第五章
第五章 1
それからまた少し時は流れ、暫くの間空気の抜けた風船のような日々が僕らの前にやってくる。
テレビの中での森江宏樹の騒動がだんだんと落ち着いてきて、提出をしたはずのテスト用紙が僕らの手元に舞い戻り、前回のテストの順位が発表される。三年二組の和泉紗枝は不動の一位を獲得し、僕は予想通り中の上――上の下くらいを獲得し、表の世界を生きるクラスメイト達は順位が一つ下がった上がったと大騒ぎを繰り返し、また一つ二つ昼と夜を越えていった。平和なものだ。ついこの間まで、行方不明の同級生のあれやこれやをわーわーと面白がって検索していたくせに。まぁ、これは僕も人のことは言えないが。
僕達の周りにあった火も次第に鎮火していって、僕はまた、手元に配られたプリントを眺めため息を吐く。三者面談。数か月前にも一度、夏休み直前の暑苦しい時期に行っていたはずだ。担任と、本人と、保護者を加えての最終確認。無駄なことだ。こんなもの、最終的にすべてを決めるのは受験を受ける本人だというのに。
僕は教室の隅にあるごみ箱に丸めたそれを投げ入れて、頬杖をついたまま灰色の空を見上げた。限りなく冬に近い灰色の空にはぼんやりとした雲が浮かび、名前も知らぬ鳥が飛んでいた。
ひとつふたつと夜を超え、昼を迎え、だらけた僕たちの日常はまた些細な変化を迎えることとなる。和泉紗枝がテストで一位を取ったのだ。勉強をすれば点が取れるような幼稚なものではない――いつぞや、日本の中学生の間で一斉に行われた全国模試でトップを取り、日本全国の中学生の頂点に立ったのだ。素晴らしい。そして、そのまま名門進学校である藤華学園女子高等学校へ入学するとばかりに思われていた和泉紗枝があっさりのその推薦枠を捨て、埼玉県の端にある斎東高校へ入学するという意向を決めた。斎東高校――埼玉県勅使河原市に設立する、県立高校。
僕が受験をしようと決めている、その学校だ。
「どういうことだよ」
あと一度気温が下がれば寒さも限界に達するくらい温度の低い第一図書室で僕は、目の前でのんびりとお菓子作りの本を眺める彼女にそれを問う。灯の当たらないこの部屋の温度に耐えれないのだろう――室内だというのに、彼女は指定のコートを羽織り、紅色のマフラーを細い首に巻きつけて、それでもまだ足りないとばかりに肩を縮めている。
彼女は伏せていた睫毛を上げ、黒い瞳を僕の方に向け細い首を傾けた。
「何の話?」
「決まってるじゃないか」
僕はノートにペン先を走らせたまま、教科書に這わせた視線を上げることなく、彼女に言った。この部屋は本当に寒い。冬はともかく夏場だって日が入らないし窓も少ない。天井に付けられている蛍光灯だって掃除をやっていないせいか塵や埃のまみれて明るさが三分の一くらいに減少している。和泉ほどではないが、僕だって学生服の下にちゃっかりとジャージを着用してるんだ。
和泉紗枝はぐいぐいと乱れたらしいマフラーの位置を直し、カラフルなページに添えていたはずの指先を口に当て、うーんと考えるような姿勢で数秒止まる。それから思いついたようにしてぽんと手を叩いてこういった。
「あれは偶然でしょ。マークシートだったから、たまたまいい点が取れたんだよ」
これは多分、例の全国模試のこと。『マークシート』だったから『たまたま』いい点が取れたなんて。そんなこと言われた日には、真面目に毎日二十時間も勉強しているような全国の受験生はたまったもんじゃないだろう。
違うよ、という僕の言葉に和泉紗枝は、「運がよかったんだよ」とにやりと笑った。
「わかんなかったから。全部鉛筆転がして決めたんだよ」
そう言ってころころと無邪気に笑う彼女に対し、僕はおいおいと眉を寄せる。
「鉛筆転がしたからってたまたま全国首位が取れるわけないじゃん」
僕の言葉に、和泉紗枝はまた歯を見せる。それから白い指先でカラーページをぺらりと捲った。
「セイジだって、そんな悪い点でもなかったでしょ?」
「そんなにいいってほどでもなかったけどね」
「うそつき。国語で満点取ったくせに」
「全国も校内も首位を獲ったような人間と比較されても困る」
僕の嫌味に、彼女はけたけたと笑い声をあげた。セイジも結構言うねーと言って。僕は理解できない彼女の脳に眉を寄せて、それから意味のわからない英単語から視線をあげて彼女の顔をじっと見る。
「そうじゃなくて」
「なに?」
「志望校、なんで変えたの?」
それまで無邪気に笑っていた彼女の表情が微妙に変わる。きらきらと水晶玉のように光を湛えていた瞳の奥に、深い深い闇の色を浮かばせる。それは多分、とてもとても些細な変化だ。河内麻利や石井健太ではわからないような――それ以前に、彼女らの前では見せないであろう本当に些細な変化。
僕はその変化を見逃さない。ペンの先を躍らせたまま、覗くようにして彼女の顔をじっと見る。
「和泉さんだったら簡単でしょ? わざわざ二流高校なんかに変えなくても、他に名 門私立の進学校なんてたくさんあるし。藤華女子じゃなくてもさ、花丘学園だとか芝高だとか和泉さんの学力に見合うようなところ、いっぱいあるでしょ?」
なんでわざわざ、名門私立から田舎の二流高校に鞍替えをしたのか。
これは今、ごく一部でちょこちょこと繰り広げられている疑問であり、教師達の間でも議論のある話題の一つだ。ミステリー。森江宏樹の失踪事件の次は、和泉紗枝による急な志望校の変更。しかも見事なランクダウン。みんな暇だよなぁなど思いつつも、僕だって今日、石井健太からその話を聞いた時は流石に目玉が落ちそうになった。
僕は視線を上に向けたり下に向けたりしながら彼女の顔をノートの付箋を交互に見て、和泉紗枝の回答を待つ。塵の積もった古い本が沢山並んだ本棚の上の古い時計が、カチカチカチカチと音を鳴らす。僕はノートの上を走らせるペンを休めない。彼女は紙の上に並べられた色とりどりのケーキを見つめ、睫毛を伏せ、なにかを待つようにして黙り込んでいる。
僕は発せられることのない彼女の言葉を待ちながら、いつだったかそのような話を聞いたかもしれないという曖昧な記憶を脳の奥から掘り起こす。
あれはいつだっただろうか。さほど前ではない。けど、最近でもない。そんなに暖かいわけでもないけれど、今よりずっと寒くない。まだ、夕焼けの色が今よりずっと鮮やかだった秋の頃だ――
と、そこまで記憶を思い返したところで、それまで黙りこんでいた和泉紗枝がぼんやりと言葉を発した。
「セイジは、なんで東高受けようと思ったの?」
なんで? なんでというと、それほど深い意味があるわけではない。周りのやつも大抵そうだ。たかだが十五歳の中学生で、やりたいことや将来の道が決まっているような奴は滅多にいないだろう。だた単純に高校でもサッカーがしたいだとかバスケがしたいだとか、そういった奴は何人かいるだろうが。桑原亮二はその典型だ。あいつは鳥並みの脳みそしかないくせに、サッカーをやりたい一心で都内の私立を受けるんだ。
「理由なんてないよ。近かったから」
「それだけ?」
「うん」
斎東高校は県内でも古株の進学校であり県立高だ。それなりに学力も高く評価もあるので、ある程度勉強のできるやつらは見栄もあって受ける奴が多い。僕だって、見栄がないといえば嘘になる。でも僕は知っている。本当に頭のいいやつらは、こんな二流の県立高なんかを受験をしたりしない。
僕の言葉に、彼女はふっと目元を細め微笑した。それから、もう一枚お菓子のページをぺらりと捲り、
「私も同じ。藤華女子、うちから一時間くらいかかるし。東高だったら自転車でいけるから。特に行きたい理由もないのに、わざわざ私立に行くことない」
それはある意味正論だ。特別に理由もないくせに、やりたくないことをやる必要は一切ない。でも僕には、納得できない。この、目の前でお菓子の本を眺める殺人少女には、もっともっと違う理由があるように思えてならなかった。
でも僕は、それを言わない。視線だけでそれを訴えて、僕の思いに気がついた彼女がふっと笑う。
「納得できない?」
「……」
「疑い深いなぁ、セイジは」
目を細め、困ったようにくすくすと笑う。彼女は薄くてでかいお菓子の本の表紙を閉じると、肘をついて両手を組み、その部分に顎を乗せて顔を傾けた。
「じゃあこういうのはどう? 『セイジと同じ高校へ行きたいの』」
今思いついたというようなその言葉に、僕はげんなりと眉を寄せる。なんだそれ。君は少女マンガのヒロインか。到底理解できない感情だ。
「……俺としては逆に、強力なライバルが増えたって感じで困るんだけど」
「セイジだったら楽勝でしょ?」
「自分の力、あんまり見くびんない方がいいよ」
呟くようにいった僕の言葉は、図書室の壁に当たり四方に散って消えてしまった。 その、呟きの欠片を受け取った和泉紗枝は、面白そうにくすくすと笑っていた。
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