25機を発注した新型機開発のパートナーといえど、パンナムが提示した納入条件は厳しく時間もなく、なおかつ父側から断れば高額の罰金が発生するものだったのだが、その頃父は財政難で余裕がなく、半ばパンナムの要求を飲むしかないような状態でもあったのだという。


 前例のない巨大さに新しい構造にと難題は山積していたが、エンジンは同じく輸送機計画の選に漏れたプラット・アンド・ホイットニーの高バイパス比のエンジン案にわりとすんなり決まった。当時ジェットエンジンはまだかなりの燃料食いだったのだが、国の要求に対して開発が進んでいたそれを使えば、従来に比べても燃費を25%は減らせるという試算で、期待が持てそうだった。……とはいえそううまくは行かない。重量超過問題やそれを解決しようとしたがための強度不足問題に加え、エンジンはまだ747の身体には推力不足だった。納入の遅延は免れないとの見込みだったが、パンナムは「納入が遅れれば他社に先駆けて新型機を初導入する優位性が失われる」として支払いの半分を拒否すると父を脅し、父は父で遅延の主たる原因はエンジンであって自分のせいではないと言ってひどく揉めたらしい。


 そんなわけで747のデビューは本当のことをいうとあまり華々しいものではなかった。初飛行はライト兄弟の初飛行の記念日に合わせる予定だったのに間に合わず、パンナムのもとでの初便のときだってエンジンの不調に見舞われて出発が遅延した。それに生産開始からしばらくの間に生まれた長兄達は望まれていたほど速く飛べなかったし、一回の飛行で飛んでいける最大距離である航続距離も今の747よりずっと短かったのだ。



 とはいえ周囲の大きな期待に答えるがごとく、程なくして一番のネックだったエンジンも身体に見合った高推力のものの開発が追いついたことで、新しい心臓に積み替えた747達はその実力を発揮するようになっていく。旅客輸送においても貨物輸送においても、他機種に大きく水をあける比類なき容量と低価格化を誇り、船便に勝る長距離高速輸送。そしてこれが、大量航空輸送時代の真の幕開けとなった。




 そして747が就航したのと同じ頃、航空の未来を担うと思われていたSST計画は行き詰まりを見せる。超音速飛行で生じる凄まじい騒音や環境破壊の問題を問う環境保護派が米議会内でも台頭した。連邦政府のSST計画への追加予算は僅差で否決を喰らい、これにより父自身も多額の資金と人員とを割いて開発中だったSSTのボーイング2707は、試作機の完成前にプロジェクトが頓挫した。ロケット開発で参加していたアポロ計画もその勢いは衰え、オイルショックで747の販売もまだ軌道に乗らず、父も相当苦労したらしい。


 もしかして父も、本当は僕等747ではなく2707のほうを開発したかったのだろうか。今となってはわからない。父は747を自らの誇りだと言っていたし、僕も結局面と向かって訊いたことはないままに彼の元を離れてしまった。けれどやはり2707は、技術発展に限りない希望を見ていた時代の、それが終わりだったのだろう。技術でできることの限界や発展によって生じた綻び、今まで無限にあるように感じられていた資源にもしかし果てがあることが見えて、そこから世界は変化していく。そしてその未来のフラッグシップを務めたのは747を筆頭とする大型旅客機で、SSTの居場所はなかった。



 747はそれから航続距離の延長や旅客キャパシティ増のほか、日本の例の御巣鷹の事故を始めとする数々のインシデントから操縦システム等の内面においても幾度も改良が加えられながら、多くの派生系の兄姉達が生まれた。けれど、父が747を生み出してから長く…それこそ三十数年にわたって、747系列に競合するサイズの他社の巨人機は現れなかった。いわば市場を独占していたわけだ。


 先代の747型である747-400、通称ハイテクジャンボは特に長く空の王様であり続けた。生産機数で言っても400型は歴代747型のうちで最も生産数が多くてきょうだいが多く、当時の数々の先進性も盛り込んだ400型は747の最も輝ける世代と言えると思う。



 僕がカーゴルクスさんの元で働き始めてからも、先輩として慕っているのは彼のもとで先に働いていた彼等747-400達だ。先輩達はたとえ貨物機でも747らしい堂々とした振る舞いをしなさいと言っていたけれど、その割に気さくでフィンデル空港の小型機たちからもよく懐かれている。一番年長の先輩が言うに、「旅客機のような華やかさはないにせよ、長く人とその社会に関わり支えることができるこの仕事のことが、自分は大好きだ」と。僕も概ね同感だ。



 話を戻そう。1989年、長らく父ボーイングの一強状態だった巨人機市場に満を持して殴り込みをかけたのが、他でもないエアバスだった。


 父やダグラスを始めとする米航空メーカーに対抗しうる国際競争力を得るため、欧州に点在していた航空メーカーを統合するかたちで生まれたのがエアバスだ。最初の頃こそ足並みの乱れやノウハウ不足から製造にも販売にも苦戦していたというけれど、その頃までには現在でもロングセラーとして売れ続けているA320の販売も始まっており、父達米メーカー勢の先行機種に対抗する新機種の計画を打ち出す中で上がったのがそれである。UHCA計画と銘打ったそれは僕等747に対抗しうる、それを上回りさえするほどの大きさの超巨人機の計画だった。


 もちろん父もそれを静観しているはずがない。市場を独占し続けるために顧客の注目を奪い、計画段階でエアバスを断念させんとして、747-400の胴体延長型案や総2階建て化案、完全新型機のNLA計画などを打ち出し争う姿勢を見せた。一度は父とエアバスの共同開発の構想も立ったという。VLCT構想と呼ばれたそれは、結局物別れに終わった。



 UHCA計画はやがて名前を変え、A3XX計画としてとうとう動き出す。そしてこれがのちに彼女達A380になることになった。


 一方の父はA3XX計画がローンチした後も対抗案を打ち出し続けた。747改良型案としての747X計画、音速に近い速さで飛行するソニック・クルーザー、燃費に優れた中型双発機の7E7計画……そしてこのうちの747X計画が、やがて僕等747-8になった。





「その姿からして、君は試験機テストフレームかな」


「ご明察ね」


 彼女はすいと目を細める。A380はそのデビュー以降、退役でスクラップとなった機体も事故等で登録抹消となった機体も未だいなかった。だからA380の幽霊なんているはずがない……けれど、例外がある。


「強度試験機…」


 それは機種のために生まれ、機種のためにその身を捧げる機体。飛行試験機を含む機種の他の全ての機体に先駆けて生まれ、その身を以て機体のつよさを計り、そして試験を終えたときが役目とみじかい機生の終わりでもある。そういう立ち位置だった彼女が僕を尋ねてくるのなら、理由なんてわかりきっている。彼女がその一生を消費しても守りたかったものは、僕等が奪うはずだったものだったんだから。


 面識がなかろうが747-8機型の象徴たる初号としては恨まれてたり敵視されていて当然だよなあ、と観念して廊下の椅子に腰を下ろす。彼女は手を上げるわけでも声を荒げるわけでもなかったけれど、僕を見下ろして、静かな口調で言い放った。


「貴方達の負けよ」



「今更それだけ言うために遥々僕に会いに来たのかい」


 うすく笑んだ僕に、彼女は面食らったらしい。怒ったような、けれども何を言ったらいいのかわからないような面持ちで彼女はしばらく黙っていた。ややあって、座るよう彼女にも促すと、大人しく僕の隣に腰を下ろした。コーヒーを差し出しながら、静かに問う。


「……わざわざ会いに来てくれてありがとう。ずっと待っていてくれたようだけど、話したいことがあったの?」


彼女は俯いたままだったけれど、長い溜息のあと、それまで張り詰めていたらしい肩からふっと力が抜けた。微かに頷いて、彼女は答える。


「ええ、貴方に会ったら言いたいことも、話したいこともたくさんあった気がするの。確かに、なにもかも遅すぎたのかもしれないけれど」


「そんなことはないさ、時間なんていくらでもあるから、文句でもなんでも好きなだけ言えばいいよ」


「……それなら、遠慮なくそうさせてもらうわ」


彼女は幾分柔らかく苦笑して、話し始めた。






 何から話そうかしら…やっぱり順番を追って話したほうがいいのかしらね?

ともかく、747のことはさいしょから嫌いだったわ、貴方達のお父様と同じくらい。私達より長い歴史があるくらい何よ。あのひとからはそれこそ生まれたときから…いいえ、生まれる前からずっと比べられて悪しざまに言われ貶されていたのだから、腹も立って当然でしょう? だから747には必ず勝ちたかったのよ。


 だから父様や私の後に連なるだろう妹弟達のために、A380が素晴らしい機種になるように願ったの。この翼砕いても、続く翼に幸いよあれ、A380は747を打ち倒す新たな空の王様であれ、って。


 まあ、それなりに叶ったとは言えるのかしらね、貴方達747-8には勝てたのだし……ええ。もとより父は747を超える飛行機を生み出したかったのだから、当然のことよ。



 私はA380静強度試験機。生まれたのはトゥールーズで、もちろん解体されたのもトゥールーズだった。それこそ今まで敷地の外に出たこともなかったから、思い出と言ったって、工場の建屋の中で鉄骨と無数のケーブルに囲まれていたのが、テストフレームとして運用中だったころの私の思い出のほとんど……、工場の人達には実験の合間とても良くしていただいて、たくさん話もしたし、父様や下の妹弟たち飛行試験機もあの子達の試験の合間を縫って会いに来てくれたから寂しくはなかったけれど、ひとつ下の妹にあたる疲労試験機のMSN5001は別な工場にいたから、結局会えないままだったのが残念といえば残念かしら。


 いつだったか、主翼破壊試験があった夜に父様が建屋まで来て、痛くて泣いていた私の側でずっとお話を聞かせてくれたことがあったわ。空に憧れた人々と飛行機の始まりの話、私達みたいなジェット機が生まれるよりむかしの大きな戦争の話、父様が産まれるまでのこと、生まれてからのこと、彼のこどもたちとしての私達飛行機についてのこと……。父様の掌が機体の頬のあたりに触れて、温かかった。父様は何度もすまないと言って辛そうな顔をしていたけれど、私は父様がそばに居てくれるだけで嬉しかった……父様には笑っててほしかったから「大丈夫、もう痛くないわ」って言ったし、不思議ね、そう思うだけでほんとに痛みも和らいでぽかぽか温かかったの。


 私は強度試験機なんですもの、たとえ終生空を飛ぶことのない、かたちだけの身体だとわかっていても、飛行試験機や量産機の妹弟達のことを羨んだことはないわ。私にしか出来ないことがある、私が記すデータこそが父様や妹弟達の発展と平穏の礎になるのだもの。




 幸い父様の設計が実直だったおかげね、機体に関しては私や妹弟たち飛行試験機の試験でもこれといった大きな問題はなくて……何よ、あの遅延の件なら客室の配線の問題でCFRPのせいじゃないわ、787と一緒にしないでくれる? …もう。


 確かに遅延はしたけれど、飛行試験機の妹の誕生日は、ほんとに嬉しかったんだから。私もこっそり後ろの方に同席させてもらったの、お披露目ロールアウト式典で欧州の首相様方に囲まれたお父様は、とても誇らしげに見えたわ…。A380は747より大きくて、未来的で、受注数でだって貴方達747-8を上回った。欧州がやっとアメリカに勝利を収めたことを祝福するみたいな、そんな式典だった。そう、私もこの日のために生まれてきたのねって思うくらいに。



 やがて量産機の妹弟達が生まれる頃、私達の試験は終わって、それから間もなく私自身の機体は解体されたの。これで役目はおしまい、って思っていたんだけど、貴方達747の歴史の終わりまで見届けたいとどこかで思ったせいかしら、父様にさえ私の姿が見えなくなっても、薄ぼんやり気持ちの残滓だけがその場に留まり続けていたような感じでね。トゥールーズから旅立っていく妹弟たちのことを見送っていた覚えはあるけど、それ以降のことは私も夢を見ていたみたいで、覚えているような覚えていないような、曖昧なものでしかないの。



……だけどこの間、父様のところの社員さんが話してた747-8生産終了の噂が聞こえて、そのとたん試験機だったころの記憶がふっと蘇るような気がしたのよ、目的を思い出したみたいに…。そうしたら、なんだかよくわからないうちにこんな感じになってたのよ。


 幽霊って言っていいのかしらね、久しぶりに会った父様はびっくりしてたわ。数年も前にいなくなったはずの私がとどまっていたんだから、しかたないかしら。


 でもへんなのよ、父様ったら……会えたのに、あんまり嬉しそうではなくて……。



『お前には長く付き合わせてしまったね。けれどお前はもうどこにもいないのだから、どこだって好きなところへ行きなさい。』


 しばらく過ごした後、父様はそう言って私を撫ぜて、……ええ、それで私はどこかに行くことにしたの。もう、トゥールーズが私の居場所ではないのなら。







「私には父様がなぜあんなことを言ったのかわからないの、たしかに私の機生は長くはなかったし、たくさん痛かったけれど、恨んでなんかいないし、ずっと私はいたのに、ここにいるのに」


心細げに掌にタンブラーをくるんで俯く様子は、小さな子供のようにも見えた。


「なんにしろ、気持ちの整理をつけたくて貴方に会いに来たのよ、面識もなかったけど、貴方に会ったらきっと…」


「きっと?」


「……なにかしらね、会ってどうなるつもりだったのかしら、生まれる前から潰し合っていた貴方達となんか」


目を閉じて彼女は少し自嘲するような調子で言った。


 私は貴方達747のことがずっと大嫌いで、けれど目標だったんだわ、と彼女は続ける。その尾翼を追いかけ、追い越し、そして打ち倒すための目標。それが747だったのだと。


「747のことを羨んでいたのよ。私達A380がどんなに背を追いかけても追いつけない歴史、名声。Queen of the Sky... 747が空に齎した変化には他のどんな機種だって及ばない、ダグラスの空の列車だって為し得なかったことだわ」


独り言のようにいう彼女の目は、思いのほか優しかった。


「Jumbo Jetといえば、世界で最も知られ親しまれている航空機の愛称でしょう?」


「これからはきっと違うよ」


「わかったような口をきかないでよ」


彼女はかぶりを振り、つっけんどんな言葉が小さく漏れる。廊下の窓の外を離陸していく小型機の尾翼が横切り、エンジン音が遠ざかっていった。







 747-8はA380に遅れること5年の2005年に製造が決定し、2009年にロールアウトした。


 747型の最も新しい世代である僕等747-8の機種名末尾の8は、やや先駆けて開発が進んでいた双発中型機の787型に因む。彼らの開発に伴って生み出された新しい技術が、僕等の翼や心臓にも活かされることとなったのでこんな名前になった。100、200、300、400という先代までの747の系譜の連なりからは浮いていてすこし気恥ずかしかったけれど、ちょっと特別な感じがして小さい頃は好きだった。



 747-8は父のもとで生まれる飛行機には珍しく貨物型が旅客型に先行した民間機種で、そんなわけで機型では僕が一番兄にあたる。父はそのころ787型で起きていた問題で忙しそうだったけれど、僕と会うと決まって背中を優しく叩き、背筋を正して、最も優れた747型の先駆けとして堂々としなさいと元気づけてくれたのを覚えている。


 747型のリスタートとしての747-8、父はその旅客型に「Intercontinental」という愛称をつけた。地球上の大陸と大陸とを結ぶ、長距離かつ幹線となる路線を担うことを意図したものだった。朝焼けの朱色の特別塗装を纏った旅客型試験機の弟は華やかなロールアウト式典でデビューしたと言うけれど、僕はその頃ヴィクタービルで他の貨物型試験機の弟妹とテストをしていたから、僕自身はそのときのことをあまり良く知らない。



 747試験機だからだったのか僕や弟妹は社内書庫への出入りも自由で、父はそこで747の偉大な歴史について学ぶように言った。旅客型の弟は素直に先代747の各機型の資料を熟読していたけれど、なにしろ本はたくさんあったし、開発も試験も結構遅れていたから時間もあって、僕は夜に書庫へ行っては、父の元から様々に羽ばたいていった連なる翼の系譜の資料をすこしずつ読んだ。


 けれど読むほどに、僕は自分の立ち位置のようなものを見失ってしまった気がする。747の登場は比喩でもなんでもなく世界を変えた。海外旅行は限られた人だけのものではなくなり、空には多くの人と貨物が絶えず行き交う輸送網が築かれた。そして華々しい栄光の歴史を持つ747の系譜の、現在にあるのが僕で、僕は何を誇ればいいというんだろう?

747であることを? 歴史ある航空貨物輸送を為すモノであることを?

僕にはそのどちらも、よすがにするにはあまりにも茫漠としたものに思えた。





 


 747改良型計画は僕等747-8として形になる前に、2回ほど凍結されていた。それも、当然というかなんというか、父がエアバスになんとかしてA380計画を断念させたかったからだったりする。


 その頃には既に巨人機市場は2機種が共存できるほどの規模はないことがわかっていて、それなのに747改良型案には未だ一機の発注もなかった。一方エアバスのA3XX計画は注目が集まり、父は相当焦ったらしい。ボーイングは「ジャンボを上回る超大型機市場はさほど大きくない」と言明して、747改良型構想を凍結した。非採算であればエアバスも諦めるだろうと思ったようだけれど、エアバスはA3XX計画を続けた。


あてがはずれた父は体制を立て直し、再度747改良型案を発表する。既存機種の改良のため完全新機種のA3XXよりも単価が安く早期に就航が可能であることを売りにしたけれど、エミレーツ航空を始めとする8社がA3XXの発注に踏切ったことでむこうが生産が正式決定したのに対し、先代747型を運用している既存顧客に散々営業をかけたにも関わらず、747改良型はやはり正式発注は1機もなかった。


 747の栄光に固執した結果の惨敗だった。父は再度747改良型案を凍結し、代わりにぶつけたのが高速中型機のソニック・クルーザー計画だったけれど、これも結局相手にされずに終わる。


 時を同じくして、同時多発テロが起きた。航空業界は一気に不況に見舞われ、燃料費が高騰する。父は、舵を切った。


「これからの航空旅客は直行便による時間短縮を望んでおり、中型機の需要が拡大する」


 大型機大量輸送から、低燃費の中型双発機多頻度運航へ。この構想を基盤としたのが7E7計画、のちの787だ。


 747型改良型計画が再始動するのはそれから4年後。747型をベースに787型で得られた技術を盛り込めば開発費を圧縮できるという触れ込みで提案され、こうしてやっと貨物型の発注が来て製造が決まったのが747-8。旅客型もそれから一応発注は来たけど、現状はご覧の有様だ。


貴方達の負け、という彼女の言葉に異論はない。



 父が彼等A380を生まれる前から葬り去ろうとしていたことは確かで、そのために最終的に生まれてくることになったのが僕等747-8で、しかし僕等が生まれる頃にはA380はもう世に出ていた。共存はできないさだめだと、父もエアバスも知っていながら。青空は僕等にとって、斜陽を映した赤い海だった。


……白状しよう、僕は彼らに憧れていたんだ。彼等の写真を初めて見たとき、思わず見惚れてしまったことだって鮮やかに思い出すことができる。その堂々として優雅な立ち姿は旅客機として申し分なく、なんて美しい機体だろうと思うと同時に諦念のようなものも覚えた。僕に彼等を上回るものなんて全長くらいしかない。


 父がむきになってエアバスにA380計画を断念させようとしたのは、もしそれが実現すれば、747が相対的に陳腐化してしまうのが明らかだったからだ。いくら787の技術を取り入れた改良型と言えど、結局のところ僕等747-8の設計のベースは50年近く前のもので、数十年の技術進歩を取り入れたA380とは大きな開きがある。既に747-400を運用しているエアラインが導入しやすいようコックピット内の計器配置はほぼそのまま、同じ操縦資格で操縦できるように変更はごく最小限にとどめ、また部品等の管理の観点から各部のパーツや内装等にもある程度共通性を持たせたことも、目新しさがないとかえって裏目に出たようだった。機体の材質も炭素繊維複合材ではなくアルミ合金のままにとどめたことから、経済性も期待されていたほどは改善されず、新鋭機のA380に見劣りする、先代747-400のぱっとしない焼き直しとの評価は免れなかった。


プレゼンや見学の際、試験機として父や弟と共に歓迎した航空会社たちからも、内心次第に興味を失っていくような顔を何度かされたことも覚えている。諸スペックについて父に質問をしながら、その実、彼等の問いや相槌にまるで温度がなかったことも。愛想笑い、「検討します」、やがて届くわかりきったような返事。或いは、発注のキャンセル。A380に遠く及ばない発注数。先代の400型達を運用している会社からも発注は少なく、旅客型の弟が纏っていた朱が曙光ではなく落日のものであったことは、最早疑いようもない。



 試験が終わり、黎明の朱色を脱いだ弟とはすっかり疎遠になった。弟はテスト後にクウェートの政府機になったのだけれど、流石に政府のもとで働くともなれば旅程さえ機密が少なくないし貨物機の僕とは共通の話題もないしで話すことが思いつかない…という以上に、なんとなく話したくなくて旅立ってからほとんど連絡を取ったことがない。僕等貨物型は今の僕の上司でありローンチカスタマーの一社でもあるカーゴルクスさんと一悶着あって、ともすれば受領も断られるところだったから、ああ働き先の心配のなかった弟はいいよなと、内心思う僕がいる。



 僕等は747型のリスタートだなんていう輝かしいものじゃなかった。あるいはただ、皮肉にも僕等は父が最初に思い描いていたかたちに戻ってきただけなのかもしれなかった。機種自体が旅客機としての役目を終え、貨物機となるだけのこと。ではその延命も終わったなら?

 ……彼女のいたトゥールーズでも話題に上がっていたというとおり、父は2019年から2020年までに747-8を製造中止にする可能性が高いとした。製造ラインが閉じられればもう僕等747-8に弟妹は生まれてこない、だけでなく、約50年続いた誇りある747型の歴史は僕等で終わり、父のもとで生まれる機体には四発ジェット旅客機がいなくなる。そして、今後再び生まれることはないのかもしれない。







「……でもね、生まれる前から戦ってたAirbus A380わたしたちBoeing 747あなたたちだけど、私達は本当に貴方達に勝てたのかしら……、いえ、勝ったはずなのに、それなのに、私達は747の面影にさえ勝つことができないでいる気がするのよ」


 彼女は釈然としない顔で言う。事実、先代400型がだんだんと引退の時期を迎えつつある今になっても「ジャンボジェット」の栄光の印象は強く、むしろ引退式典などで讃えられいやましているところさえある。反面、A380は昨年の発注はゼロ、今年あった2機の発注も組み立て済みのまま受領先が決まっていなかったものの就職先が決まっただけで、新しく生まれうるものではなかった。生産ペースも来年から3分の1に落とされる予定で、僕から見てもA380の機種としての勢いはかなり鈍化している。


 先代400型の栄光に勝てないでいるのは僕自身痛いくらい感じて後ろめたく思っているけれど、機種として僕等以上のものになりたいと望んでいた彼女ならば、それは言うに及ばず。


「ううん、それでも君達は……」


 僕は君達みたいになりたかった、と呟く。彼女はそっぽを向いてからかわないでと答えた。


「それにLX-VCAぼくA380試験機あなたと戦ったことはない、これがはじめましてだよ」


「…、貴方ねえ、ライバル機種なんだからもっと敵愾心とか……ああもう」


呆れたように肩を落とすけれど、そうはいわれたってだれかに手を上げる趣味なんかない。


 そしてそもそも、747-8の製造中止にはライバルであるA380の存在以上に大きな理由があって、それがA380の発注の鈍りの原因でもあるんだ。僕等共通の敵、そういうものがあるとするなら、それは。








 747を筆頭とする大型四発機が長距離国際線の花形だったのは、航続距離が長くて安全性が高かったからだ。多数の乗客を乗せてノンストップで長距離幹線路線を結ぶことができ、たとえエンジンがひとつくらいトラブルを起こしたとしても、残りの3つがあれば最寄りの空港まで余裕を持って安全にたどり着ける、というのが4つの心臓を持つ僕等の強みだった。


 そして四発機の発展に伴って、航空エンジンはいっそう洗練された物となっていく。騒音はより小さく、パワーはより大きく、燃費はより良く、そしてより高い安全性が求められ、実現されていった。四発機と僕等の心臓は、最初の頃よりずっとずっと素晴らしいものになった。


 一方、エンジンが2つしかない双発機旅客機は長らく、空港から一定以上離れたルートを飛ぶことはできないという制限があった。たとえ空の上で片方の心臓が止まったとしても、最寄りの空港まで安全に旅客を送り届けなければいけないというのが、旅客機に課せられている役目だからだ。


 僕等より小柄な双発機たちにも四発機から成果と恩恵がもたらされることで、双発機での飛行はずっと安全になっていく。これを受けて、基準をクリアすればより空港から離れたところも飛んでよいことにする、という認定制度が始まり、ETOPSと呼ばれるそれのお陰で、双発機で結べる路線はどんどん増えていった。



 そう。やがて僕等四発機が必要なくなってしまうくらいに。僕等を、747-8だけでなく彼女達A380をも含めた大型四発機を圧倒したのは、ほかでもない双発機達だったのだ。



 航空機には2乗3乗の法則という物理法則が文字通り重くのしかかり、大きな身体であればあるほどその重力の枷は重く、苛烈なものとなる。また乗客一人あたりの燃費やコスト面でいえば、大型四発機は双発機を決して上回ることはできない。


 あの時代747が一世を風靡したのはあくまでその時代において需要に合致し、なおかつ競合相手がいなかったからで、経済性の高い機体が求められるこんにちにおいては、747は最早過去の存在と化しつつある。そして残酷なことに、就航からまだ10年しか経っていないはずの彼女達A380すら、数歩遅れで僕等の背を追いかけているような状況だ。そんなところまで747の轍を踏んでほしくはなかったのに、どうやら僕等の行き先は同じようだった。


そしてこの潮流を決定づけたのが、他でもない僕の父ボーイングと彼女の父エアバスなのは言うまでもない。一時期は隆盛を誇った三発機達の時代に終止符を打ったのは燃費の良い双発機として頭角を現したA300で、その後エアバスがボーイングに対抗して新しく機種を生み出すほどに競争は激化、結果として双発機市場は大きく拡大した。747に迫る大きさの双発機777型の誕生、そして父の方針転換と、「夢の機種」。




「私だって悪夢止まりになってほしかったわよ」


彼女は拗ねたように目を細めて、どこでもないところへ目をやりながら息をつく。


 利便性の高い多頻度運行、ポイント・トゥ・ポイント概念の申し子といえる787ドリームライナーの成功は、航空業界全体の向かう方向をいよいよ確固たるものとした。


 彼等双発機がいずれ四発機に対してのとどめとなりうることも、父が予見していなかったはずはないだろう。だからこそ僕は開発費の掛かる完全新型ではなく、あくまでも747の改良型として生まれるにとどまったのだから。


……といいつつ、その圧縮した開発費すら回収できそうもないわけだけど。はなから期待などはされていなくて、その低い期待すら満足に満たせなかったと思うと、機型初号としてはやっぱりやるかたない気持ちにはなる。サッター氏に、或いはリンドバーグ氏に、こんな姿を見せないでよかったかもしれない。


 空港スタッフの人がこちらを見て不思議そうな顔をして廊下を通っていったのをのをぼんやり見送りながら、彼女の隣で、僕は父のもとにいたときのことを思い出していた。






 僕はそのころ、他の貨物型試験機のきょうだいと一緒にヴィクタービルでテストをしていた。ある日弟が怪我をしたので手当のため技師の人がちょっとエバレット工場へ戻ることになって、テストが休みだった僕はそこについていったのだ。


 エバレットは生まれた場所でもあるからなんだかんだ落ち着くんだけど、その日は違った。


以前使っていた自室を整理してヴィクタービルに持っていくものを選んでいたら、そこに777-300ER型がひとり、いきなりやってきたのだ。近々受領を控えているのだという彼はG-STBAと名乗って、まじめくさった顔で僕を見上げて言う。


「ワッデル先輩、ぼくは747みたいな飛行機になりたいんです」



 まだエアラインの制服にも袖を通したばかり、いささか真新しい服に着られているようにも見える彼は、僕の試験のことや747のことについてしきりに聞きたがった。


「ぼくは先輩よりも小さいし、普通の量産機ですが、でも雇い主さんの期待に応えられるように精一杯頑張りたくて」


「…それは殊勝なことだね。僕の試験や書庫で学んだ開発史の範囲でなら、話せるけど」


 無下に断るのも気が引けたから、訥々と語りだす。彼は目を輝かせ、時折質問を挟みながら、傍らで熱心に耳を傾けていた。



 小一時間ほどふたりで話しただろうか、そのうちヴィクタービルに戻る時間になった。断ったものの、彼はお見送りしますからと言って建屋の外までついてきてくれた。初夏の日差しに居並ぶ機体たちが照らされている。



「ねぇパパ、あっちにジャンボがいる!」


風の中に子供の声がして振り向くと、工場の金網の向こうから小さな女の子がこちらを指差していた。指先が指し示す機体はフライトラインに佇むG-STBAのものだ。


「えへへ、ジャンボですって。747とまちがえられるなんて、嬉しいけどくすぐったいですね、……どうしたんですかワッデル先輩?」


「…ああ、なんでもないよ」


彼は照れくさそうにはにかんでいたけれど、僕を見て少し不思議そうな顔をした。多分僕は、半ば愕然としていたんだと思う。


 もちろんあの女の子はただ単に幼くてまだ見分けがつかなくて、大きな飛行機がいたから名前を知っている「ジャンボ」と呼んだだけに過ぎなかったのだろう。けれど僕には、何故かそれがとてもショックだった。


 名を呼び人が指差す先、そこにいるのはあんな双発機なんかじゃなく、僕のきょうだいや僕であって欲しかったんだ。かつて「ジャンボ」は世界で最も知られた飛行機だっただろう。でもこれからはそれもすこしずつすこしずつ曖昧になって、栄光は人々の過去の思い出のページに綴じられていく。


 STBAや同じエアラインの制服を纏った彼のきょうだい達、777-300ERが行くのは歴代の747型機を100機以上運用し、現在も世界で最も747型を運用している英国の紳士の元。ブリティッシュ・エアウェイズは、747-8を選ばなかった。


 そして僕は、この心臓も翼も双発機譲りであることに改めて気づいてしまったんだ。747-「8」、先代までとは違うナンバリング、その意味するものは、747の行き詰まり。最早747は747だけで発展はできず、かつて先達となり双発機の発展を助けたはずの747は、いつのまにか双発機の後塵を拝す存在になっていたことに。







「父様は長く長く、貴方達のお父様のことを超えたがっていた…、そう、私が747に対して思っていたのと同じように、どこかで羨んでいた、のだと思うわ。そして私達や貴方達、大型四発機が空の主人公であり続ける未来を、きっと思い描いていたの」


 彼女は無理に微笑んでみせたけれど、それは泣き出しそうな顔にも見えて、僕は少し辛かった。


 ハブ・アンド・スポーク。旅客需要の増大に対してエアバスが提唱している概念は、拠点空港間を大型機で結び、そこから地方空港へと中・小型機で輸送するというものだ。従来型とも言えるその概念はいま、父の言うポイント・トゥ・ポイントに押され、僕等四発機と同様に時代遅れのものとされ始めている。大陸間を結ぶという747-8旅客型のコンセプトは、ハブ・アンド・スポークそのものだ。



 航空旅客における需要増は、このままのペースで行けば20年後には今の2倍の輸送力が必要になると言われているらしい。空港が飛行機に合わせてくれた時代とは違い、発着枠は今でさえ一杯で、それこそ新しい滑走路がたくさん作られたりしないことには増加がそれほど見込めないだろう。いずれ機体の大型化も必要になるはずだけれど、現状を鑑みればまったくの新型四発大型機種が生まれうる可能性はほぼなくて、仮に生まれるとするならA380の後継型だろうか。幸いA380には中東ドバイの潤沢な資金を地盤とする大口の顧客、エミレーツ航空がついていて、過去に一度生産終了の可能性が出るも延命し、発展型のA380plusの計画さえ出ていた。


「君達にはまだ、僕等より時間が残されているだろう」


 励ましたつもりだったけれど、彼女は浮かない表情をしている。


「…私が父様の元を発つ少し前くらいかしら、ドバイで航空ショーがあったのは貴方知っていて?」


「いや、こっちで働き始めてからは仕事柄、ニュースを見るのも飛び飛びなんだ」


「そう……。無理もないわね」


 少し黙り込んでから、彼女は重そうに口を開く。



「11月の始めだったかしら、エミレーツ航空へ100機目のA380が受領されて、そこまではよかったの。弟の受領式典は節目の数として大きく執り行われて、エミレーツ様の緊密な関係はこれからも続くと父様も思っていたというのだけど、」


そうじゃなかったみたいだわ、と睫毛を伏せ俯いて、彼女はまたひとつ嘆息した。


「それから半月ほどあとのドバイ航空ショーで、父様は彼からA380の追加発注がある見込みでいた。だいたい発展型のA380plusの開発だってエミレーツ様が望んだことで、彼の膝下のドバイで行われる見本市だったのだもの、従来型にしろ発展型の開発をローンチさせる発注にしろ、いずれかはの大口発注があるものだって思っていた。結果は散々だったわ、A380の発注はゼロ。彼が選んだのはボーイング機、それも787だったのよ」


 乾いた笑いをこぼしたのは僕の方だった。さすが素晴らしき新時代の夢の飛行機、か。新たな時代の幕開けは、それまでの時代の終幕でもある。そう、かつて747がゲームチェンジャーであったように。父が勝ったはずなのに、少しも嬉しくはない。


「笑えるでしょう? A380は将来性が不透明だって言われたそうよ…なによ、望んどいてなによ……もっとできのいい弟妹たちでも、必要ないというの?」


掠れたちいさな問いが、静かな夜の廊下に消える。



「彼ほどの数のA380を抱えられる航空会社なんて他にいない。彼が私達に飽いたときが、きっと私達A380の終わりね……、彼が導入を打ち切るならいずれ遠からぬうち生産終了が訪れ、もし所有機が機材更新で放出されても、十分に買い手がつくかさえわからない」


「……」


 きらびやかな砂上の楼閣が、静かに崩れていく。A380はその総発注数の4割超を1社が占めており、言うまでもなく、それがエミレーツ航空だった。


「いくら貴方達より発注数が多いって言ったって、中古機市場が十分に発達するほどの規模はないのよ。新しい雇い先が見つからなければ。弟妹達も多分私みたいに解体されるか、良くて部品取りってところじゃないかしら、たとえまだ飛べる計算だったとしてもね」


「で、でも貨物転用して…」


「貨物機に向いてるのなら父様も貨物型の開発を凍結したりしてないわ」


貴方達とは違うのよ、という矜持とも自嘲ともつかない彼女の言葉のあとに、沈黙が訪れた。僕等は似た者同士で、それでいて決定的に違っている。それがひどく、もどかしく思えた。


 空飛ぶ宮殿とも称されるA380は747-8以上の高額機体で、それ故に保有するエアラインは限られている。導入どころかその維持もハードルは高く、導入した機材をリース契約の更新を行わずにそれきり手放すものも既にいた。ヒトでいうなら派遣社員の雇い止め、といったところだろう。リース会社に帰ってきたA380達の次の働き先は、まだ決まっていないのだという。




 ぽつぽつと旅客ターミナルの明かりが落ち、フィンデル空港は夜の姿へ変わる。国際空港とはいえ旅客便はそう遅くまであるわけではなく、むしろこれからの時間が僕等貨物機にとってのメインの業務の時間帯だ。ガラスの向こう、飛び立つ準備をはじめる僕の同僚の貨物機達を、彼女は物憂げに眺めている。


「…私は妹や弟に会いたかったし、それもあって試験を成し遂げられたと思うの。でもあの子達を生まれてこさせてしまったのは私じゃないかって、先月目を覚ましてから考えて…。生まれてきたからには居場所がある、なんて、確かなことでもなんでもないのね」


「君の父さんはうまくやったほうだと思う」


「そうだとしてもよ。最初から生まれて来もしないことと居場所がないのに生まれてくることのどっちがマシかって、そんなの比べたくもないわ」


 むすっとした面持ちで彼女はコーヒーを呷る。



「だいたいね、貴方のお父様のところのあのできそこないの787ったらなんなの、あれのせいで私の妹弟が2機も生まれてこないことになったのよ、安売りの双発機に鞍替えされるなんて悲しいよりむしろ悔しいんだけど」


「それはそもそもお客さんが話題作りに大口叩いただけだろう、小型機入れて10機そこらのフリート規模のエアラインが、ビジネスクラスぎゅう詰めイワシ缶仕様のA380を2機も養えるわけがないじゃないか」


「なおさら腹立つわよ!ロシアの身の程知らずといい、なによ期待させといて!」


 ふん!と鼻息荒く彼女は言い放って、顰め面で座ったまま何かを蹴飛ばすような仕草をした。このひとときたら僕より歳上なのに受領前の小型機みたいな振る舞いをすると重ねて思いながら、僕は壁に背を預け天井を仰ぐ。でも、気持ちはわかるのも事実だった。


「……なんていうかお互い様だけどさ、時代に選ばれなかった機種なんて今までもあるだろ、そっちでいえばブラバゾンとかさ。残念だけど、僕等もそうだったんだと思う」


 語気荒く、しかしどこか悲痛な叫ぶような声で彼女はまくし立てた。


「あれは早すぎたっていうより顧客の要望聞かなかったからよ、だいいち『時代に選ばれなかった』って、それなら貴方達は、私達は」


なんのために?

「それは僕等が決めることじゃない」


問うた彼女に、静かに首を振る。





「試験は終わったんだ、君も僕も試験機じゃない。僕がそうであるように、君ももう、A380という機種のすべてを背負わなくてもいいよ」


……彼女は目を見開き、ひどく狼狽したようだった。


 半ば呆然とタンブラーに目を落としたまま、それを掴む細い指先は白くなるほどこわばっていて、元気づけるつもりがまずいことを言ってしまったのかもしれないと思う。



 いや、考えてみれば、試験後の機生があるものとして造られた僕と違って、きっと彼女はA380強度試験機であることが誇りであり、アイデンティティだったのだろう。それだけを支えにして、飛ぶことのない翼を砕いて、建屋に響き渡っただろうその轟音であり絶叫を、僕は知らない。


彼女の手に重ねたくて伸ばした手は、結局触れられずに椅子の上に降りた。


「わたし、は」


俯いた彼女は小さくことばを紡ぐが、それきり唇は結ばれ、何もでてこなかった。長い沈黙があって、僕が代わりに続ける。


「……君はたくさん頑張ったんだろう、それで十分だったんだ。君のお陰で君の弟妹達は晴れて機生を受けたんだから、君はもう責務を果たしたんだよ」



…わずかばかりの沈黙。彼女はぱちぱちと瞬いたあと、やおら吹き出した。


「それって貴方が言うこと?」


隣の僕を肘でちょっと小突いて、堪えきれないといった調子で笑い続けながら彼女は目尻を拭う。やがて笑い声がおさまる頃、相変わらず苦笑は残したままの彼女の灰鼠色の瞳は、穏やかに澄んでいた。


「会ったこともない貴方達のことが嫌いだったのも、その貴方に慰められてるのも、ほんとばかみたいだわ」


「そんなに笑わなくたっていいじゃないか、思ったこと言っただけなのに」


「それがおかしいのよ」






「……しかしなんで電車なんて乗り継いできたんだい? 飛行機に乗ってくれば速いし、向こうからこっちまでの便はエアバス機と小型機ばかりだっただろう?」


 ボーイング機に乗りたくなくても空路で来れたかと思うよ、と言うと、彼女は傍目にもわかるほど目を泳がせた。


「そうじゃないのよ」


「……え、まさか、飛ぶのが怖いとか?」


図星だったらしい。すとんと肩を落とし、彼女はむくれながらまたタンブラーに口をつけた。


「おかしいでしょう? ハリボテとはいえもともと飛行機だったのに、これ以上堕ちることもないのに怖くて飛べなかったなんて、それでそのまま量産機に生まれ直すこともできずにいるなんて」


 ベース機種となる747がすでにあり、そこに新しい技術を導入した僕達787-8型には彼女のような大型の強度試験機は存在しなかったけれど、それに比べてA380はまるっきりの新機種だったから、一から強度を確かめる必要があった。結果生まれたのが、のちの弟妹たちとほぼ変わらない大きさでありながら計器もエンジンも座席もついていないハリボテの彼女。


 彼女が受けた静強度試験は、A380が今後運用され続ける中でいつか起こりうる有事のためでもある。そういう事態にいつか行き当たってしまった時、ヒトも物も最小限の被害で収めるためにも彼女の弟妹たちはどこまでなら無理ができるか、そして……どの点を越えてしまえば、もう取り返しがつかないのか。そういうことを実際に主翼を破壊することさえ行って調べることで、機種の礎となるのが彼女に課せられた役目だったわけだけど、冷静に考えてトラウマにならないはずがないような試験だろう。


 だいいち私飛ぶようにはできてなかったんですもの、フライ・バイ・ワイヤもなくて飛び方なんてわかるわけないわ、と彼女は頬を赤らめて口を尖らせる。乗ってるだけでいいんだし飛び方くらい僕が教えるよと宥めたら、貴方に教わるのは癪だけど飛べなきゃ飛行機じゃないって言うの、それも癪だわ、なんていじけている様子だった。



「…ところで君の名前をまだ聞いていなかったね」


「そういえばそうね」


 と言って、しかし彼女は考え込む様子を見せる。


「私は飛ばない機体だから機体記号もないし、実家で呼ばれてたMSN5000っていうシリアルナンバーも私固有のものじゃないし、まして貴方のように名前もついていなかったのだけど……」


 名前と言われても名前らしいものがないのよね、と今更気づいたような顔をして首を傾げた。


「じゃあ好きな名前を名乗ればいいんじゃないかな」


「……そうね、じゃあパメラとでも呼ぶといいわ」


「悪趣味な名前を名乗るものだね、もっと可愛いほうがいいと思うけど」


「ほっときなさいよ、どうせこれっきりよ」


 ぶっきらぼうに言い放つ彼女に一抹の不安を覚える。まるで糸が切れた凧、みたいな。


「これっきりって、君はこれからどこに行くんだい」


「……思いつかない、けど…」


じゃあさ、と向き直って僕は切り出す。


「これから行くとこも特に決まってないのなら、僕と一緒に来るかい、パメラ。747の終わりまで一人で待っているのなんて退屈だろ?」


彼女はまた苦笑したけれど、それは心なしか嬉しそうに見えた。


「ふふ……貴方ねぇ、私を誰だと思ってるの、今晩にでも呪い墜とすかもしれないわよ?」


「君がそうしたいのなら止めないけど、できれば誰も乗ってない時の地上火災とかでお願いしたいな」


「もー、冗談よ冗談。そんなこというんならほんとに貴方が死ぬまで付き合ってやるんだから、覚悟しなさいよね」


「それはそれは光栄だ」


 彼女からまた小突かれながら、僕はなぜか内心、ほっとしたのだった。




 そろそろ僕のフライトの準備時間が近づいてきた。彼女の手を取って、エプロンへの通路に足を向ける。パメラはやっぱり落ち着かない様子で、道すがら何度か僕の手を握り直していた。


「…飛ぶの怖くってもまあ、少なくとも君はもう死なないわけだし、僕が落ちたなら単に僕のせいなんだから安心して僕のせいにするといいよ」


「なによそれ、ちゃんと整備は受けなさいよ安全第一でしょ、私安全には厳しいわよ」


 ぺしぺし背中を叩かれながら適当に返事を返す。こうしていると、気心の知れた友人みたいな気もした。


「はいはい。上司には僕から言っとくよ。かくかくしかじかで747-8を恨む幽霊に取り憑かれましたーとか」


「適当なのねえ、『末代までこいつを呪ってやるー』とか小芝居はよろしくて?」


「僕が末代だってのに何をいまさら」


 ご丁寧にジェスチャーまでつけてすごんだパメラは正直全然怖そうに見えなかったけど、まあ大丈夫だと思う。たぶん。雇用主といえど飛行機の幽霊の除霊とかできなさそうだし。



「……この通り休みは少ない仕事だけどさ、次のドック入りには一緒に休暇でもとって好きなところへ行こうか。水族館なんてどうだい、シロイルカやウミガメの本物だって見たことないだろ?」


「そうね。そう考えたら、私は見たことないものをたくさん持っているのね」


「そうだよ。なにしろまだ時間はあるんだし、どうせなら工場の外を色々見学していけばいい」


「悠長なことねえ」


 呆れたような口ぶりをしながらも、彼女の声色は明るかった。


「ほら、ついたよ」


 ドアを開けた先、星も見えぬほど明るい空港のライトに煌々と照らされるは、貨物区域に居並ぶ大型機たち。僕の居場所は、ここにあるのだ。


 彼女は少しばかりそちらへ歩み出して、立ち止まる。





「ねえ、連れてってよ、この空の行き止まりまで」


僕を振り返ってくしゃりと笑んだ彼女は、幽霊の彼女に言うのも何だけど、まるで憑き物でも落ちたみたいに晴れ晴れとして見えた。


 たとえ輝かしい時代の後日談に過ぎなくとも、僕の機生は続く。この翼に最早続くものがなく、この空がどこにも通じていなくても、僕はその行き止まりまで行かなければいけないんだろう。そこがどんな景色かはわからないけど、彼女が隣にいてくれるなら寂しくないかなと思って笑った。








夜更け、空港から飛び立った機体に寄り添うように、明かりのない大きな機影を見た者がいたという。



レーダーにも映らないその幻影の機体記号なまえは、誰も知らない。

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