ビットシフト〜マクスウェルアベニューの魔術師〜
二月ほづみ
第1話 『閉鎖後』の少年 - A
しっとりした紙の質感を楽しみつつ、ページをめくる。
指先に伝わる、微かに紙の擦れる音。
びっしりと印刷された文字を目で追う。追うと同時に内容を味わう。
読書は良いものだ。小説なんかも悪くないけれど、断然技術書の類いが好きだ。読み進める程に新しい知識が増えていく感じは、もはや快感といってもいい。
大判の辞典ほどもある技術書を抱えて、僕は読書に没頭していた。
しんとした図書室には、僕の他に人はない。静かな図書室というのは、読書好きにとってはまた格別に居心地の良い場所だ。思う存分本を読める幸せに浸りつつ、座り心地の良さそうな閲覧用のソファに深く腰掛け、舐めるように読み進める。
今日読んでいるこれは、ずっと読みたいと思っていた、古いプログラミング言語に関する貴重な文献だった。
影の深い、昼下がりのひととき。頭上の窓から書架の間に、音もなく日の光が落ちていた。
ああ、静かだ。なんて完璧な時間だろう。
満足しつつ、次のページを開こうと指を動かした……瞬間――――
「!?」
空を掴む。
「え?」
本が消えた。
いや、本だけでなく、全て。
整然と並んでいた書架も、フカフカの絨毯も、どっしりした年代物のソファも、暖かい窓辺の日差しさえ。何もかもまるで煙のように。
「な……っ!」
思わず素っ頓狂な声を上げ、勢いよく立ち上がる。
動いた拍子に、腰掛けていたパイプ椅子が、ガタンと軽い音を立てた。
「あっれ? ねぇウィル、このスイッチ、違ったみた……」
「君は馬鹿か!」
気安くあだ名で呼びかけられ、僕は思わず叫んでいた。
瀟洒な図書室は消え失せ、この部屋は床も壁も天井も、一面ただの灰色。がらんどうの空間は、まるで、魔法が解けた後のカボチャの馬車だ。
「だって、よく分かんないんだもの」
声の主、もとい、僕の読書の邪魔をした犯人は、悪びれる様子もなく言った。
明るい栗色の髪を二つに編み、派手なソックスを穿いた足を投げ出すように壁にもたれ掛かって、気の強そうな青い目でこちらを見ている。
この、いかにも慎みの無い女生徒は、僕のクラスメートだ。
「だったら分かりもしないのに操作盤を勝手に触るとか、馬鹿としか言えない真似はやめてほしいね、エリカ」
「呼んでるのに聞いてないほーが悪いんでしょ」
分かってない返答。ああもう、うんざりする。
「それにしても、他に何かやり方があるだろう。ここは貴重な設備なんだよ。システムが壊れたりしたらどうしてくれるのさ」
イライラしながら彼女が背にしていたシステム操作盤に触れる。ノートくらいの大きさのホログラフィ・ウィンドウが、音も無く立ち上がった。
「……君にはわからないかもしれないけどさ」
僕は学生証をかざし、この部屋のシステムを再起動しはじめた。
僕が通うこのハイスクールは、いわゆる地域の名門校だから、基本的に生徒は優秀な者ばかりだ。けど、誰も彼も、ライブラリーといえば東別館の【紙の】図書室にばかり入り浸る。
まぁ、僕だって別にペーパーメディアが嫌いなわけじゃないし、あれはあれで便利なものだとは思うけれど……皆、この学校で一番価値のある施設がどこかを分かっていないんだ。
それは間違いなく、ここ、西館4階の
《起動……認証を開始します……学籍番号2900182、ウィリアム・レリック……認証しました》
ハキハキした合成音声で、耳慣れたアナウンスが流れる。
足元が一瞬光ったかと思うと、あっという間に光は長く伸びて帯となって広い部屋を走り――と、同時に、軌跡からまるで生えるように次々と巨大な書架が現れた。
光る床から押し出されるように現れるそれらには、どれも本や映像ソフトなどの資料がぎっしりと詰まっている。
そして、ふた呼吸も置いた後には、灰色の部屋はすっかりと元の静かな図書室の風景に変容していた。
《ようこそ、こちらネオポリスアカデミー付属ハイスクールSiNE検索システム。何をお探しですか?》
注意深く辺りを見回す。窓から漏れる柔らかな日差しや、緑に満ちた外の景色まで含めて、この優雅でレトロな図書室は、何もかもが精巧なホログラム映像だ。
「……良かった。どこもおかしくはしてないみたいだ」
部屋の様子が変わりないのと、さっき読みかけていた技術書がソファの前に落ちているのを見て、僕はホッと息をついた。
強制終了なんかしてシステムを壊しでもしたら、修復できないなんてことになりかねない。
なにしろ、今の時代、SiNE技術者はいない。
いや、僕が知らないだけでどこかにはいるのかもしれないけれど、少なくとも、そういう技術での就職口はほぼ無くなって久しいのだ。
このライブラリーは、くれぐれも大事に使わないと。
そんなことを考えつつ、書架に並んだ本の背を撫でると、古びた本の、堅い背表紙の手触りがした。
この部屋に現れるものは、ただのホロ映像じゃない。SiNEとは、利用者の五感の大部分を刺激して情報を見せるリアルな仮想現実空間だ。
実際、この頑丈そうな書架や収められている本は全て、実際に『触れる』だけでなく『読める』もので――つまり、ここは今、完全なる『仮想図書館』というわけ。
「ほーら、何ともないじゃない」
怒られ損だとでも言いたげに、エリカが口を尖らせる。
「何ともなかったからイイ、って問題じゃないんだよ。君にはわからないかもしれないけどさ……って、あれ、何だ……?」
適当に本を手に取ってパラパラやっているエリカの方を振り向いた刹那、視界に何かがよぎる。
「……あれ?」
木造書架の間に、いかにも不似合いなホログラフィ・ウインドウがひとつ。
何か、入力途中のウィンドウのようだ。
「プロンプト? 何の?」
やっぱり、システムのどこかにエラーでも出たのだろうか。
「ちょっとあれ……」
「ってことで、帰りましょ!」
言いかけた言葉を遮って、ぐいっと腕を引っ張られる。エリカは小柄な癖に怪力だ。グラリと体が揺れて、危うく転びそうになる。
「な、何するのさ!」
「いーから」
問答無用で部屋から引っ張り出される。
無情に閉まる自動ドアの向こうに、図書室の風景が消えていく。まだ続きが読みたかったのに。
まもなく、彼女の強気そうな瞳がにょっと視界を遮った。
何となく文句を言う気にもなれず睨み返すと、エリカはニヤッと笑う。
「ノースランド先輩の指令なんだから、付き合いなさいよ」
そして唐突に我が校の生徒会長の名を持ち出した。
「はぁ?」
意味不明だ。
「テスト勉強」
「何で僕が。嫌だよ」
「生徒会役員の癖に友達もいないなんて可哀想だから、一緒にやるようにって」
「……放っておいてもらいたいな」
「先輩命令だもの」
「……じゃ、完遂したって報告だけして、君はその辺でパフェでも食べて帰ればいいよ」
僕は今度こそエリカの手を振り払うと、ついてくるなの意志をこめて歩き出す。
「わ、ちょ、待ちなさい!」
「付いてこないでくれる?」
「どこ行くのよ」
「興がそがれたから。帰る」
「テスト勉強は?」
「不要だけど?」
「え?」
「君、授業を聞いていないのかい?」
エリカが決して成績が良い方じゃないのは知っているから、こういう言い方が嫌みなのは承知の上だ。
だけど、僕だっていい加減憤慨している。
「……に、憎たらしい奴ね、相変わらず。だからクラスに友達ができないのよ!」
「別に構わないよ、僕はそれで。じゃ」
早口にそれだけ言って、僕は長い西館の廊下をどんどん下っていった。
自慢じゃないが、僕は同学年にあまり友人がいない。特に必要性も感じない。
そんな僕が、なぜかエリカとだけは親しく話をするのは、僕と彼女が揃って生徒会に所属しているからだ。
僕が書記で、エリカは会計。あの大雑把な性格で!
もちろん、僕は進んで立候補したわけではない。
入学してまもなく、字が綺麗だという奇妙な理由で推薦されて、半ば強制的に任じられたのだ。辞退する自由くらいは与えられていたけれど、母さんに話すとやたらと喜ばれたので、なんとなく流れで引き受けてしまった。
ちなみに、書記の仕事に手書きの文字が必要になることがほとんどないことは、役員の仕事をはじめてから判明した。
まったく、世の中とは不条理なものだ。
僕が物心つく頃には、既に、世界の情報ネットワーク――Ω‐NET(オメガネット)は、その大部分が休眠状態にあった。
いわゆるΩ‐NET閉鎖法によって、世界中で広く利用されていたSiNEサービスが、ほぼ全てが無期限で利用停止となっているからだ。
政府がそのようなことを決めた一番大きな理由は、深刻な電力不足だった。
何十年かの間に、世界の電力供給の要であった大型発電所が立て続けに停止し、電力の供給不足に歯止めがかからない状況が続いていたのだ。
ショッピングや娯楽などに多用されていた仮想空間SiNEだったが、運用には特に大きな電力を必要としたため、やむをえず停止の対象となってしまった。
その代わり、閉鎖法以降は、それまでマイナーな存在だったペーパーメディアが大々的に復権を果たし、人々は紙で本を読み、作った書類はプリントアウトして保存するようになっていた。
かつてのようなSiNEによる情報システムは、政府機関など一部施設でかろうじて生き残っているのみと言っても良いくらいだ。
今では、Ω‐NETといえばメールと電話のための単なる通信回線というイメージが強い。そして、《閉鎖以降》である僕らの世代は、深刻なデジタルデバイドを背負っている。
若者は失われたネットワークのかつての姿を知らないから、現代の情報不足について疑問を持つことが無い――というのはニュースに出てくる専門家の常套句だ。
実際、彼らの言葉どおり、Ω‐NETがほとんど使えないなんてことを、エリカや、他のクラスメートも、誰も気にしていない。
それが当たり前で育っているからだ。
けど僕は、そういうのが我慢ならないんだ。
この学校のSiNEルームも、僕が入学してくるまで、ほとんど誰にも利用されていなかったらしい。
設備の意義や使い方を知らない生徒達が、誰も興味を示さないのだ。
授業に使われる様なこともないし、詳しい教師もいない。
(でも、だからって、いきなり部屋の電源を落とすことはないじゃないか)
現在、ここのようにSiNEサービスの運用が公に許可されている例は、世界中を探してもとても少ない。
(ここは、失われたあらゆる情報を抱えたまま眠ってる設備なんだぞ。それを……)
本当にもったいないことだ。
そして、同世代の誰もこのことに興味を持とうとすらしないなんて。僕はきっと、生まれてくる時代を間違えてしまったんだ。
(不幸だ……)
心の中でひとりごちて、校舎を出る。
同時に、上着のポケットで通信機が鳴った。
(母さん?)
着信は自宅かららしい。買い物でも頼まれるのかなと思いつつ、電話に出た。
「母さん? どうし……」
「すみません、ラーメン二つ」
「は?」
……思いきり、間違い電話だった。
「だから、ラーメン」
「あの、間違ってますけど」
「えっ?」
「僕は出前の受付ではありません」
さっきまでの怒りの余韻か、思いのほか不機嫌な声になってしまった。
相手もようやく気付いたらしい。すみません、と言ってそそくさと通信を切る。
全く、今日はついてない。
(だけど、妙だな……)
手にした通信機に目を落とす。
《通信モード : 音声通信 発信元 : 自宅》
……その履歴は、どこからどう見ても、自宅からのものだった。
「あっ、いたいた! ウィル~!」
(うわ……)
「もう、先に行かないでよ。見失ったかと思ったじゃない!」
「付いてこないでって言ったよね?」
「出来ない相談」
「迷惑だってば」
「心配しないで、私なら全然大丈夫!」
彼女はやる気満々だ。いくら大好きなノースランド先輩に言いつけられたにしても、断ればまた明日も追いかけてくるつもりなのだろうか。
「……エリカ、そんなに先輩が好きなら、先輩と勉強してきなよ」
「え?」
「その方が君の希望には近いだろう?」
「な、な、な……」
何気なく言った言葉だったが、エリカは、パッと頬を紅潮させて口ごもる。
「そ、そ、そんな、こと……」
ちょっと珍しい反応だなと思って見ていると、彼女は目に涙を溜めて、キッとこちらを睨んで言った。
「出来たら、そうしたいわよっっ!!」
「出来ないことないでしょ」
「出来ないわよ! 先輩、二年の首席だし、ウィルのこと気に入ってるし……!」
「……それって何か関係あるわけ?」
「あるわよ~~っ!!」
話が全く見えないが、大きな目からは、今にも涙がこぼれそうだ。
「うわ、な、何だよ突然……」
ああ、失敗した。
「馬鹿ーっ!!!」
エリカは叫ぶと同時にポロポロ涙をこぼす。
放課後間もない時間、正門近くは人通りも多い。これでは、どこからどう見ても僕がエリカを泣かせているような構図である。
「わ、わかったから、泣かないでよ……」
「泣いてないわよっ! 馬鹿馬鹿大馬鹿っ!」
心なしか、周囲の視線が痛い。さっさと逃げてしまおうか。
「エリカ、ちょ……っと、あっちで話そうよ、ねぇ」
けれど、ここで無視して下校してしまうことが出来ない程度には、僕は善人なのだ。仕方なくエリカの手を引いて門の外まで連れていく。
(何の罰ゲームだよ、これは……)
まるでケンカした恋人同士のようだ。
「全く、突然何をムキになってるのさ」
歩きながら、あっという間にケロッとした顔をしているエリカを睨む。女子というものは、なぜこうも一瞬で泣き出したり、泣きやんだりできるのだろう。
「だって……先輩と私じゃ成績のレベルが違うんだもの」
口を尖らせてエリカは呟く。何だそれは。
「……僕と君だって近くはないと思うけど?」
「うるさいわね、あんたはいいのよ」
「あ、そう……っていうか、先輩命令なんじゃなかったの? 僕と勉強しろって」
「あ……」
どうやら墓穴を掘ったらしい。エリカはハッとして目をそらす。
それから、バツの悪そうな顔で続けた。
「……ウィル、成績いいし。それで先輩に気に入られてるのかもって、思って……あんたなんかに絶対負けたくないし」
言いながら、エリカは上目遣いの恨めしそうな目でこちらをジットリ睨む。
「……一方的にライバル視しないでくれる? 僕は別に先輩とは何でもないし」
「な! 余裕かますってわけ!?」
「はぁ?」
「上等じゃないのっ!」
どこをどう勘違いすればそうなるのか分からないが、とにかく僕が生徒会長に気に入られているのを気にくわないらしい。
エリカは対抗心剥き出しでがっしりと僕の肩を掴んで言い放った。
「化学と数学を教えなさいっ!!」
なかなかに丁重でへりくだったお願いだ。感心するね。
けれど――
「……いいけど」
――検討の結果、諦めることにする。
「やった! ありがと!」
パッと嬉しそうに笑顔を見せるエリカ。よく分からない。
「でも僕、今日は寄りたいところがあるから、先にそっち回っていい?」
「どこ?」
「古本屋」
「また本ん?」
「文句言うなら勉強見るのやめる」
「じょ、冗談よ、冗談っ」
取り繕うように笑って見せるエリカに、はぁとため息をひとつ落として、並んで歩きはじめる。
まぁ、いろいろ言ってはいるけれど、彼女のことは実際嫌いではないし、テスト
勉強ひとつで彼女の恋路(なのか?)の手助けができるなら、それもまた良いだろう。
落葉の並木通り、降り積もったポプラの葉はフカフカの絨毯のようで、踏むと乾いた軽い音がする。上機嫌なエリカと諦めの境地に至った僕は、微妙な距離を取りつつ、街への道を並んで歩いた。
午後の空気は冷たく澄んでいて、空は高く青く、気持ちの良い秋日和だ。
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