第50話 浸食


 少年の写し身が出現したのを最後に、化生の通報はぱったりと途絶えた。

 いつもよりは早いが、おそらくあれが今月最後の化生だったのだろう。アイリーデでは月が満ちると同時に巫の力が増していき、化生の出現が抑えられる。

 結果としてその間は、化生斬りも休みになるか、他の自警団員と同じ仕事をするかだ。当然後者を選んでいるシシュは、日の落ちたばかりの街を一通り見回ると、夕食を取る為いったん宿舎に戻ろうとした。

 そこを顔見知りの男に呼び止められる。

「やあ、お元気でしたか」

 愛想のよい笑顔で挨拶してくる着物姿の男は、同じ化生斬りであるネレイだ。何を考えているのかよく分からない相手に、シシュは「特に変わりは」と淡泊に返した。

 宿舎へと続く暗い道を眺めたネレイは、色とりどりの灯りが溢れる通りを振り返る。

「もうお帰りですか。街の本分はこれからでしょうに」

「食事を終えたらもう少し巡回するつもりです」

「なら、ちょうどいい。私と夕食をご一緒しませんか?」

 ―――― 疲れそうだから一人がいい。

 と思ったシシュだが、まさかそう正直にも言えない。それに相手から言ってくるのだから、何かしら聞きたいことがあるのかもしれない。シシュは諦めて頷く。

「分かりました。そう長い時間でなくてよければ」

「勿論です! じゃあ行きましょう」

 ずんずんと歩き出すネレイは、何が楽しいのか鼻歌を歌っている。陽気な様子はその辺りの酔漢といい勝負だ。シシュは呆れて、だが何を言う気にもなれず男の後をついていった。妓館や飲み屋が軒を連ねる通りを歩いていく。

 ネレイは建物の壁を染める赤い灯りを見やって笑った。

「華やかな眺めですな。もう少し大人しくてもいいでしょうが」

「享楽街だから仕方ないのでしょう」

 堅物と皆に言われるシシュでも、それくらいのことは弁えている。街にはそれぞれの歴史と文化があるのだ。アイリーデの空気は中でも特に古い由来を持つもので、簡単に変わってしまうようなものでもない。シシュはいつもより幾分暗い印象を夜の街並みに抱いた。

 ネレイは二階の窓から身を乗り出している娼妓に微笑みかけると、腰に佩いている刀を手で叩く。

「しかし、呼ばれて来てはみたものの、意外と化生に出くわさぬものですな。実体があるというから、かなり用心しているのですが」

「月が満ちれば化生は出なくなるのです。また半月を欠く頃には通報も増えるでしょう」

「それまでの間、何をしているか迷いますね」

 おどけているのかネレイの戯れ言に、シシュは何も返さなかった。


 やがて先を行く男は明るい通りから外れ、提灯の明かりが点々と繋ぐ細い道へと入る。右に雑木林が見えてきた頃、シシュは相手が何処に行くつもりなのか悟った。道の先に半月の提灯が見えてくる。

 ちょうど客が帰るところであったらしい。二人の老人を門先に出て見送っていたサァリは、ネレイに気づくと一瞬表情を硬化させた。だがそれは、陰影の加減でしかなかったようにすぐに嬉しそうな笑顔へと変わる。

「今日はどうなさったのです?」

「先輩と夕食を頂きに来たんですよ」

 ネレイがそう言って一歩横に退くと、サァリはそこで初めてシシュの存在に気づいたらしい。まず驚いて、次に困惑の表情を見せた。

「シシュ、いらっしゃい」

「仕事中に悪い」

 いつものように返すと、サァリは少しだけほっと目元を緩めたように思えた。だがそれは彼の気のせいかもしれない。少なくとも提灯に照らされる彼女の貌には一分の曇りもなかった。

 サァリは下女を呼びつけて何事かを指示すると二人に笑いかける。

「どうぞ。ご案内いたします」

 洗練された所作で踵を返す少女の隣に、ネレイは当然のように並んだ。手を伸ばして彼女の頭をぐりぐりと撫でる。

 サァリはそれに困ったような笑顔を見せたが、不快そうではなかった。むしろはにかむ彼女は嬉しそうでもあり、親しげな空気にシシュは唖然とする。

 一体いつの間にそれ程仲良くなったというのか。少なくともシシュは彼女が同様に接する人間を一人しか知らない。彼女の血縁である兄だ。

 上がり口に座ったネレイは、青年が立ち尽くしているのに気づいて怪訝な顔になる。

「どうしました?」

「あ……いや、別に」

 ―――― 何も驚くことはないはずだ。

 サァリは化生斬りから「親しくしてくれ」と言われればそれに応える。シシュもそうして客扱いを免れているのだ。

 だから人懐こいネレイが彼女と打ち解けていてもおかしくはない。彼は知らぬうちに自分が思い上がっていた気がして恥ずかしくなった。

「何なんだ、まったく……」

 口の中で呟いて、青年は二人の後を追う。

 ネレイと談笑しながら廊下の先を行くサァリは、その途中一度だけ彼を振り返った。

 微笑を浮かべたままの彼女はけれど何処か不安げで、シシュはそんな風に見てしまう自分に少しうんざりしたのだ。



 サァリが彼らを通したのは主の間だった。

 勝手知ったる様子で座るネレイに、シシュは何かを思わなくもなかったが、彼は自身の感情を黙殺して食事に集中した。

 酒を飲んで上機嫌の男は、アイリーデで見聞きしたことについて嬉々として話題にするが、話は弾まない。

 ―――― もしかして聞きたいことなど何もなく、単に世間話をしたいから誘われたのではないか。

 そうシシュが気づく頃には、食事はほとんど終わりかけていた。

 お茶を持ってきたサァリを、ネレイはにこにこ笑って手招きする。

「サァリ、今色々話していたんだよ」

「あら、何のお話です?」

「この街について。いいところも悪いところも」

 シシュの前にお茶を置いたサァリは、ネレイの隣に座りなおすと男の盃に酒を注ぐ。楽しそうにその話を聞いて男を見つめる横顔は、シシュのよく知るものでありながら、まったく知らない娼妓のようにも見えた。

 ネレイは時折彼女の髪に触れ、終始機嫌がよさそうに語っていく。

「だからね、妓館という存在が悪いわけじゃないけど、それを当然と思ってしまうのはどうかな。選べるならきっと別の道を選んだ人だっているだろう。そういう思考をさせないこの街の空気は、あまりよくないよ。みんな異常を当然と思い込まされている」

「ええ。確かに仰る通りです」

 陶然と首肯する少女に、シシュはついに耐え切れなくなって茶碗を置いた。軍刀を手に取り立ち上がる。

「途中で申し訳ないが、見回りがあるので失礼します」

「あれ、もうそんな時間ですか?」

 暢気な声を上げる男は席を立とうとはしない。代わりにサァリが腰を上げかけたが、シシュは手振りだけでそれを留めた。挨拶もそこそこに部屋を出る。言いようのない気分の悪さが喉下まで来ていて、一刻も早く月白を出てしまいたかった。


 足早に廊下を行く青年に、途中すれ違った下女がぎょっとした目を向ける。しかし彼はそれにも気づかず、己の中の淀みを意識から消し去ろうとしていた。

 ―――― 自分だけが特別と思っていた訳ではない。

 ただ王都とは気風がまったく違うこの街で、屈託なく接してくる少女は確かに落ち着ける一つの居場所でもあったのだ。

 色々と無茶を押し付けられてばかりいるが、彼女とその兄は彼がアイリーデで親しみを覚える数少ない相手だ。

 そこを見知らぬ他人に突然踏み入られて気分が悪い―――― そう感じる自分の狭量さが腹立たしくて、シシュは舌打ちしたくなった。

「馬鹿馬鹿しい……巫にも客を選ぶ権利はあるだろうに」

 彼女が誰かと親しくしていたからといって、文句を言う筋合いはない。

 それを確認する為に口にした言葉は、何故かシシュの気分をますます悪化させた。

 上がり口についた彼は、下女から靴を受け取ってそれを履く。さっさと立ち去ろうとした時、しかし女の声が背後からかかった。

「お待ちくださいな」

 振り返るとそこには見知った娼妓が立っている。トーマの恋人であるイーシアは、上がり口に膝をつくと四角い布包みをシシュに差し出した。

 そう厚くはないそれを、シシュは眉を顰めて注視する。

「これは?」

「主から、あなた様がいらしたら渡して欲しいと、少し前に預かっておりました」

「サァリーディが?」

 ―――― 何だかおかしな話だ。

 何か渡したいものがあるなら、サァリが直接渡せばいい。先程までも顔をあわせていたのだ。そうでなくとも館から出て宿舎に来てもいい。月が満ちている間、シシュは滅多に月白には来ないのだから。にもかかわらず何故イーシアに預けるなどということをするのか。

 疑問に思いながらもシシュは包みを受け取る。裏返してみると、布の合わせ目には筆書きで何かの呪が書かれていた。

 封印されているとしか思えない包みに、シシュは不可解さを募らせる。

「これは開けてもいいものなのか?」

「帰ったら開けて欲しいと、言付けられました」

「……分かった」

 よくは分からないが、他には見られたくないものらしい。シシュは布包みを小脇に抱えた。

 サァリが見送りにくる気配はない。そのことを考えないようにしようと思いつつ意識してしまったシシュは、代わりにイーシアに問う。

「新しい化生斬りは、よく月白に来るのか?」

 本当はもっと別のことを聞きたかった問いに、女は微笑んで頷く。

「ええ。感じのよい方ですわね。トーマもよくそう言っています」

 それを聞いたシシュは、内心の嘆息を禁じえなかった。



 荷物がある為、見回りを諦めて部屋に帰ってきたシシュは、受け取った布包みを卓の上で開けてみた。何重にもなっている布を開いて、中を確かめる。

「これは……帳面か」

 三冊あるそれらをぱらぱらとめくると、中は手書きである。内容からして巫の術を書き留めたもののようだ。

 シシュは以前サァリが、蔵から持ってきた手記を読んでいると言っていたことを思い出した。

「何でこれを俺に寄越すんだ」

 事情を説明する手紙の類でもあるかと思いきやそれもない。

 シシュは元通り帳面を包みなおそうとして、固い感触に気づいた。一番下の一冊の端から銀色のものがはみ出ている。

 摘んで引き出してみると、それはいつもサァリが左手に嵌めている腕輪だった。本来なら力を制限する為に彼女がつけているものが、何故ここに紛れているのか、まったく意味が分からない。

 シシュはしばらく腕輪を手に考えたが、結局帳面と共にそれを包みなおしてしまうと窓際の文机に置いた。

 明日月白に行って理由を聞けばいいとは思ったが、どうにも気が進まなかった。



 床に入っていたにもかかわらず怪しい物音にすぐ気づいたのは、眠りが浅かったせいだ。

 断続的に嫌な夢を見ていたシシュは、聞こえる音が現実のものであると気づくと、息を殺して横に手を伸ばす。そこにあった軍刀を取ろうとして―――― しかし指は、ひんやりとした柔らかいものに触れた。

 なんであるのか考える間もなく、隣にそれが滑り込んでくる。

「や、やっと出られた……もうやだ」

 ぐすぐすとべそをかいている声。縮こまって震えているそれがなんだか分かったシシュは、一瞬の後に飛び起きる。

「サァリーディ!?」

 月光が差し込む部屋。白い敷布の上で膝を抱えている少女は、恨みがましい潤んだ目で青年を見上げたのだった。

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