第10話 自分らしく
「桜井さん」
望遠鏡を覗き込んでいた顔をくるりとこちらに向ける。改めて見ると、確かに童顔だ。
「……どうしたの、そんなに私の顔をじろじろと見て。何か顔についてる?」
……普通に会話できるんだけどな。
「いえ、何でも」
「そう」
彼女はそう言って望遠鏡に向き直る。
「ところで、桜井さんは毎週日曜日にここに来ているんですか」
「うん、日曜日だけ。仕事の予定とか天気の関係とかで、毎週ってわけにはいかないけどね」
望遠鏡の微動ハンドルを回す微かな音が浜辺に打ち寄せる波に飲み込まれていく。
「仕事は何をされているんですか」
微動ハンドルを回す手が止まる。それは一瞬のことで、再び微動ハンドルが回り始める。
「科学者。薬の研究をしているの」
薬の研究。今の俺には想像できない世界がそこには広がっている。薬をつくる仕事というのは、一体どういったことをするのだろうか。
この話題をどう広げたらいいのか、今の俺には分からなかった。
「……天体少女って知っていますか」
代わりに頭に浮かんできたのは、この話題だ。
「天体少女? 何、漫画やアニメの話?」
ごめん、私、そういう話題には全然ついていけなくて。
微動ハンドルから離した手で、ごめんなさいのポーズをとる彼女は、童顔とも相まって、とても幼く見えた。
年齢を聞いてみたいという衝動にかられたが、女性に年齢を聞くのはマナーとしてどうかと思い直す。
「私の歳、気になる?」
表情に出ていたのだろうか。自分から年齢の話題を持ち出す彼女に呆気にとられて、言葉を返すことができない。
「ひ・み・つ」
……やっぱり幼く見える。
「今、失礼なこと考えたでしょ。……まあ、いいわ。ヒントだけ教えてあげる。今年で科学者として働き始めて、詳しく言えば、製薬企業の研究職として働き始めて四年目になる」
もう四年経ったんだー。
彼女のつぶやきは、寒さの残る春の夜に、白い息とともに消えていく。
「君はどうなの?」
俺?
「君は何をしているの?」
俺は――。
このときの俺はどうかしていた。最近人には極力離さないようにしていたのに、このときは夜空にすっと吸い込まれていくみたいに、気づけば俺の言葉は夜の闇に染みわたっていった。
「――ピアノ。俺はピアノをしています」
それを聞いた彼女の反応は――。
「ピアノ! すごい! すごいじゃない! ピアノはいつからしているの? 小学生? 幼稚園?」
……すごい食いつきようだった。おそらく今の俺の顔は。いかにも鳩が豆鉄砲をお見舞いされたような顔をしているだろう。
「……三歳です」
三歳かー。早いねー。
大人げないと思ったのか、少し顔を赤らめ、明後日の方向へ目をやりながら、反応が返ってきた。
「私も小さいころにピアノをしていたの。六歳のときから。中学の途中でやめちゃったけど。弾いても弾いてもうまくいかなくて」
「伸び悩んでいたんですか! ピアノ!」
今度は俺がものすごい勢いで食いついてきたのに驚いたのか、桜井さんは体を少しのけぞらせた。
「う、うん。当時はピアノが全然上手くなっている気がしなくて。小学生の頃は入賞することもたびたびあったんだけど、中学になってからは入賞することがほとんどできなくなっちゃて。今思えば、自分らしく演奏していなかったのが敗因――」
ファインダーの微調整をしている彼女の手に食いつきそうな勢いで、顔を彼女の手に近づけ、彼女の顔を覗き込む。
「自分らしくって何ですか。どうやったら自分らしく演奏できますか」
俺の雰囲気から真剣さを感じ取ったのか、彼女は真面目な表情を浮かべる。
「……自分らしくは――自分らしくとしか言えないかな。君がその曲を聴いてどう感じたのか。どんな風に演奏してみたいと思ったのか。そういったものを曲に込める。ただそれだけのシンプルなことだと思う。……当時の私は、とにかく譜面通りに演奏することしか考えていなかった。その曲を私がどう弾きたいのかを考えもしていなかった。演奏に私がいなかった」
夜空を望む彼女は、今にも吸い込まれて消えてしまいそうで、そんな彼女の言葉もまた、波の音に吸い込まれていくみたいに儚げだった。
「どうやったら自分らしく演奏できるのかっていう点については、私には分からない。自分らしく演奏できた経験がないからね。……ただ、一つだけ言えるのは、自分らしい演奏っていうのは流動的で、移ろいやすくて、固定したものではないと思う。演奏者のその日の気分や体調、もしかしたら、その日の天気すら作用するかもしれない。そういったいろいろな要因が重なり合って、積み重なって、一つの曲が、音楽が創り出されるのだと思う。……一つとして同じ演奏はないんだよ。それが人の演奏がもつ魅力なのだとも、私は思うよ」
彼女の瞳には、どのような夜空が映っているのだろうか。
俺が眺めているこの光景とは違うのだろうか
俺は自分らしく夜空を見ているのだろうか。
俺にはわからない。
未だ俺は霧の中にいる。
もしかしたら、彼女も。
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