報告日誌 2 名前
これは、ジャスティーがまだ養成学校を出てすぐ後のことである。
「もしかしてラトリーくん?」
突如何者かの名前が呼ばれた。
駅の前で人が多いので、最初は雑音に混じったこの呼び掛けが、こちらに向けてのものだと確信をもてなかったが、完全にそれを否定できるだけの理由も見つからなかった。
声がした方をみると、栗色の長髪をした男がこちらを見ていた。
様子を見るに男の目標はこちらに向いていることに間違いないだろう。
しかし、ジャスティーは首を傾げた。
ラトリー?
ジャスティーには、その名前は聞き覚えがなかった。
ラトリーといえば、多方は人の姓を示すものだろう。ジャスティーの姓はヴァレッタである。まず自分が呼ばれているのではない。
だとすれば、この「ラトリー」が示しているのは…………。
「お?上田じゃん。」
ちょうどジャスティーの隣にいる人物。
今日は、いつものあのセンスを問われるTシャツとメガネは身につけておらず、黒のテーラードにスラックスといった、だいぶかっちりとしている格好であった。
いつもあそこで見る、ボサボサしたなんの手入れもされてないくすんだ茶髪も今日はワックスで緩くまとめてある。
はたしてこの姿を見せて、この人物をKPだとすんなり信じる者は何人いるだろうか。
ちなみにジャスティーは信じられなかった。
「いやぁ、まさかこんなところで会うなんてな。久しぶり。前あったのいつだった?」
KPはとくに動じることなく、自然な流れで己のことを「ラトリー」と呼ぶ男と話し始めた。
上田と呼ばれた男は、嬉しそうに口を開いた。
「さぁ、前あったのは…………ちょうどアパート連続傷害事件の時以来かも。」
「もうそんなに前かぁ。あの事件は思ったよりすんなりいったな。あれからどうだ?上田管轄変わっただろ?なんか大きな事件とかはこっちでは聞かないけど。」
「俺は基本、検死だからだいたい関わるのは殺人レベルだよ。だから聞いてもあんま参考にならないとは思うけど。」
しばらくそうして、上田と思われる男と軽く談笑した後、彼とは別れた。
ほんの三分程の出来事であった。
彼がこちらに向かって手を振り、その後向けた背中がある程度小さくなるまで二人で見送っていた。
「………知り合いですか?」
ジャスティーがぼそりとKPに尋ねた。この頃のジャスティーはまだKPに対して敬語であった。
彼の目は未だ上田が消えていった方を向いている。
「そうだ。あいつは警察の人間で、昔一緒に仕事したりしてたな。管轄が変わってからは全然あってなかったけど。」
「あなた、警察でも仕事してたんですか。」
「してた、じゃなくて今も警察みたいなもんだよ。ちょっと特殊なやつの、な。」
KPはいつものように、ししっと笑う。
たしかに、国家特殊捜査班もとい「NSIV」は国の治安を確立するために、日々暗躍する組織である。治安維持のためには無謀な操作や非難されそうな調査をも危険を省みず行う。
そんな組織にKPは身を置いていた。
ジャスティーも諜報を行う身ではあるものの、NSIVほど踏み入ったことを行うことはほとんどなかった。
今日も単に二人でどこかへふらふらと出かけた訳では無い。これから二人は、違法営業が疑われる風俗店への潜入調査を控えていた。
既に事前に店員として捜査員を一人送り込んである。それで事前状況の把握、そして今回は決定的な証拠を抑え、それを摘発に繋げるのが目的である。
潜入調査なので、ジャスティーの格好も今日はその店の雰囲気に合うように、いつものような白黒のモノトーンかよりは派手で、崩れている。趣味でもないのにつけている、十字架を模したネックレスが痒かった。
これは服も含めて、KPの同僚であるグランデが一式用意してくれたものである。
さすがと言ったところか、顔と同じく雰囲気も薄い自分も鏡を見た時、程よく、いくらかいかつくなっているような気がした。
二人はその例の店へと向かうため、駅から出た。場所はそんなに遠くはなかったはずである。
ジャスティーは気づかないうちに、若干いつもよりピリピリとしながら歩いていたようであった。それは前を歩くKPにも伝わっていたらしい。
「そんなにピリピリしなくていいよ。あくまでも今日は「客」として入るんだからな。」
自覚してなかったので、ジャスティーは少し驚いたような反応をした。
彼は思った通りだと、振り返ってにやりと笑った。
「緊張してるんだよな。初めての実践だし、風俗店ってのも初めてだろ、君。」
「まあ………たしかに。キャバクラとかも行ったことないです。もっとこう、工場とかの潜入調査とか想像してました。」
KPが、また笑う。本当によく笑う。
「だいたいの潜入調査とかは風俗店とかの方が圧倒的に多いし、その他はは麻薬取引現場とかの調査が多いな。工場とかへの潜入は君の所へはそうそう入ってこない。来た場合はだいたい俺たちの方に回ってくる仕組みだ。」
こういうのはかなり長期の潜入になると、最後に付け加えた。
そして、二人はまた歩き始めた。駅前の雑踏が緩和されていき、大きな通りを逸れて、ある程度の人通りとなってきた。
店の看板を見てみると、メイドカフェやホストクラブなんかの店が増えていた。
今回ジャスティーと共に行動することとなったKPとは、養成学校にいた時も時折顔を合わせていた。既に彼はNSIVの構成員であり、ジャスティーに護衛術の指導を軽く行ったりしていた。
その時、彼から自分のことを「KP」と呼んでくれと言っていたのを思い出した。
「そう言えば、あなた「ラトリー」って呼ばれてましたけど。」
それを口にした時、KPの動きが止まった。それでもジャスティーは話を続けた。
「あれがあなたの「名前」ですか?」
直ぐにKPは答えなかった。肯定も、否定もしなかった。
まばらな人の声が聞こえてくる。
しばらくして、彼はこちらを振り返った。
「「オルバード・ラトリー」…………それが、あいつの中での俺の名前だ。」
「あの人の中での?…………ということは。」
「そう、「偽名」だよ。」
ふと、KPが手を出して指を折りながら、何かを数え始めた。それと共に彼の口からこんな言葉が漏れ出てきた。
「オルバード・ラトリー、ライラック・ジーラ、平林ユウキ、寺島ジロウ、ルイ・チェン、尾崎コウジ、光田ガク、ユカリ・スミス………だいたい、今思い出せるのはこのくらいだな。」
これは現在進行形でつかっているので、ぱっと直ぐに出てきた。本当はもっとあるかもしれない。いや、使わなくなったのもあるから、実際はどうだったか。
「そんなにあるんですか。」
ジャスティーの顔には驚きの表情ができていた。滅多に顔に感情を出さない彼にしては珍しいことだった。
それに対して、KPはまたにやりと笑っていた。
「それに加えて、僕に名乗ってるのも確実に本名ではないですよね。KPなんて。」
「そうだな、アルファベット二文字だもんな。」
「偽名、いくつあるんですか?」
「わかんね。使わなくなったのもあるし。」
「今からはなんと呼んだ方がいいですか?さすがにKPはまずいでしょ。」
「うーん………べつに、「お前」とか、「あんた」とかでいいよ。」
「名前ですらないとは…。けど、考えるのもめんどくさいんでそれにします。」
ふとKPは携帯端末を取り出して、時刻を確認した。ちょうど午後4時を回ったくらいだ。例の店の開店時刻でもある。そんなに駆け込む必要も無いので余裕を持って行けば問題ないだろう。むしろ客が少ない時間に行くと、その中に紛れ込むことが出来ないので操作は難しくなる。
画面に表示されている時刻を眺めながら、KPがこれからの予定を考えていると、ジャスティーがこんなことを口にしていた。
「そんなに名前持ってて、大丈夫ですか?」
KPの思考は直ぐにそちらに飛び移った。大丈夫かとは、聞かれてことがない訳では無い。
「ん?名前の管理のこと?まあ、それはそもそもそんな同時に別々の目標と会うことはそうそうないし、同じ場で別々の名前が呼ばれるってとこに関しては大丈夫だろうけど。」
「そういうことじゃありません。」
そういうことではない。まさかそんな返しがくるとはこれはKPも予想してなかった。
一体どういうことかと、口に出す前にジャスティーが話し始めた。
「あなた名前、というのはどんな風におもってます?………単純にその物体を識別するための記号。それも、間違いではないと思いますけど僕の場合はもっと大きな役割を持ってると思ってます。」
ジャスティーの声に感情は感じられなかった。だが、いつもの声とは違う何か意味を含んだもののように聞こえた。
「言語を勉強している中で、名前というのが出てこないことってのは絶対ないです。これだけは文法構造がちがえど、文字の形がちがえど、言語の全てに言えると僕は確信してます。しかし、これを逆に言えば、「名前」が無ければ言語は成立しないとも言っているように僕は聞こえるんです。名前がなくともその物体を描写することは可能ですが、描写には解釈が伴い、全てのその結果が同じになるとは思えませんし、また、その物体を自分のなかで概念を確かに形作ることは難しくなります。」
「へぇ………君は重度の言語オタクってのを聞いたことあるけど本当にそうらしいね。」
「勿体ない言葉ですね。」
KPが軽口を叩くも、ジャスティーの表情は変わらなかった。
「だから、「名前」というのはその物体がその物体をとしての存在を確立させるための要素だと僕は思ってます。林檎だって「りんご」と言ってしまえば、大きな解釈違いもなく大体は通じるでしょう。林檎がわからないなら「apple」でも通すことができます。………とくに人間の場合、「名前」が果たす役割はより大きなものになる。自分からも、他者からも、僕が「僕」であるためには「名前」を使わないといけません。ただ一つの自分を作るジャスティー・ヴァレッタという名前を。」
ジャスティーはここで一息ついて、KPの方を見た。KPは腕を組んで黙ってそれを見ている。
「たしかに、その名前を呼ぶ側からしたらあなたは、さっきの人のように「オルバード・ラトリー」ということになります。けど、あなたはどうです?ある人からは「オルバード・ラトリー」僕からは「KP」、はたまた別の人物からは「光田ガク」。そんなにも自分のことを示す「名前」があるとわからなくなったりしません?自分は「何か」って…………。」
ここで、ジャスティーの話は終わった。しばらくKPはジャスティーを見たまま動かなかった。
「なるほど、ね…………。」
そう呟いてから、KPが言った。
「たしかに、名前は自分が、自分であるための必要なものってのはよく理解できる。けど俺の場合、そうであっては都合が悪いことがあるんだ。俺は常に「何か」でないと生きていけない。能力だって、決まった形式を持たない「何か」だ。自分が自分だと、他者に認知されてしまうと困る。……………そういったやつになっちまったんだよ。」
ここまでほぼ、一息であった。
最後の方こそいつもの飄々としたKPであったが、彼らしくなく、どこか冷え冷えとして神妙なものであった。
そして、KPは笑う。
「まあ、安心しなよ。別に本名は捨てた訳では無いから、さ。」
すっかりいつもの調子だ。不自然な程に。
彼はひらりと手を振り、にやりと笑うと、また振り返って歩き始めた。
ジャスティーは表向きではどう思っているのかわからない、なんの感情もない表情で彼の背中を見ていたが、やがてその背中を追いかけていった。
「……俺は、「俺」だよ。なあ…………。」
KPがぼそりと呟いたそれは小さすぎて、自分にしか聞こえてなかった。
はたして、自分の「名前」を最後に呼ばれたのは、いつだったか。
それも忘れてしまっていた。
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