第8章

第43話

 クラリスを中心とした一騒動が、ひっそりと皆の気づかないところで終わったその翌朝、明里とクラリスは、壁を背に仲良く一枚の毛布を共有し、寄り添って安らかに眠っていた。

 その寝顔からは、つい数時間前に起きていた壮絶な戦いの事を少しも感じられなく、表情だけならばまるで何事もなかったかのようだった。

 しかしそれとは対称的に、二人の顔や腕、特にクラリスの方は濡れた跡や汚れが見てとれた。

 体内時計が起床の時間を知らせたのか、明里はゆっくりと瞼を開き始める。


「うう、ん……うーん?」


 雨の中の戦いで蓄積した疲れからか、若干重い状態の身体のまま、視界の先を見つめる。

 部屋の中の電気は既に点いており、仄かにコンソメスープの香りが漂っていた。

 もう朝食の時間かと思い、明里がゆっくりと身体を動かして毛布を払い、立ち上がってソファー前のテーブルへと視線を移すと、具沢山のコンソメスープを啜るクロムと、その光景を微笑みながら楽しそうに見守るリリアの姿があった。

 起床した明里に最初に気づいたのはリリアだった。


「あら、おはようございます明里様」


 それに釣られるように、クロムもスープが入ったカップを持ちながら振り向く。

 熱さを防ぐためか、カップを持ったその瞬間、それに直接触れるクロムの手の一部分が少しだけ大きくなる。


「おはよう、明里、さん」


「はい、おはようございます」


 明里は軽く一礼をして、挨拶を返す。

 明里が下げた頭を上げると、クロムが不満そうに目を細めながら立ち上がり、明里の前まで歩いて近づいてきた。

 そして立ち止まると、両頬を膨らませてむーっと声を出した。


「水くさい、じゃないですか。一人で、クラリス、さん、連れ戻す、なんて」


「え、えっと……」


「夜遅くにクラリス様を探すなら、ちょっとでも私達に相談してくださってもよかったのに……」


 クロムを後押しするように、リリアも悲しそうな表情で、明里が一人で夜にクラリスを探しに行った事に対しての言葉を投げかける。


「えっと、それは……その……みんな寝ちゃってたし、無理に起こさない方がいいかなって……」


 二人の表情や声色から、自分は申し訳ないことをしてしまっていたと思い、後ろめたさが次第に湧いてきた明里の首は下を向き始める。


「そんな、心配、しなくても、大丈夫。クラリス、さんは、あたし達の、大切な、仲間、なんだから。そのため、だったら、喜んで、ついて、行くよ」


「そうですよ。それに、危険な夜中に明里様を一人にして、もし殺されでもしたら私は、クラリス様に顔向けできません」


 しっかりと目を合わせて話そうと、クロムは明里の顔を下から覗く。

 当の明里の顔は、先程までは二人への罪悪感で曇り気味だったが、その二人の言葉に救われたのか、ハッとした表情の後から明るさを取り戻し始めていた。


「……そっか、ごめんなさい二人とも。いらない心配をかけさせちゃって」


「わかれば、よろしい。すぐ、自分の、中で、押し込め、ちゃうの、悪いとこ、だと、思うよ」


 顔を上げた明里の瞳は少々潤んでいるが、その表情はネガティブな物ではなく、ポジティブの感情が籠められた笑顔だった。

 その様子にクロムは両腕を組んでうんうんと頷き、リリアはホッと安心したように優しく柔らかく微笑んだ。


「うんうん、仲良き事は美しきかな」


「うわっ! いつの間に!」


 三人のすぐ側に、今回の騒動の原因の一因でもあるであろうクランが突然現れた。

 クラン自身は、普段通りに調整室から出てきた後に近づいてきたのではあったが、肝心の三人の間に外部の割り込みを戸惑わせるような雰囲気が出来上がっていたために話しかけることを躊躇し、三人は周りのことが全く目に入っていなかった。

 リリアに関しては、周囲の処理よりも、明里の状態の安否へとシステムの処理が優先されていたために、他の二人と同じように気づかなかった。


「さっきからいたが……しかし、まさか明里くん一人でクラリスを連れ戻してしまうとはな。本当にすごいな」


「原因の、一因が、なんか、言ってる」


 クロムは蔑むような細めた目で、クランを凝視する。

 その視線に、クランはごまかしているのか軽く流すように笑う。


「どうどう。まあ予想通りダウンしまったみたいだが」


「それなんですけど、今のクラリスさんに普通に充電してもいいのかわからなくて、どうすればいいのか……」


 今まではバッテリー切れを起こす前に大抵就寝時間となり、その都度充電を行っていたためにバッテリー切れに直面するということはまずなかった。

 仮にそれが引き起こされたとしても、通常ならば幾多の家電製品と同様に充電を行えばいい話だったが、現在のクラリスは一部構造が変質しており、さらにそれまでは生まれていなかった自我という物が存在している。

 このような今までとは異なるケースが発生してしまったために下手に手を出せず、明里はクランへ状況への対処法を聞かざるを得なかった。


「大丈夫だ。バッテリー切れとは言ったが、実際は完全に切れる前にスリープモードに入るように設定してある。充電後ならば、モードを解除するだけでなんとかなる」


「本当ですか! よし……」


 それを聞いた明里は、即座にリュックサックからリモコンを取り出し、急ぐあまりに手の中からリモコンを落としそうになりながらも、スリープモードの解除を行う。


「信号を受信しました。スリープモードを解除します」


 信号を受信したクラリスは、目を一度見開いて閉じたままの口からシステムメッセージを喋る。

 その後、再び目を閉じてから間もなく、人間と同じ寝起きのように唸り声を出して、ゆっくりと目を開いた。


「ううん……ここは……?」


 視界が少しずつ広がってきたところで、クラリスは頭を動かさず瞳を動かして今自分がいる場所の情報を得ようとする。

 クラリスの視界には、何度も見た覚えのある家具や空間、親しい人物の姿が散見され、今自分がいる場所が主人であるクランの研究所であることを認識した。

 ぼやけた頭と同居した視界の中に、横から一人の少女が入り込む。


「クラリスさん、大丈夫ですか?」


 クラリスの視界が少しずつ鮮明になっていく。次第にはっきりとし始めたその顔、そして語りかけてきたその声は、つい数時間ほど前に背中を合わせて共に戦った少女の顔だった。

 クラリスは頬を少し緩ませて、その者の名前を口にする。


「ああ、大丈夫だ……明里」


 心配をかけさせまいと、クラリスは出来るだけ優しい声色で明里に返事を返す。

 その返事に、クロムは隠しきれない驚きの表情を見せ、同様にリリアも、手で口を押さえて驚いているようなリアクションを見せた。


「クラリス、さんが、明里、さんを、呼び捨て……?」


 困惑と驚きが多くを占めながらも、クロムはどこか面白いものを見たかのようなわくわくとした感情をさらけ出している。

 今までクラン等の身内以外の名前を呼ぶときは『殿』を付けていたクラリスが、明里にだけは唯一呼び捨てで名前を呼んでいることに対し、まるでカップリングが親密になっていく様をリアルで見せ付けられているかのような衝撃を受けていた。


「クラリス様が私達以外を呼び捨てなんて、初めて聞きました……!」


 同様にリリアも呼び捨てに対して驚いているが、リリアの場合は、クラリスのプログラム外のイレギュラーな行動に対する回答を処理し、その中で適切だと判断された人間的な返答を行っているだけだった。


「そんな騒がなくてもいいじゃないか。でも、やっぱりこの呼び方には慣れないな……」


「これから慣れていくと思うよクラリスさん」


「そ、そうだろうか……?」


 些細なことでかつ、大きな変化に皆がそれぞれに反応を見せている中、密かに大きな衝撃を受けている人物が一人いた。

 クランは、見た目には二人程のわかりやすいリアクションはとっていないものの、内心非常に驚愕していた。

 予め設定されている者以外には『殿』を付けて名前を呼ぶように設定したのは、他でもないクラン自身だった。原則として、クラリスはそれに反することはありえない。

 しかし、クラリスはプログラムを弄っていないにもかかわらず、その機械の絶対原則を無視し、人間の相手を呼び捨てにしている。

 目の前で起こっているこの事実に、クランはとてつもない衝撃を受けたのか、目を丸くして瞬きもせず、時が止まったように固まった顔で様々な可能性を考察する思考を巡らせていた。


「……そうだ、少し試したいことがあるから、みんな下がってもらえないか?」


 クラリスは立ち上がり、皆に下がるように頼みながら手を横に避けるような動作を見せながら、ゆっくりとクランの目の前まで歩く。

 ずっと思考をフル回転させていたクランは、クラリスが目の前に来てからも大きく遅れて反応し、視線を顔へと向けた。

 視界に入ったクラリスの顔は、緊張しているようにも見え、そしてその中に揺らぎと同時に決意の現れも見えるような、固い表情をしていた。

 その緊張と揺らぎからか、唇を歪ませつつ、一拍置いてからクラリスが口を開く。


「ご主人、先に謝っておきます。申し訳ありません」


 突然軽く頭を下げて謝罪をした次の瞬間、クラリスは左手を勢いをつけて、クランの右頬めがけて叩きつけようとした。

 しかし、以前と同じようにクラリスの左手は頬に命中する直前で停止し、同時に表情も消え失せた。

 一度目のビンタで停止したときよりも、より頬に近い位置で左手は止まっている。


「マスター登録されている人物への攻撃は禁止事項に設定されてい……」


 クラリスは一度目のビンタの時と同じシステムメッセージを、再び同じように喋り始める。

 しかし、そのメッセージは最後まで発せられることはなく、言い切る前に言葉が詰まったように音声が途切れる。

 その変化にすぐに気づいたクランは、クラリスから目を離さず現状に注視する。

 よく観察してみると、クラリスは不規則かつ小刻みに震え、眼球は焦点の定まらない動きをしていた。


「マスター登録されている人物への攻撃は禁止……じこう……せっててて……禁止しししし……」


 壊れたスピーカーのように、雑音混じりの声でクラリスは震える。

 客観的には不具合で故障しているとしか思えない挙動を見せているが、 明里は不思議とクラリスに壊れたという意識を抱かず、ただじっと見守るという気持ちで見つめていた。

 ただ異常を起こしているのではなく、その目には何かと戦っているように見えた。


「マスタタタタ……登録されてされれれれ攻撃禁止に設定設定せせせせ……禁止されていま…………」


 突然メッセージが止まり、クラリスの声と異常な様子はなりを潜め、つい先程まで激しい状態だったとはとても思えないほど静かになっていた。

 クラン側からは、口をぽかんと開けたままどこに視線を合わせているかもわからない目で、左手を上げたまま停止したクラリスの表情が見えている。


「はぁ……何かと思えば、何かしらのバッティングを起こしてしまったか?」


 ガッカリしたような溜め息と表情で、クランはクラリスの電源を一度切ろうと動き出そうとする。

 その時、クラリスの表情に生気が戻る。

 一瞬にしてクラリスの目は鋭くなり、クランの頬のすぐ横で止まっていた左手がそのまま振り抜かれた。

 一度停止して勢いは殺されていたが、その音は研究所内に波紋のように響き渡った。

 ビンタを受けたクランは頬を手で押さえつつ、全く予想していなかった事態に、今まで見せたことも見ることもないと思われた茫然とした表情をクラリスに向けた。

 当のクラリスも、頬を引っ叩けるとは全く思っていなかったのか、わかりやすく驚愕した表情と共にその左手に視線を向けていた。


「た、叩けた……私が、ご主人を……!」


「大丈夫ですかご主人様!」


 数秒ほどの静寂した空気が漂ったところで、リリアがクランの元へと慌てて駆け寄る。

 叩かれた右頬を優しく撫でるように摩り、心配そうな表情でクランを気遣う。


「……私を叩くとは良い度胸じゃないか」


 小さくニヤリとしながらも、クランの言葉からは叩かれた事から湧き出たほんの少しの怒りと、予想外の事態への興奮が感じ取れた。


「昨日の当てられなかった分も込めました。本気で叩くとご主人は流石に死んでしまうので、不本意ですが手加減をしました」


 自身の行動に自分自身で驚いていたクラリスは、我に帰って自分が思った素直な返答をぶつける。


「いくら本当の事といえども、あれは……嫌でした」


 例え仕えている主人に対してといえど、自分の心から出た言葉を直接ぶつけることができたクラリスの声からは、淀みも揺らぎもなく、真っ直ぐな力強い意思を感じられた。


「――面白い。それならば……」


 何か意味を込めたような前置きをクランが喋ろうとしたところで、大きく腹の虫が明里の方から聞こえてきた。

 まだ朝食を食べてもいない上に、寝る直前に激しい運動をしていたのもあって、強い空腹が襲ってくるのは当然のことではあった。

 二人はその音の主である明里の方を向くと、腹を押さえつつ、顔を真っ赤にしてうつ向いている。

 緊張の糸が途切れた二人は、互いに強張りを緩め、クラリスは明里の側へ、クランは引き寄せられるようにソファーの上に腰を落として体重を任せた。


「その……なんだかごめんなさい」


「いや、むしろありがとう」


 クラリスは明里の頬に優しく触れ、柔らかい笑みを向ける。

 その笑みに、照れ臭い感情と恥ずかしい感情が入りまじり、明里は再び顔を赤くして下を向いた。


「エステル、何かすぐにできる料理はないか?」


「既ニ朝食ノ調理ハ終了シテイマス。再ビ温メ直セバスグニデモ提供デキマスガ」


「よし、それじゃあ頼む」


「カシコマリマシタ」


 エステルは一礼の後でキッチンに向かい、コンロの上に乗せられた鍋に火をかけた。

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