夏休みを利用して、異世界にやって来ました
うお
プロローグ
待ちに待った夏休み。
この俺、
手には母さんが早起きして作ってくれた弁当の包みを握りしめて。
――異世界にやって来た。
「うん、いい感じにファンタジーな異世界だ」
大通りの交差点。中心の泉からはこんこんと澄んだ水が湧き出し、その周りを多くの人々が行き交っている。
短い羽の生えたでっかいトカゲみたいなのが引く荷馬車がガラガラと音を立てて通り過ぎていく。バラック作りの屋台では謎の石から青い炎を出し、見知らぬ料理を作っている人がいる。
舗装されていない道路から立ち上る砂の匂い、嗅いだことのない香辛料の匂い。
その分かりやすくファンタジーな異世界ぶりに満足しつつ、まずは異世界での第一歩として。
俺は泉の縁石に腰掛けると、母さんが早起きして作ってくれた弁当を開けることにした。
「おお、豪華だな」
弁当のラインナップは、昨日の残りのポテトサラダに、一週間に一度ぐらいしか入っていない、俺の好物のエビフライ。ブリの照り焼きとプチトマトもついている。なにより、普段白米が詰めてあるだけのスペースに、おにぎりが三つ綺麗に整列していた。
なんでもないような顔で送り出してくれた母さんだが、この弁当の豪華さを見るに、けっこう心配してくれていたのかもしれない。
だが俺には、異世界でやり遂げなくてはならないことがある。
そう、必ずや愛する先輩を、元の世界に連れ戻すのだ!
――
同じ高校の一学年上、風紀委員の委員長で、俺の憧れの人である。
入学式の日、壇上で新入生への諸注意を述べる姿をはじめて見たそのとき、俺は心臓を撃ち抜かれた。
こんなにも美しい人がいるのか、と。
腰まで届くつややかなストレートの黒髪は、髪留めなどをいっさい使用していないにもかかわらず、自分の本分は主を美しく見せるためです、といわんばかりに絶妙な均衡を保って揺れ。
短めの前髪の下には、怜悧でいささかも視線が揺らぐことのない、大きな瞳。
スレンダーな体型に、すらりと伸びた脚。爪の先まで神経が行き届いているのかというほどに細やかで、洗練された立ち居振る舞い。すべてが俺を打ちのめした。
そう、まさしくそれは一目惚れだったのだ。
俺は先輩に近づきたくて、風紀委員に入った。成績優秀であるという噂を聞いたから、勉強も頑張った。
やがて一年が経ち、今年は先輩とともに過ごせる最後の学年。一年を通じた委員会活動でけっこう仲も深まった気がするし、ラブコメみたいな甘酸っぱいイベントがたくさん待っている年になるだろう、と思っていた。
そして先輩の卒業式の日に告白し、
「一年待っていてくれ。必ず俺も、同じ大学に行くからな……」
「……絶対だよ。待ってるから」
みたいな展開になると、思っていたのだが。
春休み、先輩は突如として姿を消した。
さらにそのまま一学期のあいだ、神奈先輩は一度も登校しなかった。
それどころか、さりげなく毎日監視していた先輩の家の周囲や、よく行く図書館、お気に入りのカフェなどでも、一切姿を見かけることすらなかったのだ。
「ああ、あの子ねえ……」
よもや深刻な引きこもりか、と思い、たまりかねて突入したご自宅のお母様の言うところによると、
「ちょっと異世界行ってくるって言って、ふらりと行っちゃったのよね。困った子だわ」
とのことである。
俺はクールな先輩の意外にお茶目な一面に惚れ直したわけだが、それはさておき。
一学期を全欠席ということは当然、少なくとも留年は確定だろう。
来年一緒に三年生になれるのだから留年はむしろ喜ばしいとしても、このままでは中退、どころか、異世界に住み着いて二度とこちらに戻ってこないかもしれない。それは無論俺にとっても喜ばしくないし、先生方も先輩のお父様お母様も困っていらっしゃる。
そこで、俺がひと肌脱ぐことにしたのだ。
待ちに待った夏休み初日。俺は家族に別れを告げ、はるばる異世界へと出掛けたのである。
何としてもこの夏休み中に、神奈先輩を連れ戻すと誓って……。
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