第五章 2

 最近、気がついたことがある。

 僕は、和泉紗枝の『裏の顔』と触れ合いすぎて、一緒にいる時間が長すぎて、彼女のことを、すべて知ったような気分になっていた。

 でも、僕は知らない。

 彼女の理由も、彼女のことも。

 僕は、和泉紗枝について何一つ確実な情報を持っていない。



 和泉紗枝。校内きっての優等生。で、美少女。その学力は校内に収まらず、とうとう全国首位にまで上り詰めた。天才児。性格も温厚――これは、学校内での評価でありまた表面上の顔だ。実際どうかは別として。学園のアイドル、といえば大げさだが。成績優秀、運動神経抜群の、温和な美少女。マンガの登場人物のようだ。いつだったか僕は、石井健太と話していて奴の意見をこっぴどく否定したけれど、実際彼女と関わってきたこの数か月を総合すると、実際それは間違っていないようにも思えた。僕から見ても、傍から見ても。

 僕が彼女と親交を結んだのは本当にここ数カ月の話だけれど、彼女自体のことはそれより前から知っていた。名前と顔と、簡単な説明くらいは。でも僕は彼女に対し、周囲よりも興味を湧かせることもなかったし特別に関心を寄せるようなこともなかった。リアリティがなさすぎたのだ。彼女の容姿と、能力と。まるでそのまま、マンガの登場人物が飛び出て来たかのようでもあった。だってそうだろう? 容姿端麗成績優秀運動神経抜群の温和な美少女なんて、そんな完璧な人間がこの乱れた世界に存在すると思うか? 思わない。少なくても、僕は。

(現実感が、ないよなぁ)

 限りなく冬に近い、灰色の空の下。

 青いジャージに身を包み、校庭の隅に腰を置いてひんやりとする風を全身で感じながら僕は、目の前でハンドボールを繰り広げている和泉紗枝の様子を観察する。“目の前で”ではない。男子のコートを挟み、向こう側。同じように青いジャージを羽織った女の子たちに紛れた彼女は、きゃーきゃーという甲高い声を上げながら、野良猫のじゃれ合いのようにして丸いボールの取り合いをしていた。餌を取り合う猿の群れ。もしくは放り込まれた餌に群がる金魚の池。女子に聞かれたら張り倒されそうな呟きを胸に抱き、僕は、長い髪を項の辺りで一つに纏めた和泉紗枝を眺めていた。

 彼女が走り、飛んで、ボールを掴み、左右に飛びまわりゴールを決めるそのたびに長くて黒いその髪はぴょんぴょんぴょんとあっちこっちに跳ね返って宙を舞った。その、僕のものよりは大分細くて柔らかいであろうその髪の毛は、汗をかいて赤くなった彼女の頬にぴったりと張り付いて、時々彼女はそれを鬱陶しそうに掻きあげた。最初、手首の下辺りまで下ろされていたジャージの袖は、時間が過ぎるとともに上げられて、次第に彼女の細い手首が露わになる。よーし、というように舌先で唇を舐めあげて、腰を落としいずれ来るであろう白いボールを待ち構えていた。

(なんだろうな)

 僕のすぐ目の前のコートでは、相変わらず桑原亮二がみんなに煙たがられたり鬱陶しがられたりしながらパスを回し、コートにゴールを決めていた。途中、急なパスを回されてうっかりボールをとりそこなった石井健太が誰かの足につまずいて、顔からこけて鼻血を出した。それはどうでもいいのだが。

(存在感は、あるんだけど)

 僕はひゅーひゅーと風の入るジャージの襟を押さえつつ、地面につけた腰をずらす。同級生のボール遊びを眺めていると、鼻血を出して保健室に行ったはずの石井健太が戻ってきて、僕の隣に着席する。泥だらけになった石井のでかい鼻の穴には丸めたティッシュがねじり込まれていて、まだ血が止まっていないだろうティッシュの先は赤く染まっていた。

 顔を上げたり下げたりしながら、「いてー」と苦々しくいう石井。僕は石井から目を逸らし、校庭を飛び回る和泉に顔を向けて、彼女の髪を見つめたまんま石井に問いかける。

「石井って、二年の時和泉さんと同じクラスだっけ」

 石井健太は上を向いたまま黒目も向けずに

「あー? そうだよー」

 と、どうでもいいような間の抜けた声を出す。僕は和泉紗枝から目を逸らし、鼻を押さえて空を見上げる石井の横顔に視線を移す。

「和泉さんて、東京の学校から転校してきたんだよな」

 僕のどうでもいいような疑問に、石井もまたどうでもよさそうに「そうだよー」と答えた。上を向いているのと鼻にティッシュが詰められているせいで、いつもよりも更に間抜けな声になっているのだが、それはどうでもいい。

「なんで転校してきたか、お前知ってるか?」

 石井は上を向いたまま、きょとんとした瞳を瞬かせ、これまたどうでもいいような口調で「知らない」と言った。そうだよな。

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