まのいし松里抄
しゃくさんしん
朝の空 女の肌
【あらすじ】母と妹を殺した男は、死の前に、一人の売春婦を買う。
彼は母と妹を殺した夜、まのいし松里に足を踏み入れた。二人も殺したのだから、彼は死刑を覚悟して、最期の女を求めた。全てが浄化されてゆくこの時代に、ぽつんと取り残された、汚辱にまみれた淫らな街を、訪れた。
いくつか、馴染みの店や女はあったが、彼は見知らぬソープランドで、店の男に任せた女を買った。
彼が母と妹を殺したのは、二人が愛情に狂っていたからである。母は、二十四になる彼に靴下を履かせようとするのが常であった。対して、十五の妹は、彼に靴下を履かせてもらえないと、きまって泣き喚いた。
そんな二人を身内にもつ彼は、愛情が何たるかを、ほとんど知らない男であった。
誠にこの世は悪い巡り合わせばかりで、愛に飢えた者ならば、この母と妹を、求められるがままに愛したであろうに、彼は二人の愛を鎖と感じて、その末の惨殺であった。
無論、彼とて獣でない。だからこそ、二十四まで、包丁を振り回すのを耐えたのである。愛情が自分を縛るのを、憎しみながら、いつも有難がってもいた。恵みと受け取ろうと思い続けてきた。
犯行は突然であった。母の甘やかす声と、妹の甘える声が、偶然に重なった。それだけだった。それで彼の心は破れたのである。空気の充満した風船が破裂するがごとく、その偶然はきっかけに過ぎなくて、彼を犯行に駆り立てたのは二十四年の歳月であり、数え切れぬほど、気が遠くなるほど繰り返された、母と妹の高い声である。
彼が、最期の相手に、無縁の女を求めたのも、そのためであった。愛に疲れ果てた彼だから、愛の余地のない女が欲しかった。娼婦という存在は、とりわけ初めて会うような娼婦というのは、その欲望に、うってつけの玩具であるわけだ。
彼が個室で待っていると、女がすぐに来た。表情の乏しい、青白い顔をした女である。
女は、ベッドに腰かける彼に、目礼した。挨拶の言葉はなく、軽い、曖昧な挨拶であった。
彼は、気を悪くするより、むしろ、好感を持った。
薄情な肉体を求めてここに来たのだから、見るからに薄情な女が来たのを喜ぶのは、当然である。しかし、彼が微笑んだのは、それだけの理由ではない。女の目礼の美しさであった。それは、あたたかくもなく、しかし冷徹な鋭さもなかった。ぼんやりと、ただそうするのが自然だからしているというような、気のなさである。孤児が、思いがけず母に出会って、よろこぶよりも気まずかるようである。この子は少し頭が足りないのだろうかと、彼は疑った。
風呂場に案内された彼は、すぐに、自らの犯してきた罪を告白した。背中を流されている時であった。つながりの薄い、路傍の誰かに打ち明けて、気を軽くしたかった。面と向かい合って告白するのは怖ろしかったから、背中に女の掌の柔らかさを感じながら口を開いたのである。
「俺が、今夜なにをしてきたか、わかるか」
彼の言葉に、女ははじめて、声を出した。夢をみているような、甘い、幼い、美しい声が彼の強張った耳を染めた。
「お仕事ですか」
「いいや」
男は、背中の感触と声の耳障りとに深い慰安をおぼえて、両の眼を閉じながら、首を横に振った。
「きみがいま洗っている男は、その男の腕は、さっき、人を刺し殺してきたんだ」
「まあ」
女はくすくす笑った。男はむきになるようで、
「冗談じゃない」
「冗談だなんて思ってないです」
「じゃあどうして笑う」
「だって、人を殺してきたお客さんなんて、はじめてなんだもん」
彼は、女が、信じているか、嘘と思ってからかっているか、訝った。鏡越しに、女の顔を見つめた。
そこには、やはり、青白い顔があった。風呂場の湯気にぬくもらないのだろうか。まだ、微笑んでいるその面差しは、ふざけているようではなかった。彼女の言う通り、殺してきた、ということを信じていて、それを面白がるようである。まさか、と彼は思ったが、子どものようにきらめく女の眼に、虫の生死を弄んで遊ぶような無邪気さが、ないでもなかった。
「俺が怖ろしくないのか」
彼が問うと、女は至極なにげなく答えた。
「怖ろしいなんて、そんなこと……。あたしも殺してほしいくらいなのに」
やわらかいままの声色だった。声に似合わぬ、あやしい言葉に、男は、はっとして、今度は振り返り、鏡越しでなく直接に女の顔をまじまじと見た。女はあどけないままだった。彼の背に、泡にまみれた貧しい胸を、押し当てようとしていた。
彼は、身を翻して、女に覆いかぶさった。女はきょとんとして、怖ろしがるでも、媚びるでもなかった。
「殺してほしいのか」
「そう言われると困っちゃうけど」
「なんだ、戯言か?」
「そうでもないけど。生きてるのもつまんないし、殺してってすがりつくのも、馬鹿みたい」
「生きても死んでもいいのか」
「あんた、殺してきたんでしょ? あたしも殺してよ。ついでじゃない」
この女は、ついでで、戯れで、殺されたいと望むらしい。男は、殺すべきか、生かすべきか、戸惑った。殺す理由はないが、生かす理由も見当たらない。望むのなら、望まれるがまま、殺せばよいのだろうか。
しかし、とにかく、交わりたかった。生かすべきか殺すべきかは分からないが、この女のなげやりさが、美しいことはたしかであった。
すぐに、殺すなどという思いは、男から消え失せた。
彼は、女体というものが、かくも無感動であり得ることを、はじめて知ったのだった。よろこびの欠落した肉体であるらしかった。それを隠そうとも、媚態を繕おうとも、しなかった。
気の抜けたような触れあいの後に、身体の関節の緩むような疲れのなかで、彼は信じられぬほど安らかであった。
つめたい救いだった。
そういえば、これまで女を抱いた後は、いつも鬱陶しい靄に肉の底まで染められるようであったと、彼は今の清らかな気分によって、かえって思い出されてくるのだった。
「きみは、殺すまでもない」
腕の中で、つまらなそうな顔をして髪を弄んでいる女に、彼は言った。
「殺さずとも、死んでいるみたいなものだ」
「そう。それもそうかも」
女は、こちらを見もせずに、素っ気なく答えた。それから、淡いあくびを、つづけて二つした。ついでに殺してくれなどとせがんだことも、忘れているかに見えた。
彼は女の言葉があまりに力ないので、彼女の肉体の虚しい光に胸をつらぬかれたのが馬鹿々々しいようで、軽やかに笑った。爽やかな笑いだった。全てがくだらないような、そんな、快いさみしさだった。
女も、つられたのか、ころころと笑いだした。わけもわからずというような無知の声であった。
二人は、それから、しばらく笑った。
男は店を出た。
空が、果てしなく、朝の予感に青く移りゆきつつある。
ふと、女の肌を想った。
空の青の静けさに、乾いた女の肌を、重ねて見るのだった。
女の肌の連想が、母と妹の、血まみれの肌へ繋がった。惨たらしい肌の裂け目から、鮮血が溶岩のようにとめどなく流れる。妹の、肋骨と肋骨のわずかな間隔、肉の厚い太腿、華やかな化粧に色めいた唇と頬……。母の肩から喉への筋、薄くなりつつある髪の垂れた額……。それらの部位に、暗い裂け目ができて、血が流れる。
彼の脳裏に流れる血は、しかし、いつしか、霧のように儚く薄らいで、やがて、女の青白い肌となった。
母と妹の死が、生きながら死んでいるような女体に、溶けていくのである。
彼は、人のいない、涸れた屍のような街を、歩いた。
今日のことを、あの女は思い出すだろうか、と思った。殺人者に身を売った夜を、彼女は思い出すだろうか。
自分は、首を吊る日、女を思い出すだだろうか。母や妹よりも、あの女をこそ、思い出すだろうか。
しかし、思い出したとて、なんだろう。
自分は死ぬのだ。
あの女は、もはや死んでいるのだ。
彼は、女と、母と、妹の、それぞれの肌で胸を彩った。しかしすぐに、すべてが、あの女の肌に飲みこまれた。彼は女の虚ろな肌にのみつくされるようだった。
空のせいかもしれなかった。ついさっきまでの青が、白へ、変わってゆく。それが女の肌を彼の眼に咲かせるのだろうか。
「みんな死ぬ。ああ、死ぬんだ。まるで、生きていたことが、夢だったみたいに」
彼は、刻々とすがたを変える空を仰ぎながら、ひとり呟いた。
頭が、すうっと、澄んでくるようだった。
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