壱ノ弍 源八郎為朝(二)
「
自分を呼ぶ声が下のほうから聞こえてくる。聞きなれた女の声。それを聞きながらも、ただ空を眺めていた。
海のささやきを背にして、裳着を終えて間もない少女が『八郎』と呼びながら、松林を捜し歩いていた。その傍らには白い毛色をした狼が寄り添うようにいる。
「まったく、どこにいったのかしら。あの大男は……」
いかにも育ちのよさを匂わせる気品と類まれない美貌に反して、その言葉遣いは荒い。探し人に対して何度も毒を吐いていた。
もし彼女の女房がいたならば、
『そのような言葉をもうしてはいけませぬ』
と慌てて正しただろう。
しかし、あいにく、ここには女房の姿はない。ただ狼が一匹連れ添っているだけだ。狼は見た目に似合わぬ態度になれているせいなのか、まったく気にした様子はない。ただ、彼女と同じように八郎を探って周囲を見回していた。
「このバカ大男!! どこにいるのよ!」
「バカでないぞ。おれは……。」
松林の中でひと際目立つ大木だけが桜の木。そこから、声変わりを終えたばかりの若い男の声に、顔を上げると、隣にいた狼も木の上に向かって吠えた。
「あっ。いた」
樹齢百年はすでに超えているだろう大木の太い枝の上。
悠々と座っている大柄の男が、少女たちのほうを見下ろしていた。体つきは、大人と変わらない。けれど、その顔立ちは幼い。
鋭く切れ長の瞳にも、まだいたずら盛りの悪童といった雰囲気を漂わせている。
「八郎、なにをしているの?」
「景色を見ておった。ここから、眺める景色はいいぞ」
「見るのはいいけど、折れるわよ。あなた、図体でかいんだから……」
「そうでもないぞ。もうずいぶんの時間、ここで過ごしているがビクともせぬ。頑丈な木だ」
図体の大きな少年は木の幹を軽くたたいて、空を見上げる。そこには木の葉たちが太陽の光によりキラキラと輝いていた。
それを嬉しそうに眺めている姿がまぶしく思えて、少女は目を細める。
「
「遠慮しておくわ。そんな、はしたないこと、出来ますか」
「なにをいっておる。姫みたいなことを……」
その瞬間、突然槍が少年にめがけて飛んできた。目を見開いた彼だったが、片手で槍をつかみ取る。
「ちっ」
少女は舌打ちをした。
「なにをするのだ」
そういいながらも、彼はまったく動じたふうでもない。あくまで余裕のある顔をして、彼女を見下ろしている。そんな彼の態度に苛立ちを覚えたのはいうまでもない。
「私は、これでも姫よ。
「知っている。それでいて、我、
「そういうことよ」
「まあ、おぬしは姫という雰囲気ではないが……」
「はあ?」
彼女が顔をゆがめていると、少年は枝から飛び降りた。ドーンと地鳴りを響かせながら、見事に着地する。
「姫がこのようなものを投げぬぞ」
男は、自分に投げられた槍を差し出す。彼女は、むっと頬を膨らませながら、それを奪い取り、そっぽを向いた。
「けど、あなたは本当に海を見るの、好きねえ」
「まあな、京の都からでは見えなかったからな。ここにくる道中で、見ることはできたが、ゆっくりとはいかなかったのでな」
「そうなの?都ってそういう処?」
「ああ、四方山に囲まれていた。遠くへ行かないと海など見れぬ。そのころは見たいとも思わなかったが、道中でみてからというもの、虜になった。いつかは海を渡ってみたいものだ」
源八郎為朝と名乗った少年は、大木に触れながら、先ほど見ていた海の方角へ視線を向けた。もう、海など見えない。ただ森林だけが広がっている。
ただかすかに聞こえる海のささやきだけが、彼の好奇心を刺激している。ただ、未知なるものへのあこがれに胸を焦がしているのだ。
眩しい人だ。
白縫にはそう思えた。どこまでも眩しく、おそらく彼は一生、それを失わず、ひたすら自分の道を進んでいくだろう。
「海を渡ってまで、戦でもするの?」
どうも自分は、天邪鬼らしい。そう感じながらも皮肉が出てしまう。
少年は、きょとんとしていた。
そんな表情をする彼に実はこの
少女はこの無邪気で探究心の塊みたいな少年を見るたびに、ただの噂に過ぎないと思える。
筑紫洲の地にくる前には、すでに元服を終えていたとはいえ、年齢は白縫よりも一つ下の十五歳。そんな年端も行かない童が、どのような手段を使って、荒くれものたちを沈めていったのだというのだろうか。彼と出会い、婚姻をしてから、さほど日の浅い白縫には、想像もつかないことだった。
確かに実力はある。
それは認める。
そうでなければ、父の決めたことだとしてしても、この少年との縁談を引き受けるはずがない。この時代の姫君というものは、親の決めた婚姻を拒むなど、御法度なこと。けれど、白縫に限っては、通例が通用しない。もとより、父忠国そんな習わしよりも、娘の意志を尊重する。娘が嫌といえば、すぐに縁談を断ったに違いない。けれど、この婚姻は、白縫にとって、嫌なものではなかった。むしろ、面白きことなのだと受け止めている。
この男といれば、屋敷内で一生過ごすことのない姫君の生涯という人生をぶち壊してくれるような気がしたからだ。案の定、この男といると退屈しない。
「だってそう思うじゃない。あなたは九国と呼ばれているこの地を平定したんでしょ? だから更なる野望を抱いても不思議ではないわ」
「そうだな。確かに……」
「けど、どうしてあなたは、戦を繰り返すの?」
「俺は
「なにをいっているの? 武士は用心棒じゃないの。貴族様方を守るための……」
「なにを言っている。いまのご時勢、武士が勢力をつけていることなどお前でも知っているだろう」
「そうね。確かに特に平家の勢いはすさまじいわね」
八郎は、顔をしかめた。
「やはり、お前は平家側なのだな」
「そういうことじゃないわ。一般的なことよ」
「まあお前の言うとおりだな。父上ではあの平清盛殿に敵うとは思えん」
「息子に言われては形無しだわね」
「しかし、もしそうなったならば、必ず俺は父上をお助けする」
「そうなの。あなたは、本当、父上、好きよね。あなた、確か勘当されたんじゃなかったかしら?」
白縫の言葉に、八郎が俯いた。
確かにそうだ。
彼は、ある者の逆鱗に触れ、都よりもはるか西の国へ、勘当された。
「隙あり!!」
白縫は、俯いたままの八郎に向かって、槍を振りかざす。
しかし、八郎に当たることもなく、むなしく槍の先は空を切っただけだった。
「えーい!!」
それでもなお白縫の槍が八郎へと襲い掛かってくるのだが、その大きな体躯には似合わぬすばやい動きで避けていく。
「もう! ちょこまかと! なんで、そんな大きいのにあたらないの!!」
白縫が苛立たしげに叫びながらも槍を振り回し続ける。それを交わしていた八郎だったが、ついにはその槍を掴み取ってしまった。
「ここまでだ……」
八郎が余裕の表情を浮かべる。
「もう!!」
白縫は槍を八郎の腕から取るとそのまま矛先を地面へと向けた。
「もう少し、手加減してよねえ」
「なにをいっておる。いつも手加減しておるではないか」
「もう、そういうところが腹が立つのよ!見てなさいよ!八郎、絶対にうちまかしてやるんだからね」
八郎が愉快そうに笑いながら背を向けて歩き出すと、白縫は頬を膨らませ八郎の背中を睨みつけたまま、その後を追いかけた。
「ねえ。八郎」
「ん?」
八郎は足を止め、後ろを歩く白縫を振り返る。
「いい加減、黙って屋敷を出るの、やめたら?」
「なぜ?」
「あなたが勝手にうろつくから……」
「ああ、また騒いでいるのか?」
「そうよ。なかなか、戻ってこないから、
「家李は相変わらず大げさだな。そんなに心配する必要もないであろう」
「そうね。確かにね。でも、たぶん、家李の心配は別の意味だと思うわよ。あなたは、怪我することさえもないだろうけど、見ず知らずの人が怪我して大問題になったら、たまったものじゃないものね」
「アハハハハ。そうか」
八郎は豪快に笑うと、白縫の傍らで自分を見上げている白い狼の頭を撫でた。
「
狼を見る八郎の瞳は優しい。切れ長の鋭い眼差し。年の割には大きすぎる背丈。見る者によれば、巨人のようにも見える彼だが、狼の頭を撫でる姿は、どこにでもいる少年そのものだった。
「さてと、帰るとするか。家李も心配していることだろう」
「あっ。ちょっとまってよ」
気づいたときには少年坂道を下り始めていた。少女と白い狼が慌てて彼を追いかけていく。
八郎たちが松林を歩いていると、どこからともなく波の音が聞こえてくる。同時に風に乗って香る潮の匂い。木々が邪魔して見えないが、確かに海を感じることができる。このまま、西へと進めば海へ出るはずだ。けれど、八郎たちが進んでいる方向はまったく別。海の音が遠のいていくばかり。やはり、館に戻らずに海のほうへと向かおうかと考えているときに、遠くからなじみのある声が聞こえてきた。
「どうやら、そういうわけにはいかぬな。面倒なものがきている」
「そういうこという?」
隣で白縫が、半眼させて八郎を見上げた。
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