再会?
社内は騒然となり、近くにいた数人の社員が、慌てて沙羽を止めるために駆け寄った。
そう、沙羽はデスクの上に乗り上がると、勢いを付けて黒谷に、膝を使って飛び蹴りをしたのだ。
黒谷には何が起きたのか、全く理解ができなかった。
呆然となったままの状態で上体を起こした黒谷だったが、直ぐさま沙羽に胸倉のジャケットを掴まれると、馬乗りで組み敷かれてしまった。
「なんなの!何が、最初からよ!違うわよ!どうして黙って帰ったり…。心配するじゃない!」
「え!?」
沙羽がそう叫ぶと黒谷が声を上げた。
直ぐに、他の男性社員から抱えられる様にして引き剥がされてしまった沙羽は「え?じゃないわよ!惚けないで~!」と大声で叫んだ。
「な、な、どうしたって言うんだい。一体。」
狼狽える課長の杉本が、やっとの思いで口を開くと、沙羽と、黒谷の二人に質問をした。
「君らは知り合いなのかい?な、何が、どど、どうしてこんな事に…。」
気が動転している杉本が、あばばばば…と声を漏らすと、二人を交互に見ながら二人の返事を待っていた。
未だに取り押さえられてる沙羽は、怒り心頭の様子で黒谷を睨みつけている。
「それが、私にはさっぱり…。知り合いも何も、今日、と言うよりたった今、始めてお会いしたと思うんですが。」
そんな黒谷の言葉を聞いた沙羽は、益々激昂した。
「ぬぁーにぃーをぉー!!」
沙羽が、男性社員に掴まれた腕を振りほどく勢いで前のめりになると、まるで、どこかの餅を搗く芸人のように叫んだ。
すると、透かさず課長の杉本が「やっちまったなー!」と、凄まじい形相で沙羽の方を振り返り叫んでしまって、その場の空気は凍てつき、静まり返って、皆が一斉に顔を歪めて杉本を凝視した。
杉本は再び狼狽えて、「あ、あ、ごめん。つい。ついね。」と、胸元で両手を左右に細かく震えさせながら、周りの社員に肩身を狭くして謝った。
「やっちまったのは、私じゃないですから~!!」
今度は泣きそうな顔をした沙羽が、杉本に泣き付こうとして、掴まれた腕を振りほどき崩折れた。
一体、これは何なんだ。
きっとこの場の誰もが思っていたに違いない。
しかし、この場の誰よりも、そう思っていたのは誰でもない、黒谷だった。
黒谷が怪訝そうに眉を顰めて、どうしてこうなってしまっているのかを考えながら立ち上がると、スーツの誇りを払った。
だけども、いくら考察に考察を重ねても、そこに帰結する原因が思い当たらない。
「な、なんですか、これ。何かのサプライズでしょうか…」
顔を強張らせて、微苦笑を浮かべた黒谷が、誰にともなく聞いてみた。
「え?」
沙羽が、唖然とした表情で黒谷を見上げて、
何言ってるの?
そう思った。
「えええええ~~!?知り合いじゃないの?なんか訳ありで、ぽかったけど?違うの?どっち~?えええええ~~!!」
杉本が更に狼狽したような声を上げた。
「はぁ、…すみません。多分人違いだと思うんですが…。」
誰がどう見ても困惑気味な様子の黒谷に、社員全員が、どういう事だと沙羽の方へと視線を移した。
「でーすーよーねー。江崎さん!一体どうしちゃったんですかー!何だか最近元気もないし、様子も変だったしー。」
そんな沙羽に居た堪れなくなった野口が駆け寄ると、明らかにいつもと様子がおかしい沙羽のその肩に手を添えて、心配そうに顔を覗いた。
「あれ。」
そう言ってハッとなった野口が、顎を引いた。
「江崎さんが変なのは元々だっけ?」
「おい!」
沙羽は呆れて、間髪入れず野口に突っ込みを入れる。
いやいやいやいや、私真面だし!
そう沙羽は思ったが、しかし、思案投げ首の黒谷が
「もし私が、ここまで人を怒らせるような事をしてたなら、忘れるとも思えないですしね…。少なくとも思い当たる節があって、気づくはず…。ですが…。はぁ、すみませんが、やはり人違いをされているとしか…。きっと、その様子じゃ、以前どこかでちょっとぶつかったとか、失礼な事を言ったり、してしまったりとかでの、そんなレベルでもなさそうですし…」
と、ため息混じりにそう言うと、さっきまで沙羽の腕を掴んで取り押さえていた男性社員が口を開いた。
「なんだ、それ。意味わかんね。江崎ぃ、なんか夢でも見てたのかー?だいたいあんたも、そうゆう事ならそんなに謝んなくてもいいんじゃないの?逆にキレてもいいと思うけど。飛び蹴り?されたんだろ?」
それは、沙羽の同期の渡辺大地だった。
透かさず「ボマイェです!」と野口が訂正する。
「…あー、オッケー、わかったわかった。それね。ボマ…」
「ボマイェ!上村シンスケの!」
再び野口が口を挟んでくると、渡辺は辟易した様子で、顎を落とし目を閉じた。
「………。」
知らねーよ。何だっていいよ。そんなのは。
渡辺はそう言おうとしてやめた。
いつも、決まってこの手の話題になると、細かいところで噛み付いてくる野口だ。そんな事を言おうものなら、スッポンの様に噛み付いて離れてはくれなくなる。
そんな野口を一先ず置いといて、渡辺は黒谷に視線を向けた。
「それもそうなんですが、何しろ突然だったので、何がなんだか分からないけど、凄い剣幕でしたし、何か訳があるんだろうと思ったら、とりあえず落ち着いて貰わないことには、話も見えてこないと、そう思ったので…。」
黒谷がそう言うと、周りから感嘆した声が上がる。
「あんた、ほんと人間出来てるな。出木杉君じゃん?」
渡辺がそう言うと、少し離れた所から誰かが吹き出した声がして、
「なべさん、あまり喋ると器と知性の差が浮き彫りになってるっすよ。」
と言う、揶揄うような声が飛んで来た。
「誰だ!今の!坂井だな!」
「違いますよ!俺じゃないっす!ちょっと、田中さん、やめてくださいよ!俺の真似するの!酷くないっすか、それ」
「は、俺じゃないよ!佐藤だろ?」
「いや違うし!お前、人に擦りつけんな!」
「わかったわかった!もういいよ!」
この様に、沙羽を他所にそんな会話が繰り広げられていたが、既に就業開始時間はとっくに過ぎていて、それを気にしていた杉本が、話しを締め括ろうと恐る恐る切り出した。
「えっと~、と言うことは、あれかい?江崎君は寝ぼけてたって事でいいのかな、これは、ねぇ?どうなのかな?」
「その様でーす」
部署内の全員が一斉に杉本の問いに返すと、先程から狼狽しきっていた杉本は「そうか、そうか、江崎君は寝ぼけてたのか」と、笑み崩した。
「えぇぇぇぇ~~!」
沙羽は不服そうに泣き声を上げたが、それは虚しく社内の喧騒に掻き消されてしまった。
杉本が、「それじゃ、今日も頑張ろう、よろしくね~」と言って、そそくさと仕事に取り掛かかると、みんな怪訝そうな顔で沙羽を一瞥して、各々が其々の仕事に取り掛かり始めた。
「違いますってば~~!」
最早、誰も、沙羽の泣き言に耳を貸そうとしない。
何なのこの状況!これじゃまるで、私が頭の可笑しな人みたいじゃない!寝ぼけてる訳ないでしょ!何なの!
沙羽は再び、黒谷の方を見ると睨みつけた。
黒谷も既に皆に倣って仕事に取り掛かっていて、黒谷と同じ1係である渡辺に説明を受けていた。
「え、江崎さん、怖いですよ?さ、仕事しましょう?」
野口が腫れ物に触る様にして、沙羽をデスクに座らせると、今度は「信じられない。ありえない。何なの、これ。ふざけてる…。」と呟き始めた沙羽を挟んで野口と坂井が目を合わせた。
いったい江崎はどうしてしまったのだろうか。さっきのは何だったのだろうか。
二人はそう思った。
沙羽のいる、校閲・校正課では、1係から3係までの三つの班で分かれていて、それぞれが五人程で構成されていた。
大手の出版社とは違い、オフィスも狭いし、そのオフィスが入っているビルも新しくない。
そもそも、売れている雑誌といえば、女性週刊誌と、女性ファッション誌位で、男性向けのファッション誌は、廃刊寸前のところまで来ている。
後は料理、園芸、和装、将棋、釣り等の雑誌と、フリーペーパーを発刊しているのだが、これも正直言って、伸びは今一で良い方ではない。
沙羽の部署はというと、その売り上げに直接影響を出す様な編集や企画とは違って、地味な仕事ではあるのだが、この沙羽の働く出版社が、元々は辞書の発刊から始まった会社なだけあって、誤字脱字等の間違いにはどこよりも煩い会社であった。
今ではデジタル化された辞書のアプリを出していて、これが意外と売れ行きがよく、自社の大事な生命線の一つとなっている。
とは言え、いくら女性週刊誌と女性ファッション誌、そして辞書のアプリが売れてると言っても、経営が行き詰まっていた事は明白な事実。
なので、様々なものを出版させてはいるのだが、小規模な会社な上、社員も少なく、一人で二つの雑誌を任されている者が殆どだ。
じっくりとチェックされる事が出来ない、ほぼ全ての原稿が、最終的に沙羽のいるこの部署に回ってきてチェックされるのだ。
かと言って、この校閲・校正課の人間が多いのかと言えば、そうではなかった。
本や雑誌を、読むのが好きな沙羽でさえも、気分によっては読みたくもなければ、活字から離れたい時だってあるのだ。
例えば、そう、正に今現在のこんな時なんかは、目で追っていても全くと言っていい程頭に入ってこない。
頭にあるのは、後ろに座る、初対面だとしらを切って覆さない黒谷、その男の事だけだ。
だけど今は仕事中である。
沙羽は、黒谷に詰め寄りたい気持ちを必死に抑えて頭を抱え込んだ。
だめだ。捗らない…。
沙羽は勢いよく席を立った。
すると、両隣の野口と坂井もそうだが、同じ係の田中も佐藤も、1係も2係もピクリと動きを止めて息を飲んだ。
「違う!飲み物!もう飛びかからないから!」
そう言うと、沙羽は入り口に向かって行った。部署内が何とも言えない安堵感に包まれる中で、渡辺が黒谷に、「お察しするよ」と言って苦笑いを浮かべると、黒谷も笑ってそれに返した。
渡辺が一通りの説明を終え、自分のデスクに戻って座ると、黒谷はパソコンのスクリーンを眺めながらデスクに両肘を突く。
そして、俯き加減で目を細めると、首を僅かに傾けて、
まさか…、
そう思ったのだ。
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