第14話 夢の中

* * * * *


 夜。

 ふたりっきりの個室で。

 窓辺のカーテンを握りしめながら私は。

 自分の持っている片手のグラスがカタカタ震えているのに気が付く。


『今宵……私を……【妻】……に……』


 声が震えてる。

 ダメよ。落ち着くのよ。私。


 静まれ私の心臓。

 ああ、心臓が鳴りすぎて破けちゃいそう。


『お前の……【妻】に……』


 きゃあ、言っちゃった。

 とうとう私、に言っちゃったわ……!


『オスカル』


 きゃあ!

 私は後ろから伸びてきた腕の感触に声をあげそうになる。


 私の名を呼び、抱きしめるのは。

 この世で一番愛おしい男性。


 幼き頃より共に育ち、常に私のそばに居た私の従者。

 女でありながら男の姿をして生き続けたこの私を今まで見守り、愛し続けてくれた……。

 私のアンドレ。


 彼は私の身体を抱き、私の顎を引き寄せ、口付けようとした。


『っいやっ……!』


 小さく叫んで、私は思わず彼から身を離す。

 だめ、やっぱり。


 こ ・ わ ・ い  。


 だって私、初めてだもの。


『大丈夫』


 そんな私の肩をつかみ、彼は自分の方に向けさせる。


 ああ。

 その目で見つめられたら。

 力が抜けちゃう。


 黒ぶどうの髪、黒曜石の瞳。

 私のアンドレ様。


 彼は私の胸に顔を埋め。

 上目遣いでこう囁くの。


『怖く……ないから……』


 そのままお姫様抱っこをされてベッドに運ばれる私。


 ああ……! 今宵、私たち、待ちに待ってとうとう結ばれるのね……!


 感動に打ち震え、私は彼に抱きついた。


 生まれてきて良かった――フランス、万歳――!



 * * * * *



「ぶはっ!」


 アンドレ様とまさに結ばれようとする感動に浸っていた私は。

 耳に飛び込んできたその品性の欠片もない笑い声にぱっちりと目を開けた。


「あはははは」


 突っ伏していたキッチンのテーブルから顔をあげて。

 私はその声の主を探し出す。

 居た。


「いや、これ……あははは」


 私の視線に気が付いたのか、リビングのソファーに寝ころんでいた、緑に白線ジャージ姿のヨシュアはこっちを見て笑うのをやめた。


「ごめん、お嬢。起こしちゃった?」

「ちょっと、なに勝手に私のマンガ読んでるのよ!」


 私はヨシュアに怒鳴り声をあげる。


 私の恋のバイブル「ベルサイユのばら」じゃないのよ!


 私は立ち上がるとあわててヨシュアの手の中のベルばらを近寄って奪い取った。


「あはは、ごめん。おじさんがあがっていいよ、ていうから。部屋に来たらお嬢が寝てて、このマンガがあって、ちょっと読んでみただけ。くく」


 ヨシュアは悪びれもせず、ソファーから起き上がってまた思い出し笑いをする。

 もう、パパったら、私に聞かないで勝手にコイツを中に入れて! 

 私はおそらく地下室の工房で仕事しているパパに文句を言った。


「だめだ、ちょっとツボに入った」


 なによ。

 一体、私の聖なる「ベルばら」の何処にそんなバカ笑いするシーンがあるというのよ。


 訳が分からない私はヨシュアが開いていたページに目を落とした。


 ――ロザリーとオスカル様の別れのシーンね。


「ベルばら」を知らない人のために詳しく説明するとね。

 主人公、男装の麗人オスカル様を恋い慕う、ロザリーという名前の貧しき心優しき少女が登場人物にいるの。

 ロザリーは平民だったけど実は貴族の生まれ。貴族のお屋敷に移り住むことになって、お世話になっていたオスカル様と別れることになるのだけれど。

 オスカル様との別れがあまりにも辛いロザリー。

 オスカル様も特に可愛がっていた春風のような少女、ロザリーとの別れがとても辛いご様子。

 悲しみの中、オスカル様はね、「はなむけに」と彼女にプレゼントを贈ろうとするの。


「では、これを」


 そう言ってロザリーに渡すの。


 自身の肖像画を。





「じ、自分の肖像画っ……自分の絵……!」


 ヨシュアが再び身をよじって笑い出した。


 なんなのよ!

 どうしておかしいのよ!

 自分のことを慕うロザリーが一番喜ぶ素晴らしい贈り物でしょう?

 そんなオスカル様の優しいお心遣いの何がおかしいのよ!


 オスカル様への侮辱に憤慨して声も出せない私を見て、ようやく笑うのをやめたヨシュアがまた目を細めた。


「よだれ、たれてるよ」


 はっ!

 私はあわてて口元をぬぐった。


「ニヤニヤしてすごい嬉しそうに眠ってるからさ。起こすのも気が引けて」

「にやにやなんかしてないわよ!」

「どんだけいい夢見てんのかな、て。ベルサイユでラブシーンでもしてたの?」

「アンドレ様の夢なんてみてないわよ!」


 言ってしまってから私は気づいた。

 あら、ぼ、墓穴を掘っちゃったかしら。


 だ、大丈夫よ。アンドレ様と言っても、どのシーンの夢を見ていたなんて分かりっこないわよね。


 心配になって自分に言い聞かせた私だけど。

 次の瞬間、聞こえたヨシュアの声に凍りついた。


「『怖く……ないから……』」


 な、なんですって……!

 私は目を見開いてヨシュアを見る。


「あはは……怖く……ないから、だって。少女漫画のエロシーン、って面白いね」


 バカにしたわね。

 馬鹿にしたわね、私のアンドレ様を。

 わなわな、と私はふるえてヨシュアをにらみつける。


 私の【初夜に言われたい言葉十選 アンドレ様編】のうちのひとつを、よくもバカにしたわね!


 ああ、もう、どうしてよりにもよってそのシーンのページを開いたまま、私、寝ちゃったのよ!


「お嬢はあんなマンガ読んでるんだねえ」


 意地悪くヨシュアは笑いをこらえるように唇をゆがめる。


 しかも、こいつ。

 アンドレ様と同じ黒い髪、黒目で。

 私の前で、あのセリフを言うなんて……!


 許せない!

 これからあのシーンを思い浮かべるたびにあんたの声で脳内リフレインされるに決まってるでしょ!

 どうしてくれるのよ!


 私はちょっと涙が出そうになりながら真っ赤な顔で叫んだ。


「あんただって、橋の下とかゴミ捨て場からエロ本持って帰ってるでしょ!」

「だって金がねえんだもん」

「いやっ、汚い、フケツ!」

「だって金がねえんだもん」

『おうおう、ご両人。痴話げんかは犬も食わねえぜ。いい加減にしてくんな』


 ……なに?


 私は途中で加わった、いやに威勢がいい声に言葉をのんだ。


『ここだぜ、お嬢ちゃん』


 顔のすぐ前で今度はその声がしたわ。

 目の前につつーと、ぶらさがってきたその物体に、私が焦点を合わせると。


 そいつは生意気にも八本ある手のうちのひとつをこっちに振って見せた。


『お初にお目にかかりやす。俺はイチローだ。以後、お見知りおきを』


 それは。

 真っ黒な手のひら大の蜘蛛だったわ。


「きゃあああああああ!」








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